フジイさんへ
春にはじまった往復書簡が、季節とともに少しずつ色合いや温度を変えながら続いていること、今もこうしてお手紙を書けること、ほんとうにうれしく思います。実はわたしもひとつのことを長く続けるのはそんなに得意じゃないんですけど、この往復書簡については、とにかくいけるところまでいってみましょう〜という気持ちで流れに身をまかせていました。そうしたら、ここまで来れた。もうすっかり夏ですね。
このお手紙を書く前に、何回目だろうなぁ、4回か5回目くらいかな?フジイさんの小説『17』を読んできました。何度読んでも同じところでグッときて、同じところで少し泣いてしまう。ほんとうに大好きな作品です。
はじめて読んだとき、あまりにも胸が熱くなってしまって、読み終えてすぐにあのメッセージを送ったんですよ。あふれだす感情を言葉にして、ろくに読み返しもせず、そのままタンッと送信した気がします。推敲せずにメッセージを送るなんて普段のわたしでは考えられない行動だから、きっとものすごく興奮していたんでしょうね。
わたしはフジイさんのすべてを知っているわけではないし、小説を書くのがどういうことなのかもわかっていないけれど、あの小説にはわたしが知っているフジイさんがたくさんいました。ミヅキちゃんとアキちゃんの会話、心の声、街やひとびとの描写、ひとつひとつにフジイさんを感じて、物語ってこんなふうに生まれるものなんだな、生み出されるものなんだな、すごいな、素敵だなと思いました。フジイさんのなかには、書かれるのを待っているだれかがたくさんいて、それぞれのまなざしで世界を見つめ、さまざまな思いを抱えながら生きているんでしょうね。これまではフジイさんの言葉として語られてきたその声が、これからは物語のなかでも響いていくのだとしたら、なんて豊かなことだろうと思います。
フジイさんの新しい出発に心からお祝いとお礼を言いたいです。おめでとうございます。そして、そのために使われてきた時間にかかわらせてもらったこと、かかわれていることがとてもうれしいです。ありがとうございます。
『虎に翼』、今週もはじまりましたね。ここまで観てきて思うのは、この作品にはモデルとなる三淵嘉子さんがいて、三淵さんの人生をベースに作られているのは確かなんだろうけれど、いわゆる伝記のようなまとめ方をしたいわけではないんだろうなぁということです。なんていうんだろう、この作品を作っている人たちが今の時代に生きるわたしたちに伝えたいことを、寅ちゃんたちを通して丁寧に、力いっぱい見せてくれているような気がするというか。わたしはこれまで朝ドラというものをきちんと追ったことがなかったので、それがあたりまえの在り方なのか、このドラマが特別なのかよくわからないんですが、とにかくすごいものをみせられていることだけはよくわかります。特に、近頃は大泣きしてしまうことが多くて、その後の1日をとどこおりなくはじめるのが大変でした。
寅ちゃんの怒りも、花江さんの葛藤や我慢も、弟や子どもたちの不満も、よねさんの傷つきも、それぞれに共感できる。良いか悪いかでいったらそりゃあ良くない言動もたくさんあったと思うけれど、わたしにはどれも身に覚えがある。なるべく正しくありたいし、あろうと努力もする。けれども、自分の正しさがいつも、誰にとっても正しいわけじゃない。間違うことだってある。それに、他人から眉をひそめられそうな行為でも、正しくなさそうだと頭ではわかっていても、自分の意志を貫かなければならない場面が人生にはあって、その苦々しさや居心地の悪さは、誰かに軽くしてもらうんじゃなく、申し訳なさごと抱えて背負っていくか、自分の手で捨て置くしかないのだ。
そんなことを朝の8時から考えるわけですから、ぐったりします。ものすごく疲れる。それでも、今のわたしや、これからのわたしのために考えておきたいこと、知っておきたいことがたくさん描かれているから、明日もあさってもその先も、泣いたり笑ったりしながら観続けるだろうと思います。いつも同じことばかり言っている気がしますが、ほんとうにすごいドラマですね。
絵本のお話、聞かせてもらえてとてもうれしかったです。特に、『三びきのやぎのがらがらどん』のエピソードがかわいくて、ニコニコしながら読みました。
わたしにとってのがらがらどんは、「小学校の教室で読み聞かせたり、幼稚園の人形劇サークルで上演したりした思い出のある作品」でした。これからはそこに「フジイさんがお母さんとごっこ遊びをしてたって言ってたなぁ」が追加されます。だれかと語り合ったことが思い出になり、古いものと溶け合い、残ってゆく。そうやって、思い出は形を変えながら増えていくんですね。
先日、往復書簡を読んでくださった方と絵本や児童書のお話をする機会があって、そのときにフジイさんと同じようなことを思ったんです。フジイさんとわたし、わたしとその方。生まれた場所や時代も、育った環境も、見てきた景色も違うはずなのに、読んでいた本の話を通してそれぞれの思い出を共有し、懐かしむことができる。映画や音楽にも同じことが言えるでしょうね。でも、誰とでも共有できるわけじゃない。インターネットにはどれだけがんばっても通じ合えない人がごまんといるのに、こうして穏やかな気持ちで話しあえる人たちと出会えたこと、話したいと思えることの尊さとありがたさを実感しています。
英語の勉強は順調に続いていて、昨日でテキストの3周目が半分終わりました。1周目は思うように口がまわらないというか、英語を話すための筋肉がないというか、音読そのものに手こずっていたんですけど、今はそういうやりづらさを感じることはほとんどありません。それだけでも成長を感じます。3周目からは書き取りも加わって、使っていなかった回路が開かれていくような、これまでとは違う感覚を味わいながら取り組んでいます。
数年前にフジイさんがブログに書かれていたことと、今のわたしの気持ちがあまりにもリンクしていてびっくりしました。そうなんですよ、今まさに、自分の変化がおもしろくてたまらないんです。特に思考するときの言葉の並びに違いを感じていて、文章よりも話し方にその変化が表れているような気がしています。
使う言語を変えたり、家計簿をつけてみたり、目線や立ち位置を変えてみたり、小説を書いたり。変化のつけかたには、ほかにもきっとたくさんのバリエーションがあるでしょうね。そのなかから今の自分に合う方法を見つけて、やってみて、それによって生じるさまざまな変化をおもしろがりながら、いつも新鮮なまなざしで世界を見つめていけたら最高だなぁと思います。
テキストをよく読んでみたら、3ヶ月経ったあとの勉強の仕方もしっかり書いてありました。まずはそれを参考にして、テキスト1冊を完全にマスターできるまでとことんやり尽くしてみようと思います。そしていつか、仕事や街で出会う英語話者の方と臆せず話せるようになるのがわたしの目標です。
あの雲がおとした雨にぬれている
うれしいこともかなしいことも草しげる
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
もともと、種田山頭火さんについてわたしが知っていたのは、名前と「分け入つても分け入つても青い山」くらいでした。書写で短歌や俳句を書くようになったのをきっかけに『草木塔』に出会い、気に入った句を2つ3つ選んで書いているうちに、なんていうんだろう、さみしさや悲しさを抱えながら山や野を歩き、月をながめ、雨音に耳をすませ、虫や鳥を見つめているような気持ちになってきて。ああ、なんかわかる、山頭火さんがこの句を詠みたくなった気持ちがわたしのなかにもあると思ったんです。うまく言えませんが、さみしさの温度や悲しみの重さ、孤独の色が似ているような気がした、というか。彼の生い立ちや人生についてよく知っているわけではないんだけれど、近いものを感じてしまったんだと思います。
最近すごく思うんです。文章にはその人らしさがどうしても出るものだなぁ、って。選ぶ言葉、使い方、つなぎ方、間のとり方、リズム、語尾など、あらゆるところにその人っぽさが出る。出てしまう。あたりまえといえば、あたりまえのことなんですけど、だとしたらわたしは...できるだけまっすぐでいたいと思いました。まっすぐというのは、寄り道をしないとか、曲がったことを許さないというような意味ではなく、自分に対しての姿勢です。さみしいときはさみしさを、悲しいときは悲しさを、怒っているときは怒りを、ただそのまま表す人でありたい。誰かに寄り添ってほしいときに「さみしい」と言うのではなく、自分の内にあるさみしさを見つめて「さみしい」と言う人でありたい。山頭火さんの句に惹かれているのは、わたしのなかにそういう思いが強くあるからなのかもしれないなぁと思います。
まつすぐな道でさみしい
今日は連休の最終日で、うちのあたりでは年に1度の大きなお祭りが行われています。花火があがったり、神輿のお囃子が聞こえてきたりすると、ああ今年も暑くて長い夏がはじまったなぁと思います。台所仕事が面倒になる季節ですが、簡単に作れるおいしいものを食べてなんとか乗り切りましょうね。
チョキン、パチン、ストン。それでは、また。