2024.5.24

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5時台に目が覚めてしまい、ああ…… となったが二度寝する気にもなれずにベッドの中にいた。昨晩は0時半に寝たので本当はもっと睡眠時間をとりたかった。

昨晩、すごくひさしぶりに(実際はそうでもないのだが、気分の上では)パートナーと30分くらい電話した。声色からして疲れていることが伝わってきたけれど、話したいことがたくさんあったので、たくさん話してしまった。今見返したら、目的なくただおしゃべりしたのは土曜日ぶりだった。あまりの忙しさに、昨日も今日も、わたしが送ったボイスメッセージが聞けていないらしい。いいよ大したこと言ってないんだから、と言ったら、「それがいいんじゃん!大したことないことを言っているからいいんじゃん……」と言っていて、たしかにそれはそうだな、と納得した。バケツリレーのように、話し手から受け手へ「情報を伝達する」ことがコミュニケーションの役割なのではない(グライスのバケツリレー式コミュニケーションモデルは批判的に検討されるべき、と三木那由他が書いていたのを読んだばかりなので。実際にコミュニケーションで起こっているのは、情報伝達ではないのかも、と思う)。コミュニケーションをとること自体がコミットメントであるという側面はとても大切だし、共通の基盤(参照するスキーマと言えばいいのかな)を生成的に形成している、というほうが近いのかもしれない。なんでもないことを聞けるのはいつも嬉しいし、そういうふうにひとと一緒にいたいな、と思う。なんでもないおしゃべりこそが魔除け、とどこかで聞いて以来、本当にそうだな、と思って暮らしている。魔、除けていきたい。みんなともっと気軽におしゃべりしたいなあ。

起きてきてから、パッションフルーツとパイナップルを切って食べた。パッションフルーツって、思ったよりも酸っぱい。ケーキに使われているソースは好きだが、そのままだとかなり酸っぱいかも。パイナップルは甘くて美味しかった。南国っぽいフルーツって、切り方を調べて食べる、というのがいつもと違っておもしろい。

シャワーを浴びたら、結局野菜も食べたくなったので、たまねぎ、パプリカ、じゃがいものオムレツを作り、ケチャップをかけて食べた。

うんうん言いながら服を選んで、遅れないように家を出てきた。今日はブーゲンビリアの色のワンピースに白のTシャツを合わせ、デニムを履き、桜色のリネンの靴下、ネイビーのローカットのコンバース。メイクはピンクできらきらにしておいたので、服も思いっきりピンクにしてみた。28℃と聞いていたので日傘を持とうかと合う色の靴を選んだのだが、日焼け止めは塗り忘れたけれどそんなに歩かないし、夜は荷物になるし、PCのかばんも重いし……となって結局日傘は置いてきた。

出勤の電車では、昨日作った6月のプレイリストを聴いてチェックしつつ、本を読んだ。プレイリスト、めっちゃ上出来かもしれない。パートナーに聴いてもらうのが楽しみ。

いやめっちゃ眠いな!仕事でやることもないから日記を書いているけど、眠すぎる。そろそろ議事録書かないといけない。……と書いたので、さっそく議事録のファイルを開き、書き上げて送った。会議をしてからもう2週間くらい経ってしまっていて申し訳ない。腰が重いだけで、書いたらあっという間に書きあがるんだよなあ。何か書いているあいだはへいきだけど、書き終えたらまた眠くなった。わーん。あくびがたくさん出る。一昨日、昨日と、仕事後に会議+ごはんを続けたし、お酒も1杯ずつ飲んだ(一昨日はお気に入りの生すだちサワー、昨日は青島ビール。アルコールが好きなわけではないので避けてもいいのだが、味がおいしそうなものを選んでしまう)うえ、就寝が日付が変わってから。すこしでも睡眠不足が続くと、こんなふうに眠気が来るんだな。今日はいつもと違う事務所にお世話になっているので、机の上で寝るわけにもいかず、あくびして涙で顔をびしょびしょにしてPCの前に座っている。眠気がひどいと、「な、泣いてる……?」くらいめちゃくちゃ涙が出ます。

お昼休みにゆで卵をもらった。ひじきごはんのおにぎりと、モロヘイヤとしめじの冷奴を買ってきて、一緒に食べた。エレベーターの鏡で自分の顔を見たら、なんだかすっきりしない顔だった。

お昼休みに本を読んだら、読み終わってしまいそうで危なかった。夜、友人との約束の待ち時間のために、少しだけ残しておく必要がある。夜は神保町なので本を買ってもいいし、時間があるので散歩がてら徒歩で向かって時間をつぶしてもいいな。

こんなに暇なら仕事中にいろいろやりたいところだが、今日はいかんせん眠すぎる。市民運動の文脈の中でイベントを企画運営するのも楽しそうだなと思いつき、気が向いたら企画書でも書いてみようかと思っていたのだけど、それどころでもないくらい眠い。イベントやろうかなと思った経緯についても書きたいが、眠すぎて書けない(どんだけ)。

眠くて文章すら書けないので、友人(とこれから呼びたいひとだけど、まだフォロワーさんかも。わたしのなかではもう友人……)の日記を読む。そのひとの文章がすごく好きで、他人の日記におどろくほど興味がないわたし(いつも、「やるのは好きだけど、見るのはべつに……」なのだ)が日々更新を楽しみにしている。知り合いになる以前の日記はまだ読んでいない部分も多いので、「とっておき」のおやつのように読みに行く。

わたしが読みたい本ぜんぶ読んでいるひとかもしれない。

「本を読んだ」ことがえらいわけではないんだけど、本をようけ読んでいるひとに対して、どうしてもあらがい難く、魅力と(わたしにはめずらしいことだが)羨望を感じてしまう。身体や心の調子、忙しさや時間的制約、もともとの体力や性質によって、「本が読めない」ひとがいる(自分自身や、近しいひとがそこに含まれ、さらに近しくはないが読書においてディスアビリティがあるひとの存在を想定する)、ということを考えたとき、読書というすごく特権性の高い行為が可能でありかつ遂行しているひとを「よし」と評価することを、うしろめたく、また問題含みであるからあまり言わないようにしたい、と思う。本を読むひとが好きだけど、本を読まないひとも好きだ。それは当然のこと。でも、「本めちゃくちゃ読んでるな、このひと……」と思うとき、「いいなあ、素敵だな」「自分は同じようにできない」「本が読めない時もたくさんある」「でもたくさん本を読んでいるひとにわたしもなりたい」の順番で、心のなかが多少ぐちゃっとする。「羨ましい」と「憧れ」は、わたしの二大・抱かない感情なんですが、特定の文脈でのみ頻出します。(わたしの読みたいと思う)本をたくさん読んでいる(ように見える)ひとに対して抱く、 ということは、「自分がやりたいと思っている"まさにそのこと"を、しっかりとやっている」ひとを見たときにだけ、その感情が出てくるのかも。

「自分はやらないけれど、あなたが"それ"を生き生きとやっているのは最高だね!わたしもあなたのように、自分自身に打ち込みたいな!」がわたしのスタイルなのだけど、「あなたがやっている"それ"の内容ややり方こそが、まさにわたしがやりたいものだ」と重なってしまったときに、羨望が発生するみたい。うむ、ここまで微分できると、「でもわたしはわたしでしかないので……」と自分に言い聞かせることができる。基本的には、ひとはひと、わたしはわたし、と、考えるまでもなく身体の感覚や心の機能に染みついているわたしは、最高なひとを見たとき、「わあ、あなたって最高!そのようにあってくれてありがとう!!自分自身であろうとすること、別の場所で、違うやり方で、ともにやっていこうね……!」と、よろこぶことができる。「同志が、先人がここにもいた!うれしい!!ありがたい!わたしもわたしをやるぞ!!」と思うことが多いので、こうしてごくたまに「わたしもあなたがやってるそれがやりたいんだよなあ」になったときだけ、感情の取り扱いがおぼつかない。

思い返せば、大学時代いちばん影響を受けた政治学の教授(別の大学の教授だったが)が、「恩師ではなく、友人か、同志と呼んでください」と伝えてくださってから、わたしはひとに憧れなくてもいいんだ、とほっとしたような気がする。「尊敬」はすなわち「憧れ」ではないんだ、ということがはっきりしたのが、その言葉だったと思う。それからは、尊敬だけするようになった。ひとというものが、尊敬すべき同志や友人になった。

ここまで書いて、「憧れ」は遠ざけであり、「羨ましい」は身を重ねたい、あるいはそこを占めたい、成り代わりたい、という欲望なのではないかと感じた。似ているけれど、反対の作用が起こっているかも。しかし、どちらも他者をひととして尊重するために適切な距離だとは思わないなあ。最初にこの二つを併記してしまったが、峻別して用いるべきだったのだな、と書いてから気づきました。よきように読み替えてくださいませ。

弁護士さんが「3時過ぎたよ、アイス食べない?」と冷凍庫のあのトレーを引き出して取って見せてくれ、その中からアーモンドチョコにつつまれたバニラのアイスを選ぶ。アイスをかじったら、自分でもびっくりするくらいに目がぱっちりと冴えてきた。甘いものという刺激への反応が早すぎるかも。おかげでたくさん日記が書けた。