ラーメンズ「銀河鉄道の夜のような夜」:反転しているのは何なのか

matsuri269
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公開:2024/10/15

以前このような記事を書いた。

これでラーメンズ第17回公演『TEXT』の最後を飾る「銀河鉄道の夜のような夜」に関しては考え尽くしたのではないかと思っていたのだが、見返したり、戯曲集を読み返したら新しい疑問点が発生してしまったので、書くこととする。

今回主に扱うのは「反転」のモチーフだ。まず、常磐は「反転」していることに気が付かないのではないかという例を引き、そこから、このコントで「反転」している要素を述べ、常磐の物語としての「銀河鉄道の夜のような夜」はどのように終わっているかについて考えていきたい。

なお、今回は基本的に「銀河鉄道の夜のような夜」単体を扱う。サブテキストとして、タイトルから明示的に元ネタとされている『銀河鉄道の夜』にも多少言及する。以下のテキストは完全にネタバレのため、できたら「銀河鉄道の夜のような夜」を見てから読んでほしい。


左右反転している、だから?

小林(独白)「新聞の活字は、金属製のハンコのようなパーツを組み合わせて出来ています。活字の倉庫には、ひらがな、かたかな、アルファベットや数字はもちろん、辞書に載っている全ての漢字が、そろっています。手書きの原稿を見ながら、一文字一文字をピンセットで拾って、箱に並べる。そこにインクをつけて刷られるわけですから、当然それらのパーツは左右反転しています。だから、似てる字を間違えちゃうことがよくあるんです。政治欄。投票の『票』を、『栗』」

「銀河鉄道の夜のような夜」は、活版印刷所にいる常磐の独白からスタートする。それによると、どうやら、常磐は活字を拾う際に、似ている字を間違えてしまうことがよくあるそうだ。しかし、ここで考えてみてほしい。その前に、「それらのパーツは左右反転しています」と述べているのだ。左右反転しているから、活字を拾う際に間違えやすい、と言っているのだ。にもかかわらず、その後に出てくる例示は『票』と『栗』である。何かがおかしいと思わないだろうか。そう、これらの漢字は左右対称である(ハネの方向など、多少違うところもあるが、これを左右反転しているから間違えるという例に持ってくるには不適切な程度には、左右対称である。また、この後に、『払』と『仏』の例も出てくる。これらの漢字は明らかに左右不対称であり、左右反転しているから間違える、と言うのならばまずこちらを持ってくればよかったのではないだろうか)

ならば、この不適切とも言える例には、何か意味があるのではないだろうか?そう考えて、このエッセイは進む。

この例から、常磐の論理に対するファジーさを読み取ることもできる(実際、この後の会話を見ていると、そのように読めるところもある)が、ここでは、「常磐は左右反転しているものとそうでないものをあまり区別していないのではないか」という説をとってみたい。左右対称/不対称に対する感覚があまりないから、左右反転しているから間違えやすい、の例を、左右対称のものにしたのではないかと。

そして、このコントには、『銀河鉄道の夜』から見ると対称的な要素が、いくつか見られる。

『銀河鉄道の夜』の反転としての「銀河鉄道の夜のような夜」

名前からするに、常磐:ジョバンニ、金村:カンパネルラの対応が見られる。以下、それをベースとして、『銀河鉄道の夜』と「銀河鉄道の夜のような夜」の対比を読み解いていく。

第一に、常磐と「お母さん」の対話である。常磐は、「お母さん」とろくにコミュニケーションをとることができない。なぜなら、「お母さん」は常磐の言うことを繰り返すばかりだし、文脈を無視して言いたいことを言ってくるからだ。最終的に、常磐は「行ってきます」と、「お母さん」の言うことを遮って家を出ることとなる。

「銀河鉄道の夜」でも、ジョバンニと母親の対話シーンが見られるが、特に違和感のある描写ではない。

「お母さん。今日は角砂糖を買ってきたよ。牛乳に入れてあげようと思って。」

「ああ、お前さきにおあがり。あたしはまだほしくないんだから。」

「お母さん。姉さんはいつ帰ったの。」

「ああ三時ころ帰ったよ。みんなそこらをしてくれてね。」

「お母さんの牛乳は来ていないんだろうか。」

「来なかったろうかねえ。」

「ぼく行ってとって来よう。」

ここから、会話が成立する母親⇔会話が成立しない母親の「反転」があるということができるのではないだろうか。

また、常磐が牛乳屋にたどり着いたかはこのコントのテキストから読み取ることができないが(「遠いな、牛乳屋!」というセリフはある)ジョバンニは物語のラストで牛乳屋に到達している。

おそらく、このコントの世界に『銀河鉄道の夜』はない。それはそうだろう。しかし、常磐が「反転」に気付かないのは、それだけではない。

次に、全体の構造として「反転」している箇所について述べる。

「常磐」と「ナレーション」

戯曲集に収録されている脚本の最初には、「小林…常磐」と役名が書かれている。小林がここで演じている役柄が常磐であることに対して異論はない。ただ、役割として、ナレーション的なものを担っているところはないだろうか。

たとえば、牛乳屋のシーンの最初。

小林「ただいま。

その日は、牛乳が届いていませんでした。

「ただいま」は家にいる誰か(おそらくは、母親)に対するセリフだろう。ならば、次の「その日は、牛乳が届いていませんでした」は誰に対するセリフだろうか?これは、誰に対するものでもない、と考えられる。小説だったら、地の文になるものだろう。このように、小林は、常磐以外にもナレーション的な役割を担っているシーンがいくつか見られる。それは、常磐の「主人公性」を担保するものだろう。

しかし、その主人公性が「反転」するシーンが一箇所だけある。それが、一回目の「銀河鉄道」のシーンだ。

片桐「昔お祭りに来てくれたバンドで、『ダイアナ・ソウルス』って覚えてるか?」

小林「あの人たち何やってんだ」

片桐「もう解散して、今は新人バンドをスカウトして育ててるらしい」

小林「発掘か」

そう、このシークエンスでだけ、金村が主導権をとっているのだ。少なくとも、そのように見えるようになっている。その他のシーンでは、常磐がすべて主導権をとっており、片桐が演じる役は「それ以外」であったにもかかわらず。ここにも反転の構図が見られる。そして常磐は反転に気が付かない。気付きようがない。

因果律の反転

また、常磐が金村と会話している街のシーンの後半には、このような会話が見られる。

片桐「天の川の水!?イコールUFO!?」

小林「イコールじゃないよ。スコールだよ」

片桐「そうか、スコールか。それで俺の上着はびしょびしょなのか。じゃあな」

小林「うん。お祭り楽しんで」

通例、上着が濡れていたら、それに気がつくはずである。少なくとも、上着が濡れている当事者である金村は。しかし、この会話を見ると、「スコールだよ」と言われたところで「上着が濡れている」ことになったように思われる。「反転」の立場からすると、常磐がスコールと言ったことによって、金村はスコールに遭ったことになった、そのような因果律の「反転」を見て取ることができるだろう。

自らが死んでいることに気付かない死者としての常磐

ここまで、さまざまな「反転」について見てきたのだが、一番大きな反転がラストシーンにあるのではないか、と考えている。

「銀河鉄道の夜」のラストシーンにおいて、カンパネルラは川に落ちて落命したのではないかということが示唆される。

「ザネリがね、舟の上から烏うりのあかりを水の流れる方へ押してやろうとしたんだ。そのとき舟がゆれたもんだから水へ落っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛びこんだんだ。そしてザネリを舟の方へ押してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ。」

「銀河鉄道の夜のような夜」において、おそらく、一般的に「死んだ」とみなされているのは金村のほうだろう。一回目の銀河鉄道のシーンで「俺、本当はここにはいないわ」と言っているし、二回目のシーンに金村はいない。しかし、反転の構図があるとしたら、どうだろうか。ほんとうに死んでいるのは常磐のほうなのではないだろうか。

まず、最後のシーンは、戯曲集には「銀河鉄道」と書かれている。ここから、シーンの舞台は銀河鉄道であると認識して差し支えないだろう。また、到着時間が三時であると常磐によって述べられているが、これは一般的な列車だとすると遅すぎる(活版印刷所の帰りなのだから、おそらくは夕刻の話であり、その後のAM3時と解釈するのが妥当だろう)ので、ある程度フィクショナルな空間であると認識してもよいのではないだろうか。そして、「銀河鉄道」に乗っているのは常磐の方である。金村ではなくて。金村は「乗る汽車を間違えて」銀河鉄道にいるのだ。常磐は(おそらくは正規のチケットでもって)銀河鉄道にいるのだ。

ならば、死者の汽車たる(銀河鉄道が死者の汽車であるという連想は『銀河鉄道の夜』によるものなのだが)、銀河鉄道に乗っているのが常磐の方であるのならば、『銀河鉄道の夜』から反転して、死んでいるのは常磐なのではないだろうか。「銀河鉄道の夜のような夜」は汽笛が鳴り響いて、暗転して、終わる。この汽車はまだまだ先に進んでいくのだ。

常磐は反転に気が付かない。活字の反転に気が付かないのと、同じように。

「かすりもしない」のは何だったのか

「銀河鉄道」、一回目のラストでは、金村はこう言っている。

片桐「おい、トキワ。なんだよ。透明人間あつかいすんなよ。おい。(頭を叩くが、小林は気付かない)」

金村がいない、二回目の繰り返しでは、こうなっている。

小林「……痛って!……あれ?」

ここでは、小林が何かに叩かれたような痛みを感じている。一回目とは異なって。これは、一回目と二回目が連続しているように見せているが、実はそうではなくて、別世界線であることを示しているのではないだろうか。

小林「(ポケットの馬券を見つける)馬券?……あ、新聞。(新聞を読む)……!!!……かすりもしねえ!」

金村が一回目の最後に常磐のポケットに馬券を入れたのは事実だ。しかし、それが二回目のラストで常磐が見つけた馬券である保証はどこにもない。「あの馬券」が当たったか当たらなかったかは、わからない。これもまた思い込みを利用した「反転」の図式であると言えるのではないだろうか。

そう、一回目と二回目の「銀河鉄道」は、最初から「かすりもしなかった」のだ。そもそも、別の話なのだから。

おわりに:結局人間って孤独なんだろうか

今回は、「銀河鉄道の夜のような夜」冒頭の左右反転のくだり、例示の不適当さになんらかの意味があるのではないかと考えて読解を行った。「反転」が多々見られることと、それに常磐が気付く様子がないこと、それが「銀河鉄道の夜のような夜」を貫くメインギミックなのではないだろうか、という観点で読んでいくと、ある程度の整合性が得られ、最後に死んでいるのは常磐なのではないだろうか(そしてそれに気付かないのではないだろうか)という結論が得られた。

最後に、このコントを見た多くの人が印象に残るシーンとして挙げるであろう、このやりとりを取り上げて、終わる。

片桐「ひとりでやってろ」

小林「ひとりでやってもつまんないよ」

この会話も、まあ浮いているといえば、浮いている(金村が「ひとりでやってろ」と言うのには、微妙に文脈が足りないのではないだろうか。このやりとりの良さを損なうものではないのだが)二回目を見ることによって、常磐がほんとうに「ひとりでやってる」ことになるのだが、ここは一回目の世界だ。もしも、一回目と二回目が限りなく似ているだけで別の世界であるのならば、少なくとも、金村にとっては、ここまでは、コミュニケーションだったのだ。そのあと、「本当はここにはいない」ことに気が付くとしても。その瞬間までは。

結局、ずっと孤独だったのは常磐の方だったのだ。常磐の世界には、コミュニケーション可能な他者がいない。牛乳屋も、母親も、コミュニケーションが取れる他者ではなかった。金村の世界には、途中まで常磐がいた。コミュニケーションが取れていると信じられていた。その後、金村がどのように歩んでいくかは秘されておりーー当然、常磐の行く末も、わからない。