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「乗り越えた」は何を終わったことにするのか―長崎81年、被爆の記憶と核抑止

Break the Frame@サリー
·
公開:2026/8/10

この記事で考えたいのは、被爆を「記憶する」ことと、その経験を現在と未来の政策につなげることは、同じなのかということです。

2026年の長崎平和宣言と日本政府は、ともに「核兵器のない世界」を掲げています。しかし、長崎が核抑止への依存からの転換を求める一方、日本政府は現在も米国の核を含む拡大抑止に安全保障を委ねています。

この記事では、まずこの違いを確認します。その上で、「先の大戦による荒廃を乗り越えた」という語り、「唯一の戦争被爆国」という主語、「被爆者の声に耳を傾ける」「非核三原則を堅持している」という言葉を順に見ていきます。そして最後に、そもそも核抑止とはどのような仕組みなのかを考えます。

被爆を過去の記憶として受け継ぐだけではなく、そこから現在と未来について何を聞き取るのか。

長崎から81年のいま、その問いを考えてみます。

過去の惨禍から、未来の安全保障を問う―令和8年 長崎平和宣言

2026年8月9日、長崎は81回目の「原爆の日」を迎えました。

長崎市の平和祈念式典で、鈴木史朗市長は「令和8年 長崎平和宣言」を読み上げました。

今年の平和宣言は、13歳で被爆した故・𠮷田勝二さんの証言から始まります。

爆心地の方に向かうと黒焦げで炭化した人、目が飛び出ている人、内臓が飛び出した人、手足がない人たちが右往左往していた。

浦上川にたどり着くと、ここも焼けただれた多くの人が、油と血と汚れた水、その水を飲みながら次々に亡くなっていった。

私は、全身血だらけ、皮膚は剥がれ体の下の方にだらりとぶら下がっていた。顔も皮膚は付いていたものの、どす黒く焼け焦げていた。

平和宣言は、その後の𠮷田さんについても記しています。

𠮷田さんの顔には生涯消えることのない大きな火傷の痕が残り、周囲からの視線に苦しみ続けました。

辛うじて死を免れた人々も、心身に深い傷を負い、放射線の影響でがんなどが発症することへの不安と恐怖を一生抱え続けています。

宣言は、この81年前の経験を現在の核兵器と核抑止の問題へつなげます。

現在も世界には1万2千発以上の核弾頭が存在し、相互不信や対立・分断のなかで核兵器の近代化や増強が進んでいるとして、核軍縮に逆行する状況を指摘します。

その上で、核兵器を保有することで攻撃を思いとどまらせる「核抑止論」そのものを問い直します。

核兵器に依存する国は、核兵器を実際に使用しなくても、保有することで他国に攻撃を思いとどまらせることができるという「核抑止論」を主張します。

しかし、戦争という極限状況の中で自国の存亡を懸けた究極の判断を迫られたとき、それでもなお「核のボタン」を押さないと、誰が言い切れるのでしょうか。

広島・長崎への原爆投下は、人間が人間への核兵器使用という一線すら越えてしまう現実を突きつけました。

そして、被爆者や被爆地の経験から、

核抑止論は、極めて危うい。核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」であり、人類と核兵器は決して共存できない、と。

と結論づけています。

ここで「絶対悪」という言葉だけを単なる感情的な規範として切り離して読むことはできません。

被爆体験から出発し、現在の核軍拡と相互不信を見た上で、核抑止が前提とする「使用する可能性」そのものを問い、その結論を現在の安全保障政策への要求につなげているからです。

核抑止力に頼れば頼るほど、核戦争の危険もまた高まる現実を直視すべきです。

NPT(注1)の義務を履行し、核軍縮に向け着実に前進することを強く求めます。

(注1)NPT(核兵器不拡散条約)は、核不拡散、核軍縮、原子力の平和的利用を三本柱とする国際条約です。1970年に発効し、日本は1976年に批准しました。

さらに日本政府には、次のように求めています。

とりわけ日本政府は、今年初めて開催される核兵器禁止条約再検討会議に参加し、唯一の戦争被爆国としての歴史的使命を全うすべきです。

不戦の決意が込められた日本国憲法の平和の理念と非核三原則を堅持し、国際社会の緊張緩和と軍縮に向けた外交を強化してください。

北東アジア非核兵器地帯の実現などを通じて、核兵器に頼らない安全保障政策への転換を求めます。

今年の長崎平和宣言は、原爆の惨禍を語るだけで終わっていません。

被爆体験から出発し、核抑止を問い、現在の日本政府に「核兵器に頼らない安全保障政策への転換」を求めています。

つまり、ここで語られている被爆体験は、過去を記憶するためだけの証言ではありません。未来の安全保障政策をどう考えるのかという問いへ、そのまま接続されています。


同じ「核兵器のない世界」、異なる安全保障―長崎平和宣言と日本政府

同じ式典で、高市早苗首相も挨拶を行いました。

高市氏は、81年前の惨禍を「決して繰り返させてはならない」とした上で、次のように述べています。

我が国は、『非核三原則』を堅持しており、「長崎を最後の被爆地に」という誓いの下、「唯一の戦争被爆国」の使命として、「核兵器のない世界」の実現に向けた現実的かつ実践的な取組を推進しています。

ここで使われた「非核三原則を堅持しており」という現在形については、後ほど改めて見ます。

まず注目したいのは、「核兵器のない世界」という言葉です。

これは、先ほど見た長崎平和宣言と日本政府に共通しています。どちらも81年前の惨禍を繰り返してはならないとし、NPTを重視し、「核兵器のない世界」を目標として掲げています。

しかし、現在の安全保障を何によって成り立たせるのかという点では、両者の立場は異なります。

2026年7月24日の記者会見で、小泉進次郎防衛相は、非核三原則を「政策上の方針として堅持しています」と述べる一方、現在の安全保障について次のように説明しています。

我が国としては、自らの防衛力を強化するとともに、アメリカが提供する核を含む拡大抑止(注2)の信頼性を更に高めることにより、我が国の平和と安全を守り抜いてまいります。

(注2)拡大抑止 ある国が持つ抑止力を、自国だけでなく同盟国などの防衛にも及ぼすことです。日本は米国から拡大抑止の提供を受けており、そこには通常戦力だけでなく核戦力も含まれます。

同じ会見で小泉氏は、安保三文書の改定について「あらゆる選択肢を排除せずに」議論するとしています。

さらに、2026年6月の日米拡大抑止協議では、米国が「核を含むあらゆる能力」を用いた日本防衛へのコミットメントを確認し、日米両政府は「米国の核戦力の現代化及び適応の取組」についても議論しました。

つまり、日本政府は「核兵器のない世界」を将来の目標として掲げながら、現在の安全保障については、米国の核兵器を含む拡大抑止に依存し、その信頼性を高める方針を採っています。

一方、長崎平和宣言は、

核抑止力に頼れば頼るほど、核戦争の危険もまた高まる現実を直視すべきです。

と述べ、日本政府に、

北東アジア非核兵器地帯の実現などを通じて、核兵器に頼らない安全保障政策への転換を求めます。

と要求しています。

また、長崎平和宣言が求めた核兵器禁止条約再検討会議への参加についても、高市氏の式典挨拶では言及されませんでした。この点は、同日午後の記者会見で改めて問われることになります。

両者が掲げる最終的な言葉は、同じ「核兵器のない世界」です。

しかし、そこへ至るまでに何が安全をつくり、何が危険をつくると考えるのかは同じではありません。

長崎平和宣言は、核抑止への依存そのものが危険を高めるとして、そこからの転換を求めています。

日本政府は、核兵器の廃絶を将来の目標としながら、現在は核抑止を利用して安全を確保しようとしています。ここには目標と現在の手段とのあいだに矛盾があります。

現在の核抑止への依存を強めることが、どのような道筋で将来の「核兵器のない世界」につながるのか。その間を埋める説明は必要でしょう。

「核兵器のない世界」という共通の言葉だけを見ていては、この違いは見えてきません。


被爆クスノキと「乗り越えた」―被爆を過去形にする言葉

ここまで、長崎平和宣言と日本政府が、同じ「核兵器のない世界」を掲げながら、現在の安全保障を異なる論理で捉えていることを見てきました。

ここからは政策そのものではなく、その政策と並んで、被爆や戦争がどのような過去として語られているのかを見てみます。

手がかりになるのは、高市氏が式典挨拶で語った被爆樹木です。

この街には、81年前のあの日を経験した被爆樹木があると伺っています。

強烈な爆風と熱線によって幹を焼かれ、枝を折られても、しっかりと大地に根を張り、再び葉を芽吹かせた被爆樹木の姿は、筆舌に尽くし難い苦しみと深い悲しみの中にあった方々の心に、希望の光を灯したことでしょう。

被爆樹木の姿は、廃墟から見事に復興を遂げられた長崎の皆様の姿とも重なります。

被爆したクスノキに生命力を見いだし、励まされるという受け止めは、高市氏が初めて持ち込んだものではありません。

爆心地から約800メートルの山王神社にあった大クスは、原爆で枝や葉を吹き飛ばされ、黒焦げの幹だけになりましたが、約2か月後には新芽を出しました。長崎市の「クスノキプロジェクト」は、家族や住む場所を失った地域の人々が、その生命力に「大いに勇気づけられた」と記しています。

現在も大クスは原爆被害を伝える象徴として守られ、その種から育てられた「被爆クスノキ2世」には、再び戦火に遭わない世界への願いが託されています。

ですから、私は、高市氏が被爆樹木に「希望」を見たこと自体を批判したいのではありません。街が復興し、生き延びた人々が生活をつくり直し、クスノキの生命力に励まされてきたことも事実です。

だからこそ、区別したいことがあります。

被害を受けた人々が、再び芽吹くクスノキの生命力に励まされ、そこに希望を見いだすこと。

そして、政治の側が、戦争による「復興を遂げられた」過去として語ること。この二つは、同じではありません。

高市氏が式典で語った「復興」を、彼女が別の場所で用いている「乗り越える」という語りと並べてみます。

2026年4月12日の自民党大会で、高市総裁は、憲法改正を訴える演説の終盤で次のように語っています。

先の大戦による荒廃や幾多の災害を乗り越え発展してきたことは、日本と日本人の底力によるものです。

ここでは、「先の大戦による荒廃」と「幾多の災害」が一続きに置かれ、それを「乗り越え発展してきた」ことが「日本と日本人の底力」に結びつけられています。

同じ語彙は、自民党が2012年に決定した日本国憲法改正草案の前文にもあります。

我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、

一方、現行憲法の前文には、次の一節があります。

政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする

ここで比べたいのは文章の由来ではなく、戦争がどのような出来事として配置されているかです。

現行憲法では、

政府の行為 → 戦争の惨禍 → それを再び起こさない

という因果関係が明示されています。

一方、「先の大戦による荒廃を乗り越えて発展した」という語りでは、

戦争による荒廃 → それを「我が国」が乗り越える → 発展

という物語になります。

後者では、誰が戦争を始め、どのような政治的判断によって拡大し、誰が誰に何をしたのかという因果関係よりも、「荒廃に見舞われ、それでも立ち上がった日本」という物語が前に出やすくなります。

とりわけ、「先の大戦による荒廃」と「幾多の災害」が並べられていることには注意したいと思います。

戦争による破壊が、経験した一人ひとりにとって圧倒的な「災厄」であったことは否定できません。しかし、地震や台風と違い、戦争は政治的判断によって起こります。国家が戦争を語るとき、その惨禍を生んだ行為や責任まで後景に退かせることはできません。

だから、「先の大戦による荒廃」を「乗り越えた」と語るときには、少し立ち止まりたいと思います。

誰が、何を、乗り越えたのでしょうか。

被爆クスノキが再び芽吹いたことは、原爆がなかったことにはなりません。長崎の人々が街を再建したことは、その傷が消えたことを意味しません。

そして、生き延びた人々が自らの経験の中から「希望」を見いだしたことは、政治の側が、戦争による荒廃を「乗り越えた」過去として語ってよいということでもありません。

復興したことを、終わったことにしない。生き延びたことを、傷がなくなったことにしない。「乗り越えた」と言うなら、まず、その言葉の主語を確かめる必要があります。

「我が国が乗り越えた」というとき、「日本と日本人の底力」というとき、その中には、いったい誰が含まれているのでしょうか。


「日本」は誰を含んでいるのか―国境を越える被爆者

1945年8月9日の長崎で原爆に遭ったのは、日本人だけではありませんでした。

長崎市が公開している「外国人戦争犠牲者追悼核廃絶人類不戦碑」の碑文には、戦争末期の長崎で犠牲になった人々について、次のように記されています。

この戦争の末期、長崎では数次にわたる米軍の空襲、潜水艦攻撃、そして八月九日の原爆 によって七万余の日本人、数千の朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜(イギリス、アメリカ、オーストラリア、オランダ、インドネシア等)が犠牲となった。

碑文は、空襲や潜水艦攻撃、原爆による犠牲をまとめて記したものですが、長崎の戦争被害の中に、朝鮮人、中国人労働者、華僑、留学生、連合軍捕虜らがいたことを示しています。

ここで、「外国人の被爆者もいました」と付け加えるだけでは足りないと思います。

なぜ、その人は1945年8月9日に長崎にいたのでしょうか。

朝鮮半島は当時、日本の植民地支配下にありました。1998年の日韓共同宣言で、小渕恵三首相は、日本が植民地支配によって韓国国民に「多大の損害と苦痛」を与えた歴史的事実を認め、「痛切な反省と心からのお詫び」を述べています。

日本によるアジアへの侵略も続いていました。1995年の村山談話は、日本が「植民地支配と侵略」によって、とりわけアジア諸国の人々に「多大の損害と苦痛」を与えたとして、「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明しています。

また、戦時中に強制連行され、長崎刑務所浦上刑務支所で原爆の犠牲となった中国人を追悼する式典も、現在まで長崎市で行われています。碑の維持管理委員会によれば、長崎県内の4炭鉱には約1000人の中国人が強制連行され、100人以上が亡くなったとされています。

もちろん、長崎にいた朝鮮半島出身者や中国人、その他の人々が、みな同じ経緯でそこにいたわけではありません。だからこそ、「外国人被爆者」と一括りにするだけでなく、その人がなぜ長崎にいたのかを見る必要があります。

米国による原爆投下と、日本による植民地支配や侵略は、加害の主体も行為も異なります。日本が原爆の被害を受けたことは、日本の加害の歴史を消しません。そして日本の加害の歴史も、そこで原爆に遭った一人ひとりの被害を小さくするものではありません。

その両方を見なければ、あの日の長崎に誰がいたのかは見えてきません。

被爆者の経験は、戦後も日本という国境の内側だけにとどまりませんでした。

現在、日本政府は海外に居住する被爆者にも、国籍を問わず被爆者健康手帳を交付しています。厚生労働省によれば、2026年3月末の在外被爆者の手帳所持者は約2,061人で、戦後に韓国へ帰国した人や、米国などへ移住した日系人が大半を占めます。

「唯一の戦争被爆国」という言葉を使うとき、被爆の経験まで「日本国民」という一つの主語に閉じ込めないこと。

それは、被爆の歴史を語るための最低限の前提だと思います。

そして、これは過去の歴史をどう記述するかという問題だけでもありません。

2026年4月、広島で被爆した韓国原爆被害者協会陜川支部のシム・ジンテさんは、韓国人被爆者の経験を国際社会に伝えるにあたり、こう問いかけています。

米国は謝罪しましたか、補償しましたか。日本は謝罪しましたか。

ハンギョレ新聞は、韓国人原爆被害者が、日本の植民地支配や強制動員、米国による原爆投下、そして戦後の韓国社会からの無関心や冷遇にさらされてきたと報じています。

「日本が乗り越えた」と語る前に、その「日本」という主語からこぼれ落ちる人はいないかを確かめる必要があります。

被爆の歴史は、国境の内側だけで完結した過去ではありません。そして、その歴史をめぐる問いも、まだ終わってはいません。


「被爆者」と呼ばれない人の声を、どう「聞く」のか

長崎では、原爆投下時に国が指定した被爆地域の外側にいたため、原爆を経験していても被爆者健康手帳を交付されていない「被爆体験者」がいます。

今年の長崎平和宣言も、

未だ被爆者と認められていない被爆体験者の一刻も早い救済を強く要請します。

と訴えています。

岩永千代子さんは、その一人です。

2024年8月9日、当時の岸田文雄首相は、被爆者への認定を求める被爆体験者と初めて直接面会しました。その場で岩永さんは、こう問いかけました。

総理に申し上げます。私たちは被爆者ではないのでしょうか?

岸田氏は、「早急に課題を合理的に解決できるよう」、厚生労働相に長崎県・長崎市と具体的な対応策を調整するよう指示しました。

その後、国は被爆体験者について、被爆者と同等の医療費助成を行う制度を始めました。

しかし、医療費助成を受けることと、法律上「被爆者」として認められることは同じではありません。岩永さんたちは、被爆者としての認定と、原爆による内部被ばくの問題について調査・研究を進めることを求め続けています。

2025年、岩永さんは石破茂首相との面会にも同席しました。しかし発言の機会は設けられず、持参した手紙を読む時間もありませんでした。

面会後、岩永さんはこう語っています。

国民の悲しみ、訴えを真摯に聞き取って下さること。これが平和に繋がると思います

そして2026年。

被爆体験者3団体は、高市早苗首相との面会にも参加しました。しかし、前年に続いて被爆体験者側に発言の機会は設けられませんでした。

面会を前に、岩永さんは、

発言できないなら何のために会うのか

と問い、直接訴えられないことを「非常に残念」だと語りました。

実際の面会でも、被爆体験者自身の発言機会はありませんでした。被爆者団体から被爆者としての認定を求められた高市氏は、被爆者と同等の医療費助成を着実に実施すると説明しましたが、認定について新たな方針は示しませんでした。

面会後、高市氏が握手に来た際、岩永さんは直接、

被爆者と認めて欲しい

と訴えました。しかし、返事はなかったといいます。

岩永さんは、その後こう語っています。

私たちは被爆者じゃないのか。それが問題なんです。核を使うことがどれだけ恐ろしいことか共有したい。高市首相に届いていると理解したい。

一方、高市氏は同日の記者会見で、核軍縮について「被爆者の皆さまの声に耳を傾けながら」取り組むと述べました。

これは核軍縮についての発言で、被爆体験者の認定問題への直接の回答ではありません。

被爆体験者については、被爆者団体との面会での回答と変わらず、2024年12月から「幅広い一般的な疾病について、被爆者と同等の医療費助成」を実施しており、この支援を着実に続けるという説明を繰り返しています。

繰り返しになりますが、ここでいう「同等」は、医療費助成についてです。被爆者としての認定まで同等になったわけではありません。

医療を受けるための支援が同等であることと、「あなたも被爆者である」と認められることは、同じではありません。

今年、新たな研究もこの認定問題に問いを投げかけています。

2026年4月、長崎大学の研究者らは、原爆投下3日後に広島の爆心地へ入った女性の体内を調べ、原爆由来とみられる放射線と、その周辺で細胞が死滅した空洞を確認したと報告しました。この論文は、現在続いている被爆体験者訴訟でも原告側の証拠として提出され、採用されています。

高市氏は8月9日の記者会見でこの研究についても問われましたが、「現在係争中の訴訟に関するものでもあります」として、評価を差し控えました。

ここまでを踏まえると、「声に耳を傾ける」とは何を意味するのか、という問いが残ります。

式典に招くこと。握手すること。証言を記録することは、現在の政治に向けられた要求を聞き、応答することに、つながっているのでしょうか。

被爆者を「過去を証言する人」として尊重することと、「現在の政治について発言する主体」としてその要求を受け止めることは、つながっているのでしょうか。

被爆者の平均年齢は、2026年3月末時点で86.66歳になっています。

「私たちは被爆者ではないのでしょうか」という問いに、残された時間は無限ではありません。


未来を問われて、「堅持している」と答える

ここまで、いくつかの異なる場面を見てきました。

  • 長崎平和宣言は、被爆体験を81年前の記憶にとどめず、現在と未来の安全保障政策を問う言葉として語っています。

  • 一方で、日本政府は「核兵器のない世界」を掲げながら、現在は核を含む拡大抑止に依存しています。

  • 「先の大戦による荒廃を乗り越えた」と語るとき、その「日本」という主語からこぼれ落ちる人々がいます。

  • そして現在も、「被爆者」という言葉の外側に置かれ、「私たちは被爆者ではないのでしょうか」と問い続けている人がいます。

ここで、改めて一つの問いを置きたいと思います。

被爆を「記憶する」と言いながら、その経験を現在と未来の政策につなげることは、避けられていないでしょうか。

そのことを考えるために、ここからは高市氏が繰り返した「非核三原則を堅持している」という言葉に戻ります。

高市氏は8月9日の式典挨拶で、下記のように述べました。

我が国は、『非核三原則』を堅持しており、「長崎を最後の被爆地に」という誓いの下、「唯一の戦争被爆国」の使命として、「核兵器のない世界」の実現に向けた現実的かつ実践的な取組を推進しています。

ここで使われているのは、「非核三原則を堅持する」ではなく、「堅持しており」という現在の状態を示す表現です。

この言い方は、前年の石破茂首相による同じ長崎の式典での表現と比べると、少し違っています。

2025年、石破氏は次のように述べていました。

しかし、いかに険しい状況にあろうとも、唯一の戦争被爆国として、非核三原則を堅持しつつ、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の取組を主導していくことこそが我が国の使命であり、一歩一歩、着実に努力を積み重ねます。

石破氏は、「非核三原則を堅持しつつ」と、その後の「主導していく」「努力を積み重ねる」という今後の行動につなげていました。

一方、高市氏が用いたのは、「堅持しており」という現在の状態を示す表現でした。もちろん、この表現だけから、高市氏が将来の見直しを意図していると断定することはできません。

その日の午後、高市氏は、まさにその将来について直接質問されています。

記者は、安保三文書の改定が進むなかで、非核三原則を「今後も」揺るぎなく堅持するのかと尋ねました。

高市氏は、まず安保三文書について、今後の「書きぶり」そのものを予断することは差し控えるとしました。

その上で、

政府としては、非核三原則を、これを政策上の方針として堅持している

と回答しています。

未来について問われても、示されたのは「今後も堅持する」という明示的な回答ではなく、現在「堅持している」という説明でした。

核兵器禁止条約についても、似た構造があります。

今年の長崎平和宣言は、日本政府に対し、2026年に初めて開かれる核兵器禁止条約再検討会議への参加を求めました。

高市氏は式典挨拶では条約に触れず、午後の記者会見では、

核兵器のない世界への出口ともなり得る重要な条約

と評価する一方、再検討会議への参加は明言せず、日本の安全保障と核軍縮の実質的進展のため「何が真に効果的か」を検討するとしました。

「重要な条約」「出口ともなり得る」「声に耳を傾ける」「非核三原則を堅持している」。

どれも否定的な言葉ではありません。

しかし、肯定的な言葉を使うことと、その言葉を未来の政策につなげることは同じではありません。

長崎平和宣言は、被爆の過去から「核兵器に頼らない安全保障政策への転換」という未来を要求しました。一方、日本政府は「核兵器のない世界」を掲げながら、現在は核を含む拡大抑止への依存を続けています。

では、なぜ核抑止は、それでも「現実的」な安全保障とされるのでしょうか。


使わないために、使うと信じさせる―核抑止という安全保障

ここでは、核抑止を支持する側の論理も確認しておきたいと思います。

冒頭で見たように、核抑止とは、核兵器を保有することで相手に攻撃を思いとどまらせようとする考え方です。

日本政府も現在、米国が提供する核を含む拡大抑止の信頼性を高めることで、日本の平和と安全を守るという立場を採っています。

つまり、核抑止論は「核兵器を使いたいから必要だ」という考えではありません。必要なら使用できる能力があると相手に認識させることで、攻撃そのものを思いとどまらせようとします。

核兵器を持つ国や核による威嚇が存在する以上、自分たちだけが核抑止を手放せば、かえって攻撃や威圧を招くと考えます。

争点は、どちらが平和を望んでいるかではありません。

何が、その平和を守るのかです。

2016年、オーストリア政府が国連の核軍縮に関する公開作業部会へ提出した文書は、核抑止を、相手に「受け入れがたい破壊や結末」をもたらすという説得力のある威嚇によって、自制的な行動を導こうとする仕組みとして整理しています。

核抑止の威嚇を説得力のあるものにするためには、必要なら核兵器を使用できると相手に信じさせなければならない。

最初から「絶対に使わない」と相手が確信しているなら、威嚇の説得力は弱くなります。

だから核抑止は、核兵器が実際に使用される事態を避けようとしながら、必要なら使用できる能力と、その可能性を相手に信じさせる必要があります。

もう一つの緊張もあります。

事故や人的・技術的トラブルによる使用を防ぐためには、核兵器を使用できる準備体制を制限したい。一方、抑止の信頼性を維持するには、いつでも使用できる準備状態を維持する必要があります。

文書は、この二つの要求の間には「矛盾が内在する」と指摘し、過去には事故や計算違いが核戦争に発展しかねない「ニアミス」もあったとしています。

ここで、長崎平和宣言の問いに戻ります。

戦争という極限状況の中で自国の存亡を懸けた究極の判断を迫られたとき、それでもなお「核のボタン」を押さないと、誰が言い切れるのでしょうか。

これは単に、「政治家が冷静ではないかもしれない」という人物批評にはとどまりません。

核抑止という制度自体が、「使わないために、使う可能性を信じさせる」という構造を持っていることへの問いです。

核抑止が危機の回避に寄与したと評価する議論はあります。

しかし、それは核抑止が「絶対に失敗しない安全装置」であることを意味しません。一度失敗したときに起きることまで含めて、安全保障を考える必要があります。

ここでもう一度、𠮷田勝二さんの証言を思い出します。

黒焦げになった人。手足を失った人。内臓が飛び出した人。焼けただれ、浦上川の水を飲みながら亡くなっていった人。

それは、核抑止が防ごうとしている惨禍です。

同時に、その惨禍を引き起こすほどの破壊力があるからこそ、「攻撃すれば耐えがたい損害を受ける」という威嚇も成立します。

つまり、核兵器の非人道性は、抑止が失敗したあとにだけ現れる副作用ではありません。

核抑止は、その惨禍を起こさないための仕組みであると同時に、その惨禍を起こし得る能力を威嚇として利用する仕組みの本質でもあります。

だから、長崎平和宣言の、

核兵器は「必要悪」ではなく「絶対悪」

という言葉を、単なる感情的な修辞として脇へ置くことはできないと思います。

「絶対悪」は科学的な分類ではありません。

実際に核兵器が人間に何をするのかを経験した被爆者と被爆地が下している、規範的な判断です。

そして、その非人道的な破壊力は、現在の核抑止の外側にあるものではありません。それ自体が、抑止の威嚇を成立させる力そのものでもあります。


ここまで確認したこと―残る問い

ここまで、いくつかのことを確認してきました。

  • 長崎平和宣言は、被爆体験を81年前の記憶にとどめず、「核兵器に頼らない安全保障政策への転換」という現在と未来の要求につなげていることを確認しました。

  • 日本政府は「核兵器のない世界」を掲げながら、現在の安全保障では米国の核を含む拡大抑止に依存し、その信頼性を高める方針を採っていることを確認しました。

  • 被害を受けた人が、生き延びた経験の中から「希望」を見いだすことと、政治の側が「先の大戦による荒廃を乗り越えた」と語ることは同じではないことを確認しました。

  • 「日本」という主語の中には、日本国民ではなかった被爆者の経験まで収まりきらないことを確認しました。

  • 2026年の現在も、「私たちは被爆者ではないのでしょうか」と問い続ける被爆体験者がいることを確認しました。

  • 高市氏は、非核三原則を今後も堅持するのかと問われても、現在「堅持している」と説明し、核兵器禁止条約についても「重要な条約」と評価しながら、再検討会議への参加は明言しなかったことを確認しました。

  • そして核抑止は、核兵器を使わせないために、必要なら使う可能性を相手に信じさせるという緊張を抱えていること、その非人道的な破壊力そのものが抑止の威嚇を成立させていることを確認しました。

ここまで見てくると、いくつかの問いが残ります。

「乗り越えた」。

誰が、何を、乗り越えたのでしょうか。

「声に耳を傾ける」。

誰の声を、どこまで聞くのでしょうか。

「非核三原則を堅持している」。

未来について問われたとき、その言葉はどこまで未来を方向づけるのでしょうか。

「核兵器のない世界」。

そこへ向かう現在の政策は、核兵器への依存を減らしているのでしょうか。それとも、核抑止の信頼性をさらに高めているのでしょうか。

被爆者の言葉を受け継ぐことは、その言葉を「過去の証言」として保存するだけではたりせん。そこから現在と未来に向けられた問いに応えることが必要です。

生き延びたことを、被害が終わったことにしない。

街が復興したことを、責任が終わったことにしない。

被爆を記憶するということは、過去を保存するだけではなく、そこから現在と未来を問い続けることでもあるのだと思います。


あなたにできること

一つだけ書きます。

長崎市が公開している今年の平和宣言の一番下には、『賛同』ボタンがあります。

この記事では長いこと、その宣言が何を言っているのかを読んできました。

核抑止への依存から転換すること。 核兵器禁止条約再検討会議に参加すること。 非核三原則を堅持すること。 被爆体験者を一刻も早く救済すること。 そして、「長崎を最後の被爆地に」すること。

もし、その言葉に賛同するなら。

宣言そのものを読んで、意思を示すこともできます。よろしくお願いします。


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@sallypenguin
サリーといいます。普段はBlueskyに生息しています。 bsky.app/profile/sillysallypenguin.bsky.social