昨日の話https://sizu.me/oll_rinkrank/posts/0ir0k3rekbxuでちょっと分かりにくかったかなと思ったので補足しておく。
近代以前、地域主体のイエ社会ではこどもは「負担」ではなかった(もちろん場合によってはそういうケースもあったとは思うが)。いま現代人が考えているような育児に関する「負担」は、イエに関連する人々(そこそこ元気な祖父母や未婚の叔父叔母、多数いる兄弟姉妹)や、あるいはそのイエが寄り重なって作られる集落によって(ある程度まで)分散されていた。
もちろんそこから(都市生活へと)脱却することによって得られたものは少なくないが、必ずしも良いこと「だけ」が得られたわけではない、ということだ。そして都市型の生活(家庭という新概念)から生じてきた問題点のひとつが、こどもを人ではなくモノとして扱うようになってきたことだ。これは、近代以前の為政者や権力者たちが、民衆をモノとして扱ってきたようなケースとは異なる(現代の為政者が民をモノとして扱っていないかどうかについてはここでは言及しないことにする)。
また近代以前のイエ概念が家族をモノとして扱うような場面が「まったく」なかったというわけでもない(つまりモノであり、人でもあった)。程度問題に過ぎないといえばそれまでだが、しかし少なくとも、こどもたちが家族や村落という全体と切り離されてはいなかったのは間違いない。そこには自らの権利の一部を「手放す」という姿勢があった。比較して、現代の都市における親世代は自身の権利を他者との対立の下にあるようなものとは考えない。まさしくこれを、天から賦与された特権と思っているフシすらある。私の責任ではない、私が不足を感じているのは誰かの責任である、この不足は埋められるべきである、と。ここに至って私という「個人」は、侵されざる唯一の存在となった。
近代化とともに私たちは豊かな暮らしを手にいれたが、それは物質的な満足であって、それに見合う精神的な幸福も同時に付属してきたかと言われると、疑問を持たざるを得ない。まずカネがなければ選択肢すら得られない、というのもあるシーンでは真理ではあろうが、カネやモノがなくとも幸せそうな離島のこどもたちの表情をみると、果たして正解などあるのだろうかと考えてしまう。
地方では若者たちが親世代や地域とうまく交渉しながら、たくましく生活し、こどもたちを育てているという現状もある。有名大学への進学率は確かに都会のこどもたちより低くなるかもしれないが、学びを得ることと学歴社会に呑みこまれることは異なる。学びのその先に「心の喜び」がなければ、年を経るごとに虚しさが増す一方ではないのかとも思ってしまう。