[往復書簡]紫陽花と記憶

ffi
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うた子さんへ

お返事を書くのが遅くなってしまいました。お待たせしていないだろうか、心配させたり落ち着かなくさせたりはしていないだろうかという気持ちはずっとあったのですが、毎日Blueskyには投稿していて元気なことは伝わっているはずだから大丈夫だろう、などと思うことにしていました。

先週はなかなか仕事が忙しく、とはいえ書く時間がまったくないわけではなく、というか、ちょっとした文量のものを3つ書いていました。わたしが実感したアンコンシャス・バイアスの話と、定額減税の制度が面倒だという話と、「あさイチ」の特集の構成の話です。1つめは日記的な話題で、うしろ2つは時事的な話題で、素早く公開しておきたいという気持ちがあったように思います。そしてこれらを書きながら、「手紙を書くときは、そのための時間が必要だな」と何度も思いました。

どんなことを書こうか、どんなふうに書こうかということを考えるのは、歩きながらや食器を洗いながらでもできます。テキストを書くことも、仕事の合間だったり電車移動の途中だったり布団の中だったり、いろんな場所でできてしまう。けれど、「手紙」を書こうと思ったら、相応のコンディションを整えなくてはならないようです。私信を書くということは、その人のことをじっくりと考える時間をもつということなんですね。

仕事が落ち着いてから、『さびしさについて』を最後まで読みました。一子さんと滝口さんの往復書簡のなかにも、手紙を書くときの時間のことが書かれていましたね。書くことは時間が掛かり、書かれたあとも時間を掛けて届く。

先週の大河ドラマ『光る君へ』では、清少納言が「枕草子」を書き始める場面がとても印象的に描かれていました。政争に巻き込まれて深く傷ついた中宮定子の心を慰めるために、かつての幸せにあふれていた華やかな日々を思い起こしながら、慕い思いやる気持ちをこめて「春はあけぼの」が書かれ、そして読まれていきます。実際の歴史がどうだったのかはわかりませんが、ドラマの世界の「枕草子」はそのようにして生まれたのでした。

1000年もの長い時間を越えていくことになる言葉は、たったひとりのために書かれた。そういうことはあるのだと思います。書くことや書かれたものには力があって、そのすべてがポジティブなものでもないのだけれど、時間をかけて想いがこめられた言葉はきっと届く。それを信じていいんだ、少なくともこのドラマをつくる人たちは信じているんだ。そんなふうに思いました。

と、こんな書き方をしましたが、わたしにとって長い文章を書くことはそれほど身近なことではないんです。たぶん、文章を書くことに慣れる前にTwitterと出会った影響もあって、散発的な言葉にすることで気持ちを解消させてしまう。わかりやすく伝わるように書こうとする手前で満足してしまうことが多いかもしれません。

でもそういえば、苦しいときや悔しいときなどに、宛先のないメールの下書きのような、どこへも送信されない場所にテキストを打ち込むことで気持ちを吐き出すことはときどきあります。それはSNSの裏アカウントみたいなものに近いのかもしれない。ただ、わたしは自分の書いたものを読み返すことが多くて、そうなると自分のネガティブなエネルギーを再度摂取してしまうのが怖いような気もします。

苦手なものとの付き合い方がもっとうまくなれたらよいのですが、なかなか難しいですね。若いころよりは上達したように思うものの、わたし自身も変化し続けているので、いつも同じような対応ではうまくいかないみたいです。

結局、苦手なものへのいちばん確実な対処法は「逃げる」ことだと思っています。消耗した気持ちを回復させるための方法はいくつか知っているけれど、いくら回復につとめても無理なときは無理で、それなら早めに逃げてしまう方がいい。逃げることもぜんぜん簡単ではなくて、すごくエネルギーを使うことだし、ほんとうなら逃げずに済ませたいのですが、さいきんのわたしはそんな感じです。

ここまで書いている途中で、うた子さんが以前Blueskyにポストされていた話を思い出しました。朝、出掛ける前に「夜の自分が喜ぶように」と思いながら食器を片付けて、帰宅したら「朝の自分、グッジョブ!」とあらためて感謝するような、そういう気の持ち方を心掛けているという内容でした。それ以来、わたしも朝食の片付けをする気力が足りないときには「帰ってきた自分のためにちょっと頑張るぞ」と思うようにしています(数時間前の自分にグッジョブする習慣のことは忘れてました。どちらもセットで大切ですね)。

なんで思い出したんだろう。すごく関係のある話だなと感じたのですが、書いているうちにわからなくなってしまった。

前向きでありたいと思うのと同時に、強くはない自分を大事にしたいと思います。数時間後の自分や、明日の自分、来週の自分が、過去を振り返ったときに「あのときの行動、よかったな」と思えるようにありたいです。

『エルマーのぼうけん』のドラゴンのオブジェ

5月の連休に(前回の往復書簡を書いた翌日でした)、明石市立文化博物館で開催されていた「エルマーのぼうけん展」へ行ってきました。『エルマーのぼうけん』のシリーズ全3冊の挿絵がワクワクさせる仕掛けとあわせて展示されていました。小さい頃に何度も繰り返し読んだ本のひとつです。いっしょに行った妻は読んだ記憶がないそうで、わたしが物語を話しながら挿絵を見て回りました。懐かしくてとても楽しかった。妻も楽しんでくれたようでした。

その10日くらいあとで、別の絵本のことを思い出しました。テディベアのようなクマのぬいぐるみが人間と同じように生きていて、郵便局員をしているという内容だったと思います。たしか、クリスマスの時期の物語で、雪のなかでプレゼントの集配をするシーンがあったような。検索したらすぐ見つかりました。『ゆうびんやのくまさん』というタイトルの絵本です。ご存知でしょうか。

その絵本の挿絵には、ポストに投函された郵便物をクマが回収しているところへ、手紙を持った少年が駆け寄っていく様子が描かれていました。「ちょっと待って、この手紙もお願いします!」みたいなセリフが聞こえてきそうな場面です。ちょうど郵便局の前を歩いていたら、同じような状況を見掛けたのです(郵便物をポストから回収しているのはクマのぬいぐるみではなく人間のおじさんでしたが)。

とても好きな絵本だったので、思い出したことが嬉しくて、幸せな気持ちになりました。

それにしても、意外なほどいろいろなことを覚えているものです。わたしには年の離れた弟と妹がいることもあり、中学生くらいまでは絵本がそれなりに身近にありました。だから覚えているのだろうとはいっても、それだって四半世紀ほど前のこと。そういえば、子どもながらに「小さい頃に読んだ本って大人になったときに残っているのだろうか」と疑問に感じたことがあったのですが、どっこい、わたしのなかにはたくさん残っているようです。

うた子さんは児童書や絵本がお好きでしたよね。よかったら、印象深い絵本などを教えてください。


6月に入り、アジサイが咲き始めました。

桜や薔薇の花もいいものですが、道端で当たり前のように咲くアジサイもまた魅力があります。花の時期が過ぎてしまうと何が植っているのか忘れがちですが、変わらずにずっとここにいたんだよなあと思います。こう感じるのは、わたしがこの街で生活するのが2年目に入ったからかもしれませんね。1年振りに花が咲くのを見ることで、そういえばこの公園はアジサイがきれいなんだったなと思い出しています。

アジサイの花

紫陽花が花をつけずにいた日々も生きてきたのを思いだす朝


十分に書けたなとはなかなか思えなくて、難しいものですね。だからこそ、この往復書簡を続けていけたらいいなと思います。

それでは、また。

@ffi
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