底でじっとする / 絵について / 「じいの栄光」続き / チョウの後日譚 / 病院に行く前に読む

てんすい
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2024年1月27日(土)

■今日はだるい。動けまへん。早起きしてもしなくても、やってることはあんまり変わらんような気がしてしまうのよな。

今はただひたすらに日光を浴びたい。でも私の部屋は日当たりが良くない。残念。

■手帳を見返したら今月だけで予定を12も入れてた。すごいな。息切れもするわ。

■昨日思い出せなかったやつ思い出した。

私は「前に進むぞ!」って意気込んで進むよりも、底みたいなところでじっと考えて、思い出して、こう言えば良かったかな、みたいなことを口に出してみたり、人に聞いてもらったりする。ずっとそこにいることで、問題の処理と先に進むための準備をしてる。その2つはイコールだから、「そろそろいいかな」「準備できたかな」と思えるころには2歩くらい踏み出してる。

■昨日の日記のタイトルちょっと嫌だな。転換期だとかそういう話は私はここでずっとしてる!!別に昨日気づいた話じゃない。なのに何をそんな、「多分そうなんだと思う…。」なんてしおらしくして…。

知ってたわそんなこと。そういう話を遠回しに何度も何度もしてんのよ。それで再起を図ってんのよ。

■半年ぶりくらい?に絵を描いた。本当に絵って難しい。特に絵の勉強をしたわけじゃないのに、自分の中で絵に対して勝手に「最低限」を作ってることに気づいた。説明できないけど、これくらいは描けていなきゃいけない、って感覚に近い。何を描きたいかが明確じゃない時ほど思う。そこに自分の絵の価値を見出しているのかな。保証というか…。

■ここで自由に、「向上」以外を許しながら文を書いてるから、その流れで絵もいい塩梅で描けるかなと思って最初は描いてたけど、描いていくうちにまただんだん「向上」に縛られるようになった。絵は目が肥えるほどそうなっていくものなのかもしれないけど、それでもそればかりだとちょっと辛いな。描きたいものが明確なら向上を目指すことも、逆に「伝わればいいかな」って思って力を抜いたりもできるんだけど。

■今日記が続いてるのは「自分の気持ちを書き出す、記録に残す」っていう目的があって、その手段として文章があるからだと思う。そしてその文章に向上を求めていない。ひたすら書くだけ。向上を求めてなくても、私はほぼ無意識に、使ってみたい言葉を使ったりと小さなチャレンジをしている。加えて、文章で「作品」は作っていない。

でも今の私にとって絵は、目的がほとんどない。だから正直に書くと、自分の力量を示すための手段になっている。と思う。これはある意味向上しか許さなかったことの弊害で、自分が「前回より上手い」「これが今の私のベストだ」と思えるまで描いてSNSに上げてきたから、客観性がどうあれ「上手くなってきているぞ」みたいな自意識だけが育って、自分の絵の価値をそこに置いた。その上手さの客観性はと言われると…………。

ここまでで思うのは、上手さよりも描いたものに込めた気持ちの方が人の胸を打つ。共感したり、感動したりしやすくて、暖かい気持ちが広がる。趣味の範囲なら特に。これが描きたいんだ!というものを描けば、上手さは「あると便利」くらいの位置付けかもしれない。あれば伝えたいことをより伝えやすくなるし。

言葉は絵より日常で使う頻度が高いから、練度も違うしインプットやアウトプットの量も違う。だから今は言葉の方が、使いたい言葉とか行き着きたい形が見えやすくなっていると思う。今日絵を描きながら、「文章を書くよりもゴールがぼんやりしていて、遠い」と思った。同じ文章を、終着点も見えないまま推敲を重ねているような感じ。描きたいものへの熱量があればあるほど、ゴールの明確さと距離は変わって来るんだろうけど。

そういう意味でも絵って難しい。言葉は日常会話で気負わずにチャレンジや努力、訓練ができる。その場数も多いから、失敗しても取り返しやすい。ひとつの失敗を大げさに捉えずに済む。

でも絵は違うよね。日常的に使わない人がほとんどだから、熱量と、必要だと思ったら努力も必要なんだな。しかも私にとっては絵を描くって生活に根付いてる訳ではないから。わざわざそのための時間を取らなきゃいけない。大変じゃん…。

でもせっかく描けるなら描きたいよね。これからも。

■昨日書いた祖父の栄光の話。

今日母に聞いたら、あの時、祖父は私にお小遣いをあげたがっていたらしい。私が無職だったからか、一緒に暮らしてはいなかったからかは分からないけど。でもなんの脈絡もなくあげるのは避けたかったらしく、私に栄光の足跡の作り直しを頼んだとな。

今使っている財布は祖父からもらったお小遣いで買ったのは覚えていたけど、この時のかどうかは忘れていた。過去の日記を確認してみたら、本当にこの時のお小遣いで買ってた。

年明けにうちで羽化したチョウ、どこ行っちゃったんだろうね、と母親に聞いたら、羽化の1週間くらい後に廊下で息絶えていたところを父が見つけたらしい。私が悲しむからと両親が秘密にしていたそうな。見つかっていたなら良かったよ…。お心遣いありがとうね…。

■私は何年か前から死ぬのが怖いと思ってる。これ、次の病院で言ってみようかな。薬のおかげで考えることが減って楽になったことも。

■こんな毎日ベラベラ喋るようになるとは思わなかったよ。

@nimius
「かく在るべし」に押されて「こう在るのがいいんだろうな」と在ろうとするのではなく、「わたし」で在るための訓練をする場所にします。恥ずかしくても、間違ってても、私の「本当」をここに残します。 Xアカウント:@krgm_krgm