SNSから距離を取る判断をしてから、数日経ちました。
思いのほか、私は日常の雑感を放出する場所としてBlueskyアカウントを重宝していたらしく、そのことを翌日あたりから実感しました。
そんなわけで、後先考えずに家出した子どもみたいに、どうにも日中は所在ない感じです。
人恋しさと手持ち無沙汰さに追われ、お友達にDMを送ったり、Discordで通話をしたり、お食事に行ったり、カフェで雑談したり、身近なVTuberさんの生配信のチャット欄に出没したり。そんな日々を送っています。
昨日は五反田でお友達に誘っていただき、スリランカのカレーを食べてきました。
私が食べたのはシーフードのカレーでした。いろいろ混ぜながら、少しずつ味が変わっていくのを楽しんできました。また行きたいお店です。

さて。
私がまだ、ふらっとBlueskyへ戻る気になれないのは、単に「いったん離れると言ってしまった手前、すぐ戻るのは格好がつかない」というだけではありません。
自分の中に残っているモヤモヤを、一度整理しておいた方がいいと思っているからです。
大げさに聞こえるかもしれませんが、今のまま戻ることには、自分なりに少し危うさを感じています。
一つは、自分の生活に対する危うさです。
SNSで起きていることを追い続けたり、誰かとの議論をいつまでも考え続けたりすることが、自分の生活や体調を崩す方向へ働くことがある。
もう一つは、他人に対する危うさです。
先日、私は過去の自分の発言について訂正と謝罪をしました。
実際に私は、十分な根拠を示さないまま、他人の言動について「差別」や「加害」という強い認定まで進んだことがあります。
なのでこれは、「もしかすると自分にもそういう危険性があるかもしれない」という仮定だけの話ではありません。
少なくとも、実際にやっています。
だから、そこは軽く扱いたくありません。
最近、私が差別を認定するときに使っていた論法について、李琴峰さんを糾弾していた人たちと「まったく同じ問題をはらんでいる」と指摘されました。
ご指摘のポスト:
https://bsky.app/profile/if-not-exists.bsky.social/post/3mwflblssss2p
https://bsky.app/profile/if-not-exists.bsky.social/post/3mwfmocul7c2p
決して誤解されたくないので強めに言っておきますが、そこで挙げられている個々の出来事に私が関与していたわけではありませんし、私が同じ行為をした、という指摘でもありません。
だから、その比較をそのまま自分に当てはめるつもりはありません。
ただ、「私はその個別事例には関係していない」で話を終わらせるのも、また違う気がしています。
私は実際に、過去に他人の言動について、十分な根拠を示さないまま「差別」「加害」という強い認定まで進んだことがあります。
そこはすでに訂正し、謝罪しました。
私はこの指摘を、自分にも「十分な根拠を置かないまま強い認定へ進む」という共通する問題があるのではないか、そして、その認定の仕方をそのままにしておけば、さらに強い認定や糾弾へ進んでしまう危険も考える必要があるのではないか、という問題提起として受け取りました。
これは、相手の指摘の意味を私が確定するというより、私自身がそこから引き受けた問いです。
私が「『バカというのは差別』という謎理論に乗っていた」と指摘されている件についても、少し整理しておきたいと思います。
謝罪を経た現在の私の立場は、「『バカ』という言葉の個々の使用が差別に当たるかどうかは、文脈や根拠を見て個別に考える必要がある」というところに留まっています。
自分でも歯切れが悪いと思います。ただ、ここは歯切れよく言い切ればよい話でもないと思っています。
一方で、当時の私はかなり歯切れよく言っていました。
ある当事者が、その言葉を自分への排除として経験したことを示すことで、第三者である自分自身による「差別」「加害」という認定まで、かなり強く押し進めていました。
ここは確実に行き過ぎだったと考えています。その認定は撤回しています。改めてお詫びします。申し訳ありませんでした。
だから私は、「自分には絶対に同じような問題は起きない」と考えるよりも、自分が実際にどこで判断を大きくしすぎたのかを、一度きちんと見ておきたいと思っています。
誰かについて十分に確かめないまま強い認定をする。
そして、その認定を正しいものとして扱い、さらに大きな認定へ進んでしまう。
そういう方向へ行かないために必要なのは、「私はそんな人間ではない」と証明することではなく、自分が実際にどこで判断を間違えたのかを見ることだと思っています。
少しゆっくり、自分の過去の言動を振り返る。
何を見誤っていたのかを棚卸しする。
そして、必要のない荷物は下ろす。
そうしないと、私の生活の中にBlueskyは持続可能な形では戻ってこない気がしています。
では、増岡そうたさんが紹介していた「バカは選挙行くな」という事例を、今の私はどう考えるのか。
以前の私は、この事例をかなり早い段階で「知的障害者差別」「加害」と認定しました。
その認定は撤回しています。ただ、だからといって今は、この言葉を何の問題もない単なる悪口だと考えているわけでもありません。
まず、いま改めて読んでも比較的はっきり言えることから考えてみます。
「バカは選挙行くな」という言葉は、単に誰かを「バカ」と呼んで侮辱しているだけではありません。
「バカ」と呼ばれる、あるいは「バカ」とみなされる人は、選挙に参加すべきではない、という意味を含んでいます。
ここで私が扱っているのは、あくまでこの標語という言説です。
実際の投票妨害や、制度として選挙権を制限した事例を確認しているわけではありません。
その意味で、制度的な排除そのものと同一視するつもりはありません。
一方で、「ある人々は選挙に参加すべきではない」という内容を含む以上、政治参加からの排除と関係する表現として検討することはできると思います。
ここまでは、今もそう考えています。
問題は、その先です。
以前の私は、「バカ」という言葉を、かなり直接的に「知的能力が低い」という意味と結びつけて考えていました。
さらにそこから、知的障害との関係もかなり近く捉えていました。
だから、「バカは選挙行くな」という言葉を、「知的能力の低い人は選挙に参加するな」という意味にかなり近いものとして読み、そのまま知的障害者への排除の問題へ接続していました。
今振り返ると、ここにも飛躍があったと思います。
「バカ」は多義的な言葉であり、知的障害という特定の障害を指す語ではありません。また、「バカ」という評価が、常に知的能力についての評価を意味するとも限りません。
先日の謝罪でも、「バカ」という語には複数の意味や用法があることを確認しました。
ですから、「バカ」と呼ばれること=知的能力が低いと評価されること=知的障害と関係することと、そのままつなぐことはできません。
当時の私は、「バカ」という言葉をかなり直接的に「知的能力が低い」という意味と結びつけ、そこから知的障害との関係も近く捉えていました。
これは、私自身が知的障害者を「バカだ」と呼ぼうとしていた、ということではありません。
ただ、今振り返ると、「バカ」という侮蔑的な評価と知的障害という属性との距離を、自分の議論の中で不用意に縮めていたと思います。
反差別について話しているつもりで、侮蔑的な言葉と知的障害を自分の側から近く結びつけることによって、かえって障害に対する否定的な連想を補強するような議論になっていなかったか。
ここも、今回見直す必要があると感じています。
では逆に、「『バカ』が知的障害を直接指す語ではないのだから、この標語と知的障害者差別との関係を検討する必要もない」とまで言えるのか。
私は、そこにもまだ疑問があります。
「バカ」という語が多義的であることは確認しました。
では、この標語の「バカ」が具体的に何を指していたのか。
文言だけからは確定できません。
この具体的な「バカは選挙行くな」という言葉が、何を基準に人を選挙から遠ざけようとしているのかも、言葉だけから完全には確定できません。
「頭の悪い人は正しい政治判断ができない」という意味なのかもしれない。
「自分が愚かだと思う政治的判断をする人は投票するな」という罵倒なのかもしれない。
ほかの含意があるかもしれない。
掲げた本人が何を考えていたのか、私は確認していません。
なので、「この標語は、知的能力の低い人を政治参加から排除する表現である」とまで断定することも、今の私はしません。
一方で、増岡さんが紹介した匿名の文章があります。
増岡さんは、知的障害のある本人から依頼されたものとしてこの文章を紹介していました。
その文章では、書き手が自分には知的障害があり、自分自身を「バカだ」と思うことがあると述べたうえで、
バカにも選挙権があります。選挙に行きます。
と語っていました。
また、敵対する相手に「バカ」などの言葉を使うことについて、本人は差別だと考えていることも述べていました。
ここで私が確認できているのは、増岡さんがそのような本人の経験として文章を紹介していたことまでです。
少なくとも、「知的障害者とは関係のない言葉なのだから、知的障害のある人が自分への排除として受け取ること自体がおかしい」と私が切り捨てる理由はありません。
ただし、その人がそう経験したことから、「したがって、この標語そのものが客観的に知的障害者差別である」という結論が自動的に出るわけでもありません。
私は以前、ここを十分に分けていませんでした。
もう一つ、いま気になっているのが「スティグマ」という言葉です。
以前の稿では、私はこの事例を、「知的能力へのスティグマと、政治参加からの排除が接続した表現」と整理しようとしていました。
でも、ここも今は少し慎重になっています。
「バカ」という語が、この具体的な場面でどの程度「知的能力」を意味しているのかをまず確かめなければ、そのまま「知的能力へのスティグマ」と呼ぶことはできません。
また、ある侮辱が知性や判断能力についての否定的評価を含んでいることと、それが障害に関する社会的スティグマと接続していることも、同じではありません。
だから現在のところ、私が言えるのはもう少し限定されたことです。
「バカは選挙行くな」は、「バカ」と否定的に評価された人について、選挙への参加を否定する方向を持った表現である。
そして増岡さんは、知的障害のある本人から依頼されたものとして、そのような受け止めを記した匿名の文章を紹介していました。
では、なぜ紹介された当事者は、この「バカ」という言葉を自分の知的障害と結びつけて受け取ったのか。
そこに、知性や判断能力をめぐる社会的な評価や、障害をめぐるスティグマがどのように関係しているのか。
あるいは、そもそもスティグマという概念で整理することが適切なのか。
そこは、まだ別に検討が必要だと思っています。
今の私が言えるのは、ひとまずそのくらいです。
そこから、「これは知的障害者差別である」と結論するには、もう一段、別の論証が必要です。私は以前、その一段を飛ばしました。
今になって読み返すと、当時すでに、かなり核心に近い忠告を受けていました。
ご忠告のポスト:
https://bsky.app/profile/if-not-exists.bsky.social/post/3mdxf3z6vp22o
「マイノリティへの寄り添いと反差別は分けたほうがいい」
というものでした。2月にいただいた忠告ですが、ようやく今になって、自分の中でその意味を考える入り口に立てた気がします。
誰かが、「これは自分への排除として感じられた」と語ったなら、その経験を、その人の経験として受け取りたい。
これは今も変わりません。
でも、その経験を受け取ることと、第三者である私が、「だからこれは差別である」と認定することは、別の仕事です。
当時の私は、その二つの距離を十分に取れていませんでした。
そして、もう一つ分かってきたのは、その二つの間に何があるのかも、私はよく整理できていなかったということです。
侮辱なのか。
知性や判断能力への否定的評価なのか。
スティグマと呼べるものなのか。
排除を志向する言葉なのか。
そして、それらがどのような条件で「差別」という評価につながるのか。
以前の私は、それらをかなり早い段階で一つの箱に入れて、「差別」「加害」と呼んでいました。
今は、いったん箱から出して、一つずつ距離を測り直したいと思っています。
「バカというのは差別」という考え方が、そのまま正しいとは今は言いません。
でも、私にとっては「謎理論だから考える価値もない」というわけでもありません。
私がまずやるべきなのは、自分が過去にどこを飛ばしていたのかを確認することです。
おそらく、こういうところから始めるのが、今の私にはちょうどいいのだと思います。
私は一歩ずつ進めているのでしょうか、はっきり言ってあまり自信がありません。自分の認知の枠組みを壊すことは思いのほか大変なことだと言い訳したくなる自分もいます。
ここに書いていない思索も、まだバックグラウンドで続いています。それでも実際、自分が長く使ってきた物差しをいったん疑って、どこがおかしかったのかを一つずつ確かめるのは、思っていた以上に骨の折れることでした。
元来私は無知蒙昧であることに関しては他者の追随を許さない人間ですから、このくらいが関の山かもしれません。急に賢くなるのも土台無理な話です。諦めます。亀のようにゆっくりやっていこうと思います。