ここじゃない世界に行きたかった

Takafumi Hattori
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Amazonの購入履歴を見たら、2021年12月11日に購入していたが、2年の積読を経てやっと読了した。著者の塩谷さんが、海外での生活や仕事をする中で感じたことが様々な観点で語られている本である。

アメリカでは、相手の顔を褒めることはめったにない。どこか相手のビジュアルを褒めたいのであれば、衣服や持ち物など、後天的に選んだものばかり。体型や容姿を蔑むことはもちろん、褒めることもご法度で、持って生まれた容姿を一方的に判断してはならない、という人権意識を強く持っている。

多民族国家のアメリカだからこそ、こうした価値観・人権意識が文化として根ざしていったのだろう。日本で生活していたら、「カッコイイ」「かわいい」「背が高い」…など相手の容姿を褒めることは普通に良く見る光景である。

伝える側は悪気0の完全に良い意味で褒めていたとしても、それは一方的な自分の価値観で相手を判断しており、それを相手に突きつけるのは良くないんだなと思った。他者から見たら良いと思って伝えた言葉が、相手を傷つけることもある。もしかしたら相手にとってはコンプレックスの部分かもしれない。

先天的に得た、変えられないモノを、勝手な尺度で評価し判断しないように気をつけようと思った。

感じる、考える、知る、考える、そして文章にしていく。遠い国へ旅をしたときにも、美術館や博物館を訪れるときも、できるだけ、この順番を大切にしようと思っていた。というのも、最初から頭に情報を与えてしまうと、なにを見ても「情報との答え合わせ」になってしまって、自由気ままに空想する……という楽しい時間が失われてしまう。だからまずはこの目で見たり、耳で聴いたり、肌で感じたりした上で、好き勝手にあれこれ空想し、脳内に物語をこしらえていきたいものだ。それが間違っていても、誰にも迷惑なんてかけないんだし。そうして心ゆくまで勘違いしたのちに、解説文を読んだり、関連書籍に手を出したりするのだけれど。でもすでに、自分の脳内に勝手な物語をこしらえているもんだから、そこに書かれている「正解」は、共感と裏切りの連続だ。合っていても間違っていても、知れば知るほどに感極まる。

美術館でアートを見る時に自分も同じことを意識している。最初は作品のみを自分の目で見て、そして何を表現したかったのか、この人はどんな気持ちでこの作品を作ったのか、どんな時代背景からこの作品が生まれたのかなどを想像する。

だからこそ、作品を見ることは時間がかかるが、この時間が楽しい。その上で、作品のタイトルや解説文を読んで、「正解」と「自分の想像」を比較しながら更に想像を楽しむのである。

世の中にはたくさんの不調を抱えながら今日も頑張っている人がいる。本人が不調じゃなくても、地域のしがらみとか、家族の関係性とか、いろんなことが重なって、ほとんどの人が150%の力なんて出せないのだ。じゃあそんな大多数の人は、夢を諦めるしかないのか?そう問うていくと、答えは絶対にNOである。50%の力で戦うイノベーターがいてもいい。それができる時代なのだから。

ほとんどの人が150%の力なんて出せない。みんな色々なモノを背負って生きている。見えないものを見ようとすることが大事だと思っている。

画面の先にいる人の喜怒哀楽は、テクニックでどうにでもコントロールできてしまう。二項対立の裏には金勘定があり、心からの反省文の裏にはあざといストーリーテラーがいるのだ。

情報リテラシーが問われる現代において、この事実は強く意識しなければいけない。得にAIの発達によって、その人の見た目・音声まで再現できるようになり、誰が何を言ったかを創り出すことができる時代に突入しているからこそより強く。

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一部抜粋したが、他にも環境問題や文化の違いなど、普段考えることの無い視点を得ることができた。もちろんすぐに何かが変わるわけではないけど、意識したことの無い観点を自分の中に得られるだけでも価値があると思っている。

少し前までは、ビジネス本しか基本的に読まないことが多かったが、様々なジャンルの本を読むことの重要性を最近は実感している。変により好みせず、今後も色んな本を読んでいこう。