細田守作品はなぜここまで厳しい目で評価されるか、というのが僕はいつも謎だ。僕は、作品と作家は切り離すべきだとは思っていないが、かと言って人格攻撃までして良いとも思っていない。それに映画界には人格云々以前に犯罪行為を重ねるものがいて、ここ数年で話題になった監督の映画は、正直、匂いでわかったので避けて見ていなかった。
と、これから懸案の『果てしなきスカーレット』の見た後の感想を書くのだが、見る前に書いた感想はこちらになる。
見る前の感想なんてものは感想でもなんでもなくて駄文でしかないのだが、考えてみれば、見た後に書いても駄文は駄文だ。そしてこの「見た後の感想」も、実は見る前に大半を書き上げている。とあるソーシャル系のゲームで見てもいないコラボ映画の感想をキャラに会話させる場面を書いたことがあるが、そのあたりの不誠実さに関してはChatGPTよりはるかに先駆けた自負がある。
声の大きい感想、大多数の感想、権威の発する感想が、ときに小さな個人の感想を蹂躙し、口を塞ぐことがある。そして、意図してそれを弄するひともいる。だがここで書く感想にその意図はない。発言の口を塞ぐことほど愚かなことはないと考えているので、ここに何が書いてあろうが、各自揺るぎない自分の感想を持ってほしいと願っているのだが、いまはまだ映画が始まる30分前だ。立川シネマシティにほど近いカフェでこの駄文を記している。
さて、よく話題になるサマーウォーズでの大家族の描き方だが、田舎の大家族を写実的に描こうとすればああなるのは必然だろう。ポケモン映画で男子たちが遊んでいる横で女子チームがキャンプを設営する場面があっても(具体的な作品名は伏せる)、それほど問題にはならないが、理想主義のポケモンでそれが描かれるのは、写実主義のサマーウォーズで描かれるよりも遥かに問題が大きい。
ただし、サマーウォーズが写実かと言えばそこには揺らぎがあり、細田守の演出はどうしても理想主義寄りになり、脚本の端々に描かれた理不尽を理不尽と思わずにそれを理想として表現する点は疑問符がつく。つまり、サマーウォーズのあの光景も「これが家族の理想です」という思想となって画面に現れるのだから、そうなると写実的であるぶんポケモンの架空の絵面よりも破壊力を持ってしまうということだろう。
また、作品には必ずしもメッセージがあるというわけでもない。学校で、「テーマが重要だ」「テーマを読み解こう」というような読み方を習うが、テーマは作品を創作する際にはガイドになるが、それを必ずしも受け手に伝えたいわけではない。が、細田守に関しては伝えたい意図が伝わってくる。これは両刃の剣だ。受け手もそこにメッセージを読もうとするし、メッセージでないものまでメッセージとして受け取る。
制作者のテーマやメッセージを読み解こうとするのは、僕からしたら「作者の気持ちを答えなさい」と同等の問題であって、バルト以降のテクスト主義の観点にはそぐわないように思う。バルト以降は、作者が伝えたいテーマよりも、意図に関わらず作品に含まれてしまったテーマを扱う。その際には必然、作品は作者の人格から切り離して評価すると思うのだが、細田作品は作品よりも『細田守』が評価されがちだ。世間が見ているのは、細田守監督の『果てしなきスカーレット』ではなく、果てしなきスカーレットを出品した『細田守』だ。こういった見方をされる映画監督は、例えば昔は、鈴木清順、大島渚、北野武、深作欣二etc.と枚挙に暇がなく、当時は監督自身が作品の顔となったが、いまの作品からは属人性は消えて、相変わらずそうやって評価されるのはいまや細田守と新海誠くらいになった。川村元気や大根仁がその評価を受けているのを見たことがない。川村元気、大根仁と聞いてその作風がピンと来るものも多くはないだろう。僕が映画を見て、この監督はクソだと気が付きその後完全に避けている監督――これは先にあげた二名ではない――に関しても、世間はそんな評価をしていなかった。問題が表面化してようやく批判するのは、作品からそれを読み取れていないからだ。逆に言えば「作品」などその程度のもので、「作者」を批判する論拠にするには危うい。
そんななかでなぜ細田守と新海誠が際立って監督の名で作品を評価されてしまうかと言えば、細田の場合は写実と理想との接ぎ合わせの不整合で、本来はカミュ的に不条理として切り捨てるべきところまでも無邪気に拾い上げてしまうせいだろう。新海誠のほうがまだ耽美的な表現そのものを批判されているような気がするが、いずれにしても「社会の膿」までも批判なくファンタジックに描き出している点が、エンターテインメントとしては失格として烙印を押されているように思う。「アルベール・カミュは世界の不条理を描いたからクソだ」とは誰も言わない。その差はやはり、それが作者の示す理想と受け取られるか否かであろうし、「これを理想として語られても困る」という機心から来るのだろうが、もっと人徳や人格を批判されるべき制作者は他に五万といて、彼ら(概ね男だ)はいまも批判を免れて映画を撮っているわけだから、それに対して、細田新海批判はやや行き過ぎてバランスを欠いているというのが、正直な感想だ。
さて、そろそろ上映時間になる。シネマシティへと移動する。
ただいま映画鑑賞中です。
しばらくお待ち下さい。
べらぼうに面白かった!
誰だ駄作だなんて言ったやつは!
予告編だけ見た状態では、さすがにこの世界を細田守では描ききれないと思っていたし、まあ、がんばって細田らしい良いところを2~3個でも見つけて、行き過ぎる批判への些細なカウンターにしようかな程度で見ていたんだが、バケモノじゃないか!
エル・シドだと思って見に行ったらエル・トポだったでござる!
と、まさにこの一言に尽きるのだが、逆に言えばホドロフスキーが駄目なひとにはこれも駄目だろう。あとでベン図を書く(書いた)。しかしその内容は、生涯ベストを書き換えなきゃいけないほどの出来だ。面白かったら目でスパゲッティを食べるとどこかに書いてしまったので、目でスパゲッティを食べなきゃいけないわけだが、いったい僕はその罰を逃れるために何を捧げれば良いのだろう。

しかし、この誤解もすべて予告編が悪い。あれはホドロフスキーのエル・トポなりホーリー・マウンテンなりを編集して川村元気風の予告編に仕立てるくらいの蛮行であり、裏切り行為だ。逆によくあの予告編を作れたと関心もするのだが、それで言えばプロデューサーが欲したものはまさにあれだったわけで、バジェットが増えれば天才・吉田玲子でさえスポイルされてしまう世界で、よくこれを貫いたものだと感心する。言外になにかの作品をひどく揶揄してる感があるが、スルーしてほしい。
さて、内容に入るが、極力、ネタバレは避けるが、微塵も情報を入れたくないひとは(そもそもここを読んでいないと思うが)、この先は目を閉じてほしい。
閉じていただけただろうか?
片目だけでも・・・
いや、右でも左でもお好きな方を・・・
では、続ける。
良い点と悪い点がある。まずは悪い点から話そう。いや、もはや良し悪しの問題ではなく、監督がそれを選択したのだからそれで良いのだ、とは思うが、僕という小さな人間がうっかり躓いてしまった部分なので、書かせてほしい。
三つある。
女性主人公でありながらジェンダー問題に一切触れなかった
パラダイムがカミュ以前
「愛」の概念がスカーレットと聖とで違うはずだが、スカーレットの価値観が現代人のそれとして描かれている
どれも細かい問題だ。1.に関しては、いまの映画には当然求められるテーマなのでそれを描くのがふさわしいとは思うのだが、この作品はそれを選ばなかった。いま、細田守にはジェンダー的視点でどう考えているのか、という点が問われているのだが、どうやら本人はまったく意識していないようで、ある意味そこがオタクを映す鏡になってしまってる。作品としてどうこう以前の問題ではあるが、そこに答えを出すべきだった。
2.は、世界に横たわる本質的な不条理を描きながら、それが神仏(に相当するもの)の力で解決されたことで、問題を提示して解決する、という物語の根幹が提示されていない。内容は仏教説話っぽく、前期の芥川龍之介のようでもあり、ぶちゃけて言えば道徳心に回収されている。後期の芥川はそれに疑問を持って悩み抜くが、その視点はない。これは僕の持論なのだが、カミュ以降、世界の不条理が暴かれてからは物語が成立しない。物書きは常にカミュと戦っているようなものだが、細田守の世界線にはまだアルベール・カミュが登場していない。
3.は哲学の問題で、ニーチェ以前と以降とで愛の意味が変わり、本来ならスカーレットはニーチェ以降の現代的な愛の意味を理解していないはずだ。つまり、スカーレットと聖の間には決定的なディスコミュニケーションが発生してしかるべきだと考えてしまうのだが、このあたりの脱構築はできていない。歌って踊って解決している。ニーチェ以前、神のプロパティであった愛が、人間のものとなって起きた変化はふたつの時代を比較する際に非常に重要なテーゼであるにかかわらず、そこがスルーされている。
4.・・・済まない。4つ目があった。じつはこの映画を見る前に、スカーレットが戦士として自覚した際に自分の◯を◯る場面があったらそこで見るのを辞めようと思っていたのだが、あった。正直、がっかりした。ただ、その場面までに十分に作品に惹きつけられていたので、席を立てなかった。ゲームでもアニメでも定番のシーンで、自分が参加した作品にも(僕の意図とは関係なく)入っていることがある。だけど、いま求められているジェンダー観に鑑みて、「本当にそのシーンは必要なのか?」と問いたい。これは1.の問題に直結する。ここだけを見ても、細田守がいまの時代を代表する作家としての資質を疑われるのは仕方がない。
5.・・・本当に済まないことに、5つ目を思いついてしまった。これは2.や3.とも共通するのだが、社会の脱構築ができていない。問題がスカーレットの内面だけに留まり、それだけで物事が解決する。社会が抱えるどんな病理も描き出していないし、何も解決していない。これは「そういう作品だ」と言い張ればそれで済む問題だが、キリキリ働いているアリの横でキリギリスが歌っているような状況だ。これは批判されてもやむを得ない。この作品はもはやエンターテインメントを超えていると思うのだ。だったら、そこに負う使命は社会に拘束される。
と、悪い点は以上、大きく5つだ。しかし、では同じプロジェクトで書いているライターがこれを上げてきたら直させるかと言えば、そうでもない。ライターがこれで良しとするなら、そのライターを雇った以上は運命をともにするしかないと腹をくくるだろう。
次に、良い点を・・・と思ったが、よくよく考えてみると良い点が見当たらない。
はい、ここでみなさん、盛大にずっこけてください。
しかし、この感覚は恋に似ている。好きになった相手の良い点というのはなかなか挙げられないもので、好きになったのだから仕方がない程度のことしか言えない。羅小黒戦記2の良いところは明確に示せたのに、こちらは具体的に示すのが難しい。
と、これでは好きなフリをしながら悪口を書いただけになってしまうので、順を追って感じたことを書き連ねようと思う。更に傷口を開かないように留意しながら・・・。
ここからはネタバレもありなので、先程左目を瞑ったひとは右目を、右目を瞑ったひとは左目を閉じてください。
ちょっと空行を入れてみる。
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まず冒頭、この映画は駄目だと思った。
これもどこかに書いたのだが、僕は夢始まりの作品が大嫌いで、いったい何を書いて何を伝えたいのかと訝しく思う。僕としては予告編ですっかりエル・シドを見る気になっているから、解決すべき問題を最初に提示してほしいのに、なんだこれは、と。こないだうっかり見てしまったデジタル・デビル・ストーリーのようだと思った。と、ここで引き合いに出されるデジタル・デビル・ストーリーもいい迷惑だが、あの当時はあれで良かったのだ。しかしこれはまあ、のちの展開を見るとこの冒頭でも正解だったとは言えるのだが、だからこそ逆に張れよとも思うわけで、まあそれも小さい問題だろう。
このシーケンスの後、王宮へと舞台が移るが、当然そこでもまだ心を開いてはいないわけで、正直、まったく残念なものに金を払ってしまったという気分が冒頭から10分ほど続いた。
気持ちが入ったのは毒殺の場面以降で、この展開はびびった。もっと評論らしい言葉を選べば良いのだが、びびった。そこまでの自然主義的な視点から、ぽーんと象徴主義視点に切り替わる。普通は戸惑うし、ここで振り落とされるひとが相当いるんじゃないかと思う。ここを普通に流せるのは、それなりに雑食性の高いひとで、オタクのなかでもかなり限られるのではないだろうか。ストーリーの基調はそのまま、明確にコンテクストが一段上昇する。この不可思議な飛躍を見せた作品を僕は他に知らないし、異質な展開を期待させるフックになった。
この辺からは、なんか妙にホドロフスキー臭いとか思って見ていたわけだけど、そのまえにちらっと、押井守の『天使の卵』っぽいとも思った。『天使の卵』も、あの頃優勢だった象徴主義やモダニズム作品としてみると駄作なのだが、ポストモダンの先駆けとして見ると意味が変わる。ただし、『~スカーレット』の象徴性はそれほど高くはなく、全体の基調は(上がったとは言え)ローコンテクストなドラマで推移する。しかしコンテクストがどうあれ、ホドロフスキー臭く『天使の卵』っぽい作品が一般受けするわけもなく、まあ、SNSで叩かれるのも先に挙げた5つの短所と合わせればむべなるかなと思った次第だ。
その先では、龍之介で言えば『藪の中』あるいは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、あるいは近代的にはタランティーノの『ヘイトフル・エイト』のように複数の証言・立場が交錯する心理劇になる。おそらく書いた本人もそのあたりを意識していると思うのだけど、ただ、おかげでパラダイムが古い。ジェット機が飛び交う戦場にレシプロ機が紛れ込んだような、あるいは召喚獣が兵を薙ぎ払うなかに道化がひとり紛れて戦いを挑むような驚きがあった。ある意味、細田守はドン・キホーテで、僕はそこに惹かれているのかもしれない。
そこから終盤へかけては、並のシナリオライターだったら頭を悩ませて行き詰まるような部分をロジックもなく乗り越えてくる。このあたりが逆に気持ちがいい。あるいは、並のライターだったら、「舞台の上の傍観者」が出ないように配慮するのだが、一切その配慮がない。「おいおいこのとき聖は何をしてるんだよ」と幾度胸のなかで突っ込んだかわからない。
だけど、それで良いのだ。
そこじゃないのだ。
繰り返しになるがアルベール・カミュ以降、世界の不条理が暴かれ、ひとはその不条理のなかで生きているのだと、多くのひとが自覚するようになった。以降書かれる物語は、いかに不条理を超えるかという理屈を捏ねるが、すべての物語はカミュによって叩き落されている。そのなかに細田守が現れた。そして召喚獣に、あるいは群れなすF-22の大群に、鉄の獣や風車の巨人に素手で殴りかかったのだ。こんな気持ちの良いことがあるだろうか。おそらく細田守は世の中の不条理を感じていないか、鈍いか、耐性が高いかのどれかで、問題を個人のなかに矮小化してしまう。あ、また悪口になってしまった。
書けば書くほど悪口しか書いていない感想になってきているが、いや、本当に良いと思う。中盤からはずっと泣きっぱなしだった。泣いたから名作だってわけではないし、泣かせの過ぎる映画は好きではないが、『果てしなきスカーレット』は好きだ。
あとひとつ注文をつけるとしたら、「許すことの苦しさ」を描いてほしかった。そう簡単にひとを許せるのなら、誰だって菩薩になれる。苦しんで、苦しんで、それでも許せずに、許せない自分にもがくのだ。聖が矢を放つ場面があったが、あそこでも本来なら、撃ってはいけなかったのだ。並の人間は、もっともっと苦しんで、幾度も虚無に堕ちる。僕らはその答えを模索してきたが、見つからなかった。
だから、もし贅沢を言って許されるのならば、次は英雄になれずに虚無に落ちた者たちを救ってほしい。そしておそらく、そのなかに僕もいるだろう。