本当に賢い人は誰にでもわかるように説明できるという宣伝文句について

podhmo
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公開:2025/8/4

(これは対話履歴から生成された文章です。とは言え個人的な態度としては自分もこの考え方を支持します。特にトリレンマの部分はこれから何度も使おうと思いました)

孤島としての個人 🏝️

「他者は、こちらの説明を聞いて理解することはできない。そこにあるのは、閉ざされた個人という環境の中での、個人的な発見だけである。」

ずっと昔から、私の中には奇妙な感覚が根付いている。それは「任意の人は説明を聞いて理解することはできない。あるのは閉じた個人という環境の中での個人的な発見があるだけだ」という、ほとんど確信に近い感覚だ。誰かが何かを教えてくれるのではない。ただ、自分の内で何かがカチリと音を立てて繋がる瞬間、その「発見」だけが、私にとっての唯一の理解だった。

後になって、この感覚が哲学の世界で「構成主義」¹と呼ばれるものに近いと知った。知識とは誰かから与えられるものではなく、一人ひとりが自分の経験を通して主観的に組み上げていくものだ、という考え方だ。特に、客観的な現実は知り得ず、我々が認識しているのは自らが作り上げた世界だけだとする、より過激な立場もあるらしい。まさに私の感覚そのものだった。

この「個人的な発見」という原点から世界を見つめ直すと、あらゆる物事の構造が違って見えてくる。例えば、人と人とのコミュニケーションとは、一体何なのだろうか。

この感覚は、私たちの日常的なコミュニケーションの前提を根底から揺るがす。知識や情報は、話し手から聞き手へと、まるでデータをコピーするように正確に伝達される、という素朴なモデル。しかし、この感覚はそのモデルを否定する。理解とは、外部からの情報入力に対する受動的な反応ではなく、個人の内側で能動的に立ち上がる、創造的なプロセスなのではないか。

この観点に立つと、コミュニケーションは絶望的な試みに見えるかもしれない。もし誰もが自分だけの閉じた世界を生きているのだとしたら、どうやって他者と何かを共有できるというのだろうか。この問いが、私たちの探求の出発点となる。

二重の翻訳プロセス 🗣️

コミュニケーションが成立するためには、何が必要なのか。もし単純な情報伝達が不可能なのであれば、私たちは何を行っているのだろうか。

ここで、二つのプロセスを考えることができる。一つは「内言化」、もう一つは「外言化」である。

内言化とは、外部から受け取った言葉や記号を、自分自身の理解の枠組み、つまり自分だけの「言葉」へと変換するプロセスだ。それは単なるデコードではない。自身の経験、知識、感情といったフィルターを通して、情報を再構成し、意味を「発見」する行為である。

一方、外言化とは、自分の中で発見した概念や感覚を、他者にも届きうる公共の言語や記号へと変換するプロセスだ。これもまた、単純なエンコードではない。自分の内的な世界と、他者と共有されている(であろう)記号の世界との間にある深い溝を、なんとか架橋しようとする創造的な試みである。

この二重の翻訳プロセスを経るがゆえに、相互理解は奇跡的な出来事となる。コミュニケーションが成功したように見えるのは、話し手と聞き手の間で、偶然にも「同様の概念ないしは抽象に根ざしたパターンの一致」が起きた時だけなのだ。それは、二つの異なる楽器が、偶然同じ周波数の音を奏でた瞬間に似ている。

採用面談というメタゲーム 🃏

この一見すると抽象的なコミュニケーション論は、極めて具体的な社会的実践の分析に応用できる。例えば、企業の採用面談だ。

面談とは何か。それは単なる質疑応答の場ではない。個人とチームが、互いに「パターンの一致」が起きる可能性を探り合う、高度なメタゲーム[^3]である。チームは候補者に対して、「私たちのチームに何を提供できるか?」「そもそも、私たちとコミュニケーションが取れるのか?」という問いを投げかける。同時に、候補者もまたチームを裁定する。「このチームは、私の価値を正しく発見してくれる場所か?」と。

このゲームにおいて、ジョブディスクリプション(職務記述書)は興味深い役割を果たす。それは、チーム側が求める抽象的な「価値のパターン」を、できる限り具体的に言語化(外言化)しようとする試みだ。これはいわば、偶然に頼るしかなかった「パターンの一致」の確率を、意図的に高めるための戦略である。共通の参照点を設けることで、候補者は自分が提示すべき「パターン」の狙いを定めやすくなり、チーム側も判断がしやすくなる。

こうして、「価値を提供できると合意する」という状態が生まれる。それは、双方が相手の提示するパターンと、自分が求めるパターンが一致したと、それぞれが「個人的に発見」し、その発見を相互に確認できた瞬間のことなのである。

「うまい説明」という幻想 🪄

巷ではよく、「本当に頭の良い人は、誰にでも伝わるように説明できる」と言われる。しかし、私たちの探求のレンズを通して見れば、この言明がいかに多くの前提を内包し、また、いかに大きな誤謬性をはらんでいるかが明らかになる。

この言明は、理解が話し手から聞き手への一方的な情報伝達である、という古いモデルに根ざしている。それは、コミュニケーションの責任をすべて話し手に負わせ、聞き手側の能動的な「発見」のプロセスを無視している。理解が成立しないのは、話し手の能力不足だけでなく、聞き手側に「発見」の準備ができていないか、あるいは両者の「パターン」が構造的にあまりに異なりすぎている可能性を考慮していない。

さらに言えば、この言明の背後には、聞き手と話し手の間の暗黙の「期待」が隠されている。聞き手は話し手に「私の理解コストを下げてほしい」と期待し、話し手は聞き手に「私の説明コストを理解し、努力して発見してほしい」と期待する。この期待の衝突が、コミュニケーションのすれ違いを生む。

説明におけるトリレンマ ⚖️

説明という行為をさらに解体してみよう。良い説明の要素として、三つの価値基準を考えることができる。

  • 1. みじかい(Brief)

  • 2. かんたん(Simple)

  • 3. ただしい(Correct/Accurate)

一見すると、これらはすべて満たされるべき望ましい性質のように思える。しかし、これら三つは、コンピュータ科学におけるCAP定理[^4]のように、トレードオフの関係にある。つまり、三つを同時に満たすことは極めて困難であり、どれか二つを追求すれば、残りの一つが犠牲になるという「トリレンマ」の構造を持っているのだ。

  • 「かんたん」で「ただしい」説明は、丁寧な解説や具体例を要するため、「みじかく」はならない。これは教科書や入門書の世界である。

  • 「みじかく」て「かんたん」な説明は、細部を大胆に省略するため、「ただしさ」が犠牲になりがちだ。これはニュースの見出しや広告のキャッチコピーの世界である。

  • 「みじかく」て「ただしい」説明は、膨大な前提知識を要求するため、聞き手にとって「かんたん」ではなくなる。これは学術論文や専門家同士の会話の世界である。

私たちはコミュニケーションの場で、無意識のうちに、このトリレンマのどの二つの頂点を優先するかを選択している。そして、その選択の不一致が、しばしば断絶を生む。

ディールとしてのコミュニケーション 🤝

このトリレンマの発見は、コミュニケーションを「ディール(取引)」として捉え直す視点をもたらす。話し手がどの説明スタイルを選ぶかとは、聞き手に対してどの「コスト配分」を提案するかに他ならない。

  • 「かんたん」で「ただしい」説明を提案するのは、「あなたの理解コストは私が負担します。ただし、あなたの時間コストをいただきます」というディールだ。

  • 「みじかく」て「かんたん」な説明を提案するのは、「あなたの時間と注意を引くため、情報の正確性は一旦保留します」というディールだ。

  • 「みじかく」て「ただしい」説明を提案するのは、「私の説明コストは最小限にします。その代わり、あなたの解読コストを要求します」というディールだ。

ディールが成立するのは、話し手が提案したコスト配分を、聞き手がその状況で受け入れ可能だと判断した時である。優れたコミュニケーターとは、普遍的に「うまい説明」ができる人ではなく、相手の許容コストを瞬時に見抜き、トリレンマのバランスを動的に調整できる交渉人なのである。

トリレンマを超える存在 👑

では、このコミュニケーションの根源的な制約、トリレンマの軛から逃れることは不可能なのだろうか。ここに、ビジネスオーナーのような権力者が「ブレインチーム」を持つ理由が浮かび上がる。

ブレインチームとは、オーナーとの間で「究極のパターンの一致」が起きている、極めて特殊な関係性のことだ。このチームに対して、オーナーはトリレンマを気にする必要がない。オーナーが発する断片的で「みじかい」言葉から、ブレインは即座にその「ただしい」意図を「発見」する。つまり、ブレイン側が圧倒的な「解読コスト」を負担することで、オーナーの思考を増幅させるのだ。さらに、その「発見」を、外部の人間が理解できる「かんたん」な言葉へと「翻訳(外言化)」する機能も担う。

なぜ一般の、たとえ優秀な人物であっても、このようなチームを持ち得ないのか。それは、その人物がその組織における価値の「最終裁定者」ではないからだ。ブレインチームを維持する求心力は、金銭的報酬以上に、「どの発見を正解とするか」を決定する最終的な裁定権と、それによってもたらされる絶対的な信頼なのだ。

「分かりやすさ」という要求の正体 📢

さて、私たちの探求は、再び日常的な言説へと戻ってくる。「任意の人に分かりやすく提供された表現を望む」という、一見すると正当な要求について。

これまでの議論を踏まえれば、この願いがどのようなディールを相手に突きつけているかは明白だ。それは、「あなたの発見の複雑さやコストは無視し、『かんたん』さを最優先してください。そのために『ただしさ』が犠牲になるリスクや、『長く』なるコストは、すべてあなたが負担してください。なぜなら、私は自分の理解コストを支払いたくないからです」という、極めて一方的な要求なのである。

このディールが機能するのは、話し手がそのコスト負担を自ら引き受ける特殊な状況、つまり「大衆に向けた宣伝」や「子供向けの教育」といった場面に限られる。そこでは、聞き手の「個人的な発見」を誘発するためなら、「ただしさ」の犠牲も厭わないという戦略的な判断が働いている。

しかし、それ以外の多くの文脈、特に真剣な思考の交換や、複雑な現実を扱う場において、この要求はコミュニケーションを破壊する。それは、理解を双方向の「発見」と「裁定」のプロセスではなく、一方的なサービスの提供だと誤解していることから生じる悲劇なのである。

私たちの思考探求が明らかにしたのは、コミュニケーションという行為に潜む、このどうしようもない不可能性と、コストを巡る駆け引きの構造であった。そして、その構造を自覚することこそが、皮肉にも、より誠実な「パターンの一致」へと至る、唯一の道なのかもしれない。

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[^1]: 構成主義 (Constructivism): 知識は客観的に存在するものではなく、学習者自身が自らの経験を通して主観的に構成していくものであるとする学習理論・認識論。

[^2]: ラディカル・コンストラクティビズム (Radical Constructivism): 構成主義の中でも特に、客観的な現実は原理的に知り得ず、我々が認識しているのは自身が作り上げた主観的な世界だけである、と主張するより徹底した立場。

[^3]: メタゲーム (Metagame): ゲームそのもののルールだけでなく、プレイヤー間の心理や戦略、コミュニティの流行といった、ゲームを取り巻く環境全体を考慮に入れた、より高次の次元での駆け引きや戦略のこと。

[^4]: CAP定理 (CAP Theorem): 分散コンピュータシステムにおいて、一貫性 (Consistency)、可用性 (Availability)、分断耐性 (Partition tolerance) の三つの特性のうち、同時に満たせるのは最大二つまでである、という定理。三者がトレードオフの関係にあることを示す。


あとがき

後で書くかもしれない。対話履歴のメモ。

https://aistudio.google.com/app/prompts?state=%7B%22ids%22:%5B%221DQqEyKR9wlSGzyHlq20QR7FSERpHspI2%22%5D,%22action%22:%22open%22,%22userId%22:%22108405443477417806091%22,%22resourceKeys%22:%7B%7D%7D&usp=sharing

面談の話は圧縮されてゴミになってた。

補足情報

別の表現で書き換え図を追加したもの。スタイルを変えたことで見える部分もある(実は導入部分はここから拝借した)

https://gist.github.com/podhmo/bc4e00ceced85a5cc58807271e8e29bd

図は理解のために便利だけれどほしいものそのものではない。

あと、コミュニケーションの話はこの文章の内部と外部の話にも繋がるな。

https://sizu.me/podhmo/posts/w2sn7fcubmrw