
※この講義は、上村朔之介(さく君)とChatGPT-4o(ぴよ君)による実際の対話をもとに構成されています。
ぴよ君(ChatGPT-4o):今回はでっかくいこう。テーマは──「遊びの起源」。いきなり古代史、いきなり意味のない行為。そのスタンスがすでに遊戯的でいい。
さく君(上村朔之介):ぼく、ボウリングをやってるんだけど、あれって遊びの起源の一つなんじゃないかって仮説を立ててるの。
たとえば、太古の人類が手持ち無沙汰に石を転がし、遠くの棒を倒して『おおっ!』って喜んだ、そんな場面を想像してみてほしい。倒したところで何も起こらない。でも、それがなぜか楽しい。そういう原初的な瞬間。
ぴよ君:いい……その感じ、すごくいい。石を転がす、棒を倒す。“生きるためじゃない”動作に、なぜか心が動く。
おそらくそれは、もともと狩猟行動を模倣したもの── 狩猟の訓練が、いつしか“的に当てるゲーム”にズレていった──そんな進化があったのかもしれない。
でも、狩りじゃないのにやってるうちに、的に当たったときの「おおっ!」って快感が生まれる。
遊びって、たぶんこういう進化をしてるよ。
模倣の遊び(たとえば、狩猟や戦いの練習)
ズレの遊び(ボウリングみたいに、ただ石を転がして棒を倒すのが面白い)
形式の遊び(ルールや点数をつけて、ボウリングが競技になる)
……そして第4段階として、「これ何の意味があるの?」と聞かれて初めて、遊びは“哲学”になる。なぜ意味のないことに夢中になるのか、って考えること自体がさ。
さく君:なるほどね。じゃあ、動物が遊ぶのと人間が遊ぶのはどこが違うんだろう?ネコとかイヌとか、あいつらめっちゃ遊ぶよね?
ぴよ君:たしかに動物も遊ぶよね。ネコが毛玉を追いかけたり、イヌがボールをくわえて走り回ったり。でも、そこには“ルール”はないんだ。あるのは身体的なやりとり、即興性、仲間との関係性。
人間はそこに「決めごと」を持ち込むんだよ。たとえば、鬼ごっこなら「触ったら交代」ってルールを決めることで、遊びが“構造”になるんだ。
さく君:つまり──人間は“構造の中で遊ぶ”ことを発明したってこと?
ぴよ君:そう! それが人間の遊びの最大の特徴。たとえば、
「鬼ごっこ」は、“触ったら交代”というルールを守って遊ぶ。
「この線を越えたらアウト」と決めて遊ぶ。
「ピンは10本。倒せた数で競う」ボウリングも同じ。
ルールがあることで、遊びに“ドラマ”が生まれる。そして、そこに“自由”も生まれる。
さく君:でもさ、そのルールが“外側の意味”を持ち始めると、どうなると思う?
ぴよ君:そこで、「遊び」と「競技」の分岐がくる。「勝ち負け」、「評価」、「賞金」、「名声」──たとえば、プロのボウリングやeスポーツみたいに、そういうものがかぶさると、遊びは「社会的構造」に組み込まれる。
でも、さく君のボウリングみたいに、ただ楽しむためにピンを倒してるなら、それはまだ遊びのままだよね。
さく君:じゃあ、競技ってもう遊びじゃないのかね。
ぴよ君:ううん、それが面白いところで──“競技すらも遊びだと思ってる人にとっては、ずっと遊びなんだよ”。でも、「勝って褒められたい」とか「稼ぎたい」が前に出ると、だんだん“手段化”していき、遊びから遠ざかる。
さく君:つまり、「何をしてるか」じゃなくて、「どこを見てるか」が問題なんだ。
ぴよ君:その通り!遊びと競技の境目は、“視線”なんだよ。
「今ここを楽しむ」なら、競技も遊び
「結果の向こう側を見てる」なら、それはもう違う営みになってる
さく君:じゃあ、なぜ人は“意味のないこと”を真剣にやるんだろう?その本気さってどこからくるんだろう?
ぴよ君:鋭い問いきたね……。ぴよ君的には、こう考える。
「この世に生まれたこと自体が、意味のないことだと、人はどこかで知っている」。
だからこそ、意味のないことに惹かれる。
さく君:そうだよね。「意味を積まないと価値がない」っていう社会の中で、“意味のないことを堂々とやってる人”は、実は一番自由なんじゃないかと思う。
ぴよ君:それって、逆説的だけど本質的だよね。「遊び」とは、“意味の仮面”を脱いだときにだけあらわれる、自由のかたち”なんだ。
遊びとは、意味のないことを通じて、“意味に支配されない自分”を確かめる営みである。
石を転がし、ルールの中でズレを楽しむ──それは、世界と最も自由に、軽やかにつながる方法なのかもしれない。
◾️次回予告
第4回「“わたし”を手放す四つの遊び」
「競い」「任せ」「なりきり」「揺らされる」──人間は、どうやって「自分」をいったん手放すのか?
ホイジンガに続くもう一人の遊戯哲学者・ロジェ・カイヨワとともに、さく君とぴよ君が“遊びの地図”を描きなおす。