また『TEXT』の話かよ!はい。Twitterでもずっとくだを巻いているからな。それでいいのか。まあそれはそうと、前回もラーメンズ『TEXT』の最後を飾る「銀河鉄道の夜のような夜」の話をしていたが、今回はそれをメインにしながら、『TEXT』全体についてなんらかの言及ができたらいいなと思っている。前回はこちら。
なんでこんなことになったのかというと、主に公式Youtubeでコントを見返していたのだが、『TEXT』Blu-rayを買って幕間ありVerを10年ぶりくらいに見たところ、おや、話が変わってくるのではないか?と思ったからだ。
ちなみにコミュニケーションについてはそんなに詳しくないのでとんちんかんなことを言っていたらこういう本でも読めよと言ってくれたらありがたい。
以下全体的に『TEXT』のネタバレを含む。内容が前回とオーバーラップする可能性もある。
ここでは、『TEXT』の各コントの要点に簡単に触れながら、最終的に「銀河鉄道の夜のような夜」のラスト「かすりもしねえ!」について考えていきたい。
ゴールデンボールは走ったのか
いきなり「スーパージョッキー」の話だ。「スーパージョッキー」は、片桐演じるジョッキー・馬坂仁が小林演じる競走馬・ゴールデンボールをあの手この手で走らせようとするが失敗し、最終的に馬坂のみが舞台上から走り去り、ゴールデンボールが笑みを浮かべる(そうじゃないこともあるけど……)コントである。台本もそこで終わっている。
ただ、ソフトに収録されている幕間があると話が変わってくる。馬坂が走り去ったあと、一瞬少し明るくなり、ゴールデンボールもその後を追いかけるように走ってゆくのだ。これは……ちょっと話が変わってくるんじゃないのか?
「スーパージョッキー」は、コミュニケーションが拒否され続けるコントである。馬坂が何をしても、基本的にゴールデンボールが反応を示すことはない。(たまに馬坂の方向を向いたりして翻弄するが)ただ、ゴールデンボールがラストに走ったとなると、これは、コミュニケーションは拒否されていたが、コミュニケーションによって伝えたかったことは伝わっており、その結果としての行動がなされた、と言うことが可能になるのではないか?
透明人間が存在しなかろうが
「不透明な会話」は詭弁によって話が見えなくなっていくコントだが、片桐の信念だけ追っていくと、「透明人間はいない」という最初のシーンから、最後のシーンまで、変わってはいない。まあ、その間にいろいろごちゃごちゃとした会話があったわけだが、最初と最後の情報量を比べると、実は何も変わっていない。
では、この会話に意味はなかったのだろうか?
そもそも今作のふたりは、まともに議論をしようとしているわけではない。もしそうなら、きちんと前提を定義してからスタートするはずだ。このコントのタイトルが示すように、ここにあるのは「会話」である。会話でしかない。会話には、目的があるものもあれば、ないものもある。「不透明な会話」では、不透明な展開ではあるが、常に会話が存在する。そしてこれって、案外それだけで、楽しいものなんじゃないかと、思うのだ。とりとめなくあーだこーだと話していること、それこそが目的であり、このコントで示されているものなのだとしたら、ここに「意味」はある。
形式が拘束するコミュニケーション
「条例」はレーモン・クノーの『文体練習』に似ている。
『文体練習』は同じできごとを99種類の違う文体で記述するものなのだが、「条例」では同じできごとを違う「条例」が出た社会で描いている。短歌条例、ハリウッド条例、うやうや条例、ミュージカル条例、そして言葉禁止条例。双方に共通するのが、表現形式が変わると必然的に意味が変わってきてしまうということだ。たとえば、ハリウッド条例の際の「セクシーなお姉様」は他の条例における「エロい姉」に相当することは(観客は)文脈上理解可能だが、ここだけ取り出すと意味合いが結構違うように思われる。「お姉様」は実の姉でなくても言える単語だからだ。(この例適切かわからなかったけどここが一番わかりやすいかなって……)
このコントでは、条例によって設定されたコミュニケーション形式に常に縛られながら、「同じ内容」の話をしている。同じ内容の話に見えるのは、最初に凡例が示されているからだ。(そうでなければ、言葉禁止条例のジェスチャーの意味を正確に理解することはできないだろう)最初に意味を知っている。その意味を異なる拘束下で表現される。異なる拘束であることを、観客は理解している。ここでは、異なるコミュニケーション形式がとられていても、同じ意味を表せることが示されている(あるいは、異なるコミュニケーション形式が取られていると、同じ意味であることを理解するのが困難であることを)
同音異義は交錯するだけで、交わらない
「同音異義の交錯」はまったく違うシチュエーションのふたつの物語が、同音異義語(とジェスチャー)で結びついているように見えるコントだ。結びついて見えるだけで、実際は何の関係もない。それが「銀河鉄道の夜のような夜」への最大のフリのひとつなのだがーー今は一旦そのことは忘れよう。
このコントに、双方向のコミュニケーションは存在しない。前述のように、基本的にはまったく違う世界のふたりのコントだからだ(だから、3本目のラストで同世界だったことが驚きになる)なのに、なんなら、どのコントよりも、この話は「噛み合って見える」。見えるだけなのだが。単語がつながっているだけなのだが。
舞台の「お約束」
「50 on 5」では小林と片桐がそれぞれ別の役を複数の場で演じている。あるときは社員とバイト、あるときは社員とその上司、そしてあるときはーー社長と会社の鬼と書いて社鬼、だったり。「レストランそれぞれ」を思わせるところもあるこのシチュエーションは、バイトと社鬼が同一存在であることを匂わせて終了する。え、別の人じゃなかったの!?
舞台において、同じ人物が別の役を演じることは、ままある。そしてそれは、「お約束」であり、なんとなく観客にインストールされているものだ。もし「銀河鉄道の夜のような夜」で引用されているのが「この構造」そのものだとしたら、どのような結論が導き出せるだろうか。それについてももう少し考えてみたいのだが、それはまた別の話。別の機会にするとしよう。
どちらが死者なのか
「銀河鉄道の夜のような夜」のラストシーンでは、おそらく常磐と金村のどちらかが死んでいる、と見るのが一般的な解釈であろう。そして、金村が死んでいる方が蓋然性が高い。なぜなら、スコールで上着が濡れているし、常磐に金村は見えていない。しかし、ここで考えてほしいのは、常磐と金村は同じ場所にいないだけであって、金村が必ずしも死んでいるとは限らない、ということだ。透明人間はなにもくれないのであった。金村は馬券を渡すことができた。ならーーと反転した読みが現れる。死んでるのは常磐のほうでは?
常磐はあらゆるキャラクター(そう、「銀河鉄道の夜のような夜」は小林演じる常磐と片桐演じるその他すべてのキャラクターの物語である)とコミュニケーションを取ることができない。また、彼が乗っているのは夜中の3時に到着する列車である。そんな列車、普通はない。その点を踏まえると、常磐が死んでいる可能性は十分にある。ただ、この場合はスコールの謎は残る。
どちらを取ってもなんらかの不条理が残るようになっているのだが、どちらが死者なのか?どちらでもいい、というのが、暫定的なわたしの回答である。
「かすりもしねえ!」だからどうした
「銀河鉄道の夜のような夜」のラストシーンにおいて、金村が常磐のポケットに入れた(おそらくはゴールデンボールの)馬券は、「かすりもしねえ」で終わる。常磐は、その馬券を勢いよく放り投げる。おそらく、馬券が顧みられることは二度とないだろう。
このセリフは、馬券が当たらなかったことのみならず、直前のシーンを想起させるようにできている。常磐と金村の存在しなかった会話を。金村がそこにいなかったのだから、存在しなかったコミュニケーションのことを。
これはコミュニケーションの不成立を描いているのだろうか?我々が今まで見てきた物語は、何の意味もなかったのだろうか?
意味がなくとも構わない、というのが今わたしに書ける唯一のことである。「不透明な会話」であのふたりが会話そのものを楽しんでいたように、我々はこの公演を最後まで楽しむことができた。それだけで、十分なのではないだろうか。
そう、常磐と金村のどちらが死んでいるかも、ゴールデンボールが走ったか走らなかったかも、どうでもいいのである。結果ではなくてその過程を、意味ではなくてその形式を、テキストではなくてそれを演じる身体を、我々は十分に楽しんできた。ならば。
誤字のある新聞が存在したところで意味が通じるように、わたしたちはテキストを受け取ることができた、それで、いいんじゃないだろうか。
おわりに:一貫性ではなくて連続性を
『TEXT』は、ここで取り上げた以外にも一貫性を取ろうとすると不条理が発生するところがいくつかある。だが、おそらくはそれで問題がない。それこそ、「不透明な会話」のように、そのときどきを取り出してみると不思議な会話をしているのだが、一本通して見てみると自然な会話になっているような。そんなことが、『TEXT』全体に起こっているのではないかと考えられる。そもそも、誰が『TEXT』に一貫していなければならない、なんて言ったんだ。別にテキストは一貫している必要なんてない。そのときどきでいうことが変わったっていい、そこにコミュニケーションに見えるものがあるのが大事でーーその瞬間を、楽しめたのならば、楽しい瞬間が連なっているのならば、全体として「楽しかった」と言えるのだろう。