[往復書簡] 変えると変わるのあいだで揺れるカーテン

フジイさんへ

お手紙ありがとうございました。毎年ゴールデンウィーク明けは仕事が立て込んで締め切りに追われるのですが、今年はなぜか6月も半ばだというのにペースがゆるまらず、毎日ひいひい言いながらパソコンに向かっています。フリーランスなんだからスケジュールの調整は自由にできるだろうと思われがちですが、実際はそうでもない。ちょっときついなと思っても、次のことを考えて無理をするっていうのは結構あって、それがだいたいこの時期に集中します。さすがにそろそろ落ち着くはずなので、体調を整えること、しっかり休むことを一番に考えながら、なんとか乗り切りたいです。

フジイさんとの往復書簡は、なんていうんだろう、冷蔵庫の中に入れておいたちょっといいプリンとか、片方だけ残しておいたパピコみたいな感じで、今すぐじゃなくて少し先の未来にとっておきたい楽しみのひとつになっていて。速くないコミュニケーションのおもしろさや心地よさを感じつつ、ゆったりとした気持ちで楽しめているので、お手紙のペースについてはフジイさんの気持ちや事情を優先してもらえたらいいなぁと思います。きれいごとのように聞こえるかもしれないけれど、わたしにとってはフジイさんがやりたいと思うことをやりたいと思うときにやれて、毎日を楽しく健やかに、充実した気持ちで過ごしてもらうことが何よりも大切なのです。そのうえで、負担にならないような形や速度で、お手紙のやりとりをしてもらえたらうれしいなぁと思っています。


先日、リビングにい草のラグを敷きました。ひと眠りしたいな、ちょっと疲れたなというときにゴロンと寝転がると、ふわっとい草の香りがしてなんだか懐かしい気持ちになります。カーテンの向こうには木々の緑やスカイブルーが淡く見えて、ときどき風が吹くとその一瞬だけ世界が鮮やかになる。そんなとき、こういうちょっとした美しい時間がわたしはとても好きで、そのために生きているような気がするなぁと思います。と同時にいつか終わりが来ることも知っていて、幸せな気持ちのまま胸がぎゅうっと締め付けられる。けれども、次の瞬間にはもう別のことを考えていて、たとえば今日の夜ごはんは何にしようかなとか、そろそろお風呂を沸かしておいたほうがいいかなとか、センチメンタルな気持ちは長続きすることなく、日常のなかにすうっと溶けていきます。梅雨入り間近の日々をそんな風に過ごしながら、季節は変わっていくし変えていくものなんだなぁと感じています。

フジイさんの苦手なものへの対処法を読んで、ああやっぱり聞いておいてよかったと思いました。ありがとうございます。こないだ古くからの友人と話していたときに「うたちゃんは苦手だと感じても、とりあえずいけるところまで耐えてから"ああもう無理、限界だ"ってなることが多い」と言われてほんとうにそうだなぁと思ったんです。そうしなければならないと思っているわけじゃないのに、無理をして抱えていたり、手放せずにいたりすることが案外多いと気づきました。そうでなくても無理をしなくちゃならないことはたくさんあるのだから、手放せるものはどんどん置いて、なるべく身軽でいたい。そう思えたことを大切にしながら、少しずつ行動につなげていけたらいいなと思っています。

そろそろお気づきかもしれませんが、わたしのなかではいつも、絶え間なくさまざまな思いや考えが浮かんだり消えたりしていて、びっくりするほど忙しないんです。何か心に留めておきたいことがあったときも、ただ思うだけではどこかに流れていって見失ってしまうくらいに。だから、まどろっこしさを感じつつも、ひとつひとつ口に出したり言葉にしたりして確認するようにしていて、「この人のこういう言葉づかいが苦手だから少し距離をおこう」「よし、このイライラはこれ以上持っている必要がないから手放そう」などと言い聞かせながら気持ちを切り替えたり、納得したりしています。「夜の自分が喜ぶように」と思いながら家事をして「朝の自分、グッジョブ」と感謝するのも、自分の思いを形にするために言葉にし、行動に反映させて根付かせるための方法なんです。もっとスマートにやれたらいいのですが、自分のクセをいかしながら「こう在りたい」と思う自分に近づける方法としては、今のところこれが最善な気がしています。覚えていてもらえてとてもうれしかったし、「強くはない自分を大事にしたい」というフジイさんの言葉に深くうなずきました。わたしもまったく同じ思いです。


ところで、前回いただいたお手紙に「明石市立文化博物館」という言葉を見つけたとき、びっくりして思わず声を上げてしまいました。いきなり話がそれますが、学生時代の後半から数年間(前半は現在の神戸須磨シーワールドの近くに住んでいました)明石よりの神戸に住んでいたんですよ。愛車の赤カブに乗って、明石市立文化博物館や図書館、城址公園によく行っていたので、とても懐かしい気持ちになりました。

『エルマーのぼうけん』も『ゆうびんやのくまさん』も大好きな作品です。エルマーシリーズは特に次男が大好きで、小さい頃に何度も何度も読み聞かせました。くまさんシリーズの絵本は幼稚園でよく借りてきて、ほかにパンやとか石炭やなどもあったと思うのですが、やっぱり『ゆうびんやのくまさん』が気に入っていました。いっしょうけんめい働くくまさんの姿とともに、人々の暮らしや日常のちょっとしたひとこまも丁寧に、なにげなく描かれているところが素敵だなぁと思います。

わたしの一番古い本の記憶は、幼稚園の図書室で見つけた『せいめいのれきし』です。わたしが通っていたのは教会に併設された幼稚園で、古い木造の図書室は昼間でも薄暗く、いつもしんとしていました。飴色の本棚にはたくさんの絵本が並んでいて、そのなかでひときわ光って見えたのが黄色い背表紙のその本でした。床に座って、夢中になってページをめくり、「わたしはこれが好きだ」と思ったのをよく覚えています。その印象が強く残っていたので、てっきり小さい子どもでも楽しめる絵本だと思いこんでいたのですが、大人になって読み返してみたときに思いのほか文量が多く、幼稚園生には少し難しい内容で驚きました。よく考えてみると当時のわたしはひらがながやっと少し読めるかなという程度で、読んでくれる大人もいなかったし、文字をすらすら読めるようになってから読み返した記憶もない。でも覚えていた話の筋はおおかた合っている。ということは、少しのひらがなを頼りに、主に絵から物語を想像し理解していた。確かなことはわかりませんが、おそらくはそういうことなんだろうと思います。

『せいめいのれきし』に出会ったことをきっかけに、『はじめてのおつかい』『ぐりとぐら』『わたしのワンピース』『どろんこハリー』など、たくさんの絵本を読むようになり、のちに自分を支える大切な作品となった『魔女の宅急便』にも出会えました。家にあった『母の友』という雑誌に連載されているのを読んだときの感動といったらもう。心が震えるってああいうときに使う表現だろうなと思います。大人向けの雑誌なのでおそらくふりがなは振られていなかっただろうし、角野栄子と書かれているのを見て「かどのえいこ」と読むことも、その人が作者であることもちゃんとは理解できてなかったはずだけれど、「わたしは角野栄子と書かれているお話がとても好きだ」と思ったんですよね。全部はわからなくても好きだと思える。子どもの想像力ってすごいなぁと思います。出会いというのは思っているよりもずっと強い光を放つ体験で、だからこそ大人になっても鮮明に残っているのかもしれませんね。


実は急に思い立って、数日前から英会話の勉強をはじめました。教材はduolingoでも、ラジオ英会話でも、オンライン英会話でもなく、あるコミュニティで話題にのぼっていた國弘正雄さんの書籍『英会話・ぜったい・音読 入門編』(と付属のCD)です。わたしが普段使っているiMacにはCDドライブが内蔵されていないので、Amazonで聞いたこともないようなブランドの安い外付けCDドライブを買ってライブラリに読み込むという手間とお金が必要でした。ちょっと笑っちゃいますよね。自分でも今どきCDを使って勉強するとは!と思うけれど、意外とそれがよくて、今のところ楽しく勉強できています。内容としては、中学1〜2年の英語の教科書から抜粋された文章を音読したり筆記したりするという簡単なもので、1レッスンにかかる時間は15〜30分くらい。無目的にスマホを触ったり、SNSを眺めたりしていた時間をあてれば、無理なく確保できそうだなぁという感じです。

なぜいきなり英会話を勉強しようと思ったかというと、英語を使えるようになりたいのはもちろんなんだけれど、普段使わない言語を学ぶことでモノの見方や考え方をガラッと変えてみたいと思ったんです。今のわたしの生活では仕事でもプライベートでも日本語で考えたり、言葉にしたりするのがあたりまえになりすぎていて。そのなかでの伝わらなさや伝えられなさを少し窮屈に感じはじめたときに、だったら使う言語を変えてみるのもひとつの手じゃないだろうかと思いつき、そのままの勢いではじめてみました。とりあえず3ヵ月、続けてみようと思います。

わたしを変えるのが難しいなら、言語を変えて世界を見るのだ


気づいたらものすごく長いお手紙になっていました。フジイさんの小説についてもお話したかったんですけど、それはまた次の機会にしますね。

それでは、また。

@nyankojitsu
うた子でございます