
slowfoamの『Worlding With Earth』をこの頃よく聴いている。
久しぶりに運動をした結果、頭痛の痛みで頭がクラクラしながらslowfoamの曲を聴き、昔取ったメモを整理していたところタゴールの詩が目に留まる。
私が願うのは/危険から護られることではなく/危険のさなかで恐れないことです/哀しみのどん底、心のはげしい痛みの中で/慰めてもらうことではなく/哀しみを克服し、勝利をうたうことなのです/あなたが来て私を救ってくださる/これを私は願っていません/私が願うのはのりこえてゆく力です/ただ私が重荷を担う、その力をお与え下さい/暗い悲しい夜/失意以外、何もない夜にも/ああ 決してあなたを/疑うことがありませんように
(ラビンドラナート・タゴール『迷い鳥たち』内山眞理子訳、未知谷、2008)
Let me not pray to be sheltered from dangers but to be fearless in facing them.
Let me not beg for the stilling of my pain but for the heart to conquer it.
Let me not look for allies in life's battlefield but to my own strength.
Let me not crave in anxious fear to be saved but hope for the patience to win my freedom.
Grant that I may not be a coward, feeling Your mercy in my success alone;
But let me find the grasp of Your hand in my failure.
タゴールのこの引用について、『奇跡のリンゴ』という書籍の中で引き合いに出されたことからか、この一節だけジワジワと認知度が上がっていることを先ほど引用元を調べる過程で知った。
タゴールの詩には迷いがない。寄辺なく、ふらふらと道中を彷徨っている時に見える灯火、あるいは迷い鳥のような気分でいるときに羽根を休めてあたりを見渡すことができる大樹のような優しい強さがある。似た内容として、茨木のり子の『自分の感受性くらい』が思い起こされるが、茨木のり子の詩が鋭い刃のように物事を戒め切り裂く強さであるならば、タゴールの詩は陽の光のようなやわらかい強さを持っている。
心が怖れをいだかず、頭が毅然と高くたもたれているところ/知識が自由であるところ/世界が 狭い国家の壁で ばらばらにひき裂かれていないところ/言葉が 真理の深みから湧き出づるところ/たゆみない努力が 完成に向かって 両腕をさしのべるところ/理性の清い流れが 形骸化した因習の干からびた砂漠の砂に吸い込まれ 道を失うことのないところ/心が ますますひろがりゆく思想と行動へと、おんみの手で導かれ 前進するところ-/そのような自由な天国(くに)へと、父よ、わが祖国を目覚めさせたまえ。
(ラビンドラナート・タゴール『ギタンジャリ』森本達雄訳、レグルス文庫、1994)
タゴールの『ギタンジャリ』は、シモーヌ・ヴェイユのような神々への恩寵や敬愛としての側面がありながら、清き思考の流れについて示唆的な文章を数多く残している。先日のバタイユとトラの話と物見の表現こそ違うものの、理知の視点からヒトの持つべき悟性について抒情的かつ平易な表現で語りかける。タゴールの言葉のなかに『花は、はなびらをすべて散らして果実を見いだす』という言葉があるように、タゴールは世の摂理について、時として草花のなかに気付きを見い出し、生きるための知恵を詩のなかで形を変えて語りかける。
ある慣習を変える時、我々にとって過去の慣習を洗いざらい丸っきり手放してしまうことが容易いことではないように、過去の遺物が有している引力に引きつけられ抗いながらも、新たな慣習にしがみつき絶えず過去を清算し続けているような二重状態に陥る。新たな事物を受け入れるには、ある程度手放すことを自らに対して赦す必要があって、そのことに対して過去の遺物に対して意固地になったり手放すことに対して考えを先回りさせて不安に陥ったり、あるいは目の前で立ち尽くすだけになってしまったりすることもあるかもしれない。受け入れる器の枠を拡充することにおいて、すべてを一度に手放す必要も、一辺にすべてを受け入れる必要はないように思う。ひとつひとつ庭に植物の種を蒔いて育て増やすように、ささやかに向き合う過程で気がついたときには豊かな状態になっていれば、それが最もな充足として機能している証拠だと考える。その庭を育てることに対して、結果だけでなはなく過程そのものを楽しむ方法や気づきを増やすことができれば、土壌はさらに豊かに、個々が有する苦しみも幾ばくは半減されるように思う。
(※2023.05 撮影、静養先の京都にて)