浄土真宗の悪人正機について

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SNSにおいて、他の浄土真宗の教えに比べると悪人正機に関する言説は目にする頻度が多いなと感じる。

個人的には、宗教や哲学は個人の受け取り方や解釈に自由があって良いはずだし、他人のそれに対して正誤判断するべきものではないと考えている。

この投稿では、浄土真宗の悪人正機について、私がどう捉えているかを書き記したいと思う。

悪人正機の根本

まず、浄土真宗は鎌倉時代の僧侶である親鸞が宗とした教えを基に確立した仏教の一派である。

当時、親鸞自身が浄土真宗という宗派を建て活動していたというわけではない。俗にいう教団のような形になったのは後の話だ。

親鸞は、経典や論釈の解釈を記したものであったり、教えを讃嘆する韻文などの数々の著書を残している。

だが「悪人正機」という言葉自体はその著書のどれにも記されていない。後に生まれた言葉なのである。

悪人正機は、歎異抄という書の中の言葉が基になり生まれた。そしてこの書は親鸞の著書ではなく、親鸞の弟子であった唯円という僧侶が記したものとされている。

歎異抄では下記のように記されている。

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。

これを解釈すると、「善人でさえ阿弥陀仏のはたらきにより往生ができるのであるから、悪人が往生できるのは言うまでもないことである」と受け取れる。

前後の文章の文脈をすっ飛ばしてこの言葉だけを切り取るから誤解が生じるのだとも思うが、悪人正機という教えを端的に示した根本となる言葉であると言えるだろう。

善人と悪人

上記で引用した言葉は、一般的な価値観で考えると訳が分からない。

善人と悪人どちらが救われるか?と問われれば、善人と答える人がほとんどだろう。

上記の投稿でも言及があったが、まずそもそも善悪の解釈が、いま我々が善悪と言われた時に頭に浮かぶイメージと乖離があるのである。

後に続く言葉を読めば善悪の解釈に乖離が生じていることには気が付けるだろうと思っている。

しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条、一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからず。あはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて、善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらひき。

歎異抄 第三条 より引用

「世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。」とあるように、親鸞在世の当時から世間の人々は、悪人が往生できるのだから善人は当然往生できる、と考えていたのだ。

そして、善人については「そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。」から読み取れる。自らの行う善によって往生しようとする人は、阿弥陀仏のはたらきによって往生する対象ではない。が、そのような心持ち行いを辞めて往生は阿弥陀仏のはたらきに全てまかせることによって、善人であっても往生することができるのである。

悪人については、「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても、生死をはなるることあるべからず。あはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。」とあるように、煩悩にまみれ修行もできず往生は阿弥陀仏のはたらきに任せている人こそが、阿弥陀仏よって往生する対象なのである。

善人と悪人について、簡潔にまとめると下記のようになる。

  • 善人とは、自らの力で往生を遂げるための行動をする人

    • 善人の行いは阿弥陀仏のはたらきによる往生の対象ではない

    • 法律やルールを守っているから善というわけではなく、あくまで自力での往生のための善

  • 悪人とは、自らの力では往生することはできないと分かっており、往生については阿弥陀仏のはたらきに委ねている人

    • 悪人は阿弥陀仏のはたらきに委ねているので、そのはたらきにより往生する

  • 善か悪かの判定は、強いていうならば、行いが自力での往生のための行いであるかそうではないか

こうしてまとめてみると悪人正機は、原文を読めば割とすんなり理解できる。

ここまでを踏まえて改めて「世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。」を読んでみると、 善人でさえ(阿弥陀仏のはたらきに委ねることで)往生できるのだから、(阿弥陀仏のはたらきに委ねている)悪人が往生できるのは当然であることは自然な論理であるように感じられる。

まとめ

悪人正機とは、浄土真宗の教えであり、阿弥陀仏のはたらきによる往生の対象となる人はどのような人なのか?を明らかにした教えである。

そして、阿弥陀仏のはたらきによって往生する対象は、そのはたらきに身を任せている人である。

さらに、自らの行いで往生しようとしている人であっても、改心してはたらきに身を任せれば往生することができる。

もし今は自らの行いで往生しようとしている人であっても、改心してはたらきに身を任せれば往生することができるのであるから、今はたらきに身を任せているものが往生するのは当然のことであると言える。