「どうもこうも、落ち着かないですね。」
ウマ娘にとっては格式すら思わせる赤の体操服にも「反抗するんだろ?」と明日の上司からポンと投げ渡された緑色のジャージは、「新生・URA陸上部/トレセン学園陸上部」のアイコンになる。
一般学生の赤と全く区別がつかないのは格好がつかないだろう、そういう好意から助言を受けた結果ではあるのだが、少し意地悪い。
「タイミングが悪いってものじゃないな、三冠にとんでもない啖呵切った翌年にこの騒ぎだろう」
「おかげさまで『セントライト記念』のトロフィーが直視できなくなりましたとも。」
顔は直視しているわけではないが、苦笑いしているということくらいは、音でもわかる。ウマ娘の耳の良さの為せる業だが、ここまで露骨なのはさすがにヒトにだってわかるだろう。
少しの興味深さと愉快さを感じてくれる笑いだ。この鷹揚な人柄こそが「伝説」の証左。
「師事いただいた先輩が『グランプリの風物詩』と呼ばれていたからこそ、「中山」「2200m」でチャンスが生まれたんだと思ってました」
「それで感慨にふけっていたら、『とんでもないドッキリの伏線でした』と三女神さまが打ち明けてきたわけですからね、拗ねますとも。」
「まあ、頑張って拗ねようとしても、最後には『なんでこんな人たちと仕事をしてるんだろう』っていうのが先に来て、ニッコリ笑顔になっちゃうんですよね。」
百も承知のことだけど、スターというのは、アスリートというのは「凄まじさ」を湛えている。
星々との共演という「非日常」に一区切りがついても、生意気にブチこんだ「一撃」は、皮肉にもならないほど影響が大きく、自分の思い描いた日常とは似ても似つかぬ環境を「日常」にしてしまった。クラシック音楽を卒業したのは、「クラシックから卒業した」とかいう洒落を多分に含むが、それ以上に、ああいう音楽に頼らなくても、世界が感慨で満ちてしまったからだ。
何も始まっていないが、その割には得ているものが大きすぎる。
そう、まだ何も、始まっていない。確かめるようにつぶやく。
なるほど、自分は器じゃない。ローマの第一人者たちが、警句を呟き続ける男を傍に置く意味が分かる。こうでもしないと毎秒毎秒舞い上がる。
「気骨稜稜、気合乗りは十分という感じだね」
「朝食すら始まってないというのに、なんてね。」
朝6:00。
これでも朝練に熱心なウマ娘たちよりは遅い。
早番の"大人たち"のためにも開かれる朝の食堂。頼んだメニューはやはり生徒っぽいラインナップだ。朝練の選手と似たり寄ったり。所詮「高校3年生・シニア1年」の食事に過ぎないかな。
ニンジンのソテーを食み、トーストを齧り、「カフェインが濃すぎるのはアスリートの毒だ」とか理由をつけて、温かい牛乳をすする。
ご飯をゆっくり食べる日常が来た。「世界を知るウマ娘」と一時の食卓を囲むという非日常とともに。
これは極端だが、それでも「日常」はこのように変質するのだ。
憧れと仰ぐスターたちと一緒に、師と仰ぐ名指導者とともに、パトロンと仰ぐ大事業家とともに、未来の星を手に取る。一つ一つ磨いては、空に飾って見上げる。
正直、何を話したかなど、覚えてはいない。
高揚。高揚することの不安。そればかりを話していた気がする。もっと有意義な時間の使い方があったろうに。
(心の奥底で、この世界から解放されたいという気持ちがあったからか?)などと、自分自身に意地悪を言いたくなる。
「いやはや、『宿敵』と囲む食堂は居心地が悪いかな」
「か…勘弁してください。」
「可愛げがあってついつい、悪いね」
「でも弄り倒したくて言ってるんじゃないさ、ちゃんと『挨拶』くらいしたほうがいいだろうと思ってる」
「仲間というのは、それだけ得難いのだから」
勝負前のルーティン・フードにして、「風格」を意味するバナナを手にして、軽く左右に振る。
一呼吸を置いて、手を差し出す。
デュオモンテ君、と「老雄」も一呼吸を置いて、黄色のバトンを、小さな小さな時計塔の手に収める。
「この場に残ると決めた、その甲斐を存分に感じて見給えよ」
練習トラックの外周、息を吐く。とにかくリセットしたかったので、ルーティンのランを先にこなしたものだから、ほっと息をつく段階を超えて、まあまあ息を切らした様子を浮かべてほしい。そっちの「息を吐く」だ。
見事に「逃げた」成れの果てを見て、羽佐島コーチもさらに違う意味で息を吐く。
「大物慣れ、ダメそう?」
「結果としてはダメですが最低限の免疫はついたんじゃないかと……」
スピードシンボリさまはさすがに「極限」だ。この上も想定しなくてはならないが、これからの仕事でもぶち当たることは稀だと信じたい。
「解放されて、引退のてんやわんやも済んで、ビジネスの手引きも裏面では一区切り。今夜、表に立つわけですから、今日はじっくりしたいです。」
いいと思う、と羽佐島もうなずく。
「有意義だったんじゃない、朝食。」
「そうかもしれません。やっと『クラシック』の仮面を脱げるんですから。」
「じゃあそのついでに、これから私のことは『シオン』って呼んでくれない?」
「それは半ば同僚になるからでしょう、それは明日からにしてください、羽佐島コーチ。」