読んだ本のメモ。週刊ふらみんちゃんにまとめようかなと思ったけど、長くなりそうだから先に独立させる。
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1. 『言語化するための小説思考』小川哲
雑記「言葉にすることで大人しくさせておく」で言及しているのは、この本。ちょっくら集中して読ませていただきましょうかね!とめずらしくメモを取りながら読んだ。電子書籍は、すぐ別のアプリを開いてしまったり調べ物をしてそのまま戻ってこられなかったり、誘惑が多いので。
「小説」というのは「作者」と「読者」のコミュニケーションであり、読者のために書くべきもの。読者のために「過不足なく伝わるように(なるべく正確に)」、「無駄な時間を取らせないように(なるべく端的に)」、可能であれば「相手が自分に一切興味がないという前提で(なるべく相手のことを考えて)」、自分の話をする。それを読んだ「読者」に、いかに「自分に向けられた話だ」と思ってもらえるかで、「いい小説・おもしろい小説」かどうかが決まる。
「作者が何を表現したか」よりも「読者が何を受け取ったか」が、最も優先されるべき重要なこと。
というのを読み、「サービス精神の話でもあるな…」と感じた。前に『これさえ知っておけば、小説は簡単に書けます』という本を読んだときも「小説は、読者の記憶や知識の力を借りなければ、成り立たない」「言い換えれば、読者の記憶や知識こそが、僕らの唯一の武器であり、小説を書くための道具」「だから、読者の視点を意識して書く。その読者の頭の中を、存分に使わせてもらう」ということは書かれていた。それをもっともっと掘り下げたのが、この本だったなと思う。
わたしにサービス精神がないなと思うのは、だいたい「うるせえ!知らねえ!俺の話を聞け!!」という反抗的な思想(ジャイアンリサイタル)のもと文章を書いているからだ。だいたい「お前ら(不特定多数)がわたしを、もしくはわたしの大切なものを蔑ろにしたから、わたしはこんなにも怒ってるんだ!!」という怒りの発露でもある。
同人誌としてお話を書くときは、自カプの良さを絶対に何があっても""理解""らせたいという強い気持ちから、読みやすく、伝わるように……一応、意識はしてきたつもりだ。でもそれが「読者のため」かと聞かれると、まったく自信がない。だから「読みやすい」という感想は嬉しい。(ジャイアンと書いたけど、CVである木村昴はサービス精神のかたまりみたいな人だと思っている)
「小説になるアイディアとは」「プロットなしで書くには」のあたりも含めて「トホホ〜!それができりゃ苦労しないよ〜!」と言いたくなる内容ではあったが、「小説法律」の話や「小説には『象徴的で影響力の大きな出来事』と『象徴的で影響力の大きな出来事の伏線』で構成されるもので、それ以外は邪魔」といった話はなるほどね〜と思いながら読んだ。
2.『私は私に私が日記をつけていることを秘密にしている』古賀及子
「書き終わってから本文の印象的な一文を抜き出してタイトルにする」というのはこの本から。(次回の週刊ふらみんちゃんで詳細を書きます)
『日記エッセイストの第一人者が、日記を書く際の独自の経験知と秘密を大公開。』というふれこみだったが、その部分は冒頭2割に満たなかったので、驚いた。古賀及子さんのことはほとんど申し上げない(ごめんなさい)まま読んだけど、語彙がユーモラスで、軽やかで、「都合のいい物語を作り出さないように」「思ったこと、考えたことではなく、見たこと聞いたことを観察するように書く」ことを意識して書かれているという日記はおもしろくて、ところどころ声を出して笑った。目当てのものが買えて「よっしゃよっしゃと帰る」とか「昨日は夜にざぶざぶメールが来た」とか、擬音でちょくちょく気が抜けてよかった。
最も印象深かったのは、「無印良品週間が始まったのでタイツを買いに行ったら、もう春だからタイツは置いていなかった」という3月15日の日記。
そうか、もうタイツは買わなくていいのかと気づかされた。春のはじまろうとする今買うものじゃないんだ。売り場に素直に説得された。手ぶらで帰った。
を読んで「手ぶら?!無印良品週間に無印に行って手ぶらで帰ることなんて可能なの?!」と声が出た。つい最近、10月末からやってた無印良品週間にはなぜか3回も行っていろいろとせしめてきたものだから。
調べると古賀及子さんは元デイリーポータルZの編集者でライターだったということで、このユーモアも納得。noteから出版に至る「平凡なわたしが、毎日日記を書くことで変わった世界」みたいなちょっとポエム系だったらどうしようと少しハラハラしたが、序盤から「太陽とともに生きるのが上手すぎる」、「日曜だてらに7時半起床」から始まる日記に「ポエムではないな」と確信して読めた。
創作する魂は、たいがいいつも孤独に拗ねている。私が見ているから大丈夫だと自分で励ますといい。自分で自分を勇気づけることは、嘘ではない。空虚なことでもない。自分に力があると心底知っているのは、いつも結局自分じゃないか。
レクチャー部分ではここが響いた。
3.『読まれる覚悟』桜庭一樹
これは「小説家として本を出し、それが不特定多数に読まれるとはどういうことなのか」を考える本。3章の「批評との共存の仕方」がメインだったかな。
おもしろかったけど、序盤から「わたしには無理だ」と心がウッとなった。というのも、膨大な人々に「解釈される・誤読される」のが怖すぎる。
小説思考の本にも「誤読」についての内容があった。小説は、「誤読」される。なぜなら、読者は千差万別、まったく同じ人間は1人としていないから。読者が作品に何を思うかを、作者はコントロールできない。作者の頭の中で考え、表現したことを、「誤読」によって読者の経験に接続され、作者が意図しなかった、存在しないはずの意味が呼び起こされることがある。
これは、わたしも10年以上(え?もしかして20年以上? ※ふらみんちゃんは17歳)細々とお話を書いて公開してきたからわかる。「おお、そんなところまで考えてなかった」という誤読(いい意味で)をされた感想をもらったこともある。そして、わたし自身もそういう「誤読」をしてきたんだと強烈に自覚した。そして無自覚に己の読解力こそ正しいと振りかざすような真似をしてきた自分を恥じた。心から。
「小説を書くこと、読まれることで生じる傷」について考えながらも、小説家という仕事が「理想を語り、避けられない現実があるとわかりながらも、職業的役割からそれを否定して、結果的にやっぱり避けられずにぶつかる」ことなら、傷が生じるのは必然だろうとも言っている。それでも幸せに読んだり読まれたりするにはどうしたらいいんだろう。と考える本だった。
結論は、ない。強いて言えば、作者こそが正しいんだと主張するのも違うけど、作者は黙ってなんでも受け入れろと言われるのも、違うよね。お互いに、1人の血の通った人間同士なんだってことを、今こそ改めて自覚しあっていこうよ。といったことだと、わたしは読み取った。
小説を書き、読まれることに傷が生じるのは必然。というのを読んで、宮沢賢治の手紙の一文を思い出した。
楽しめるものは楽しみ 苦しまなければならないものは 苦しんで生きて行きませう。
「読まれることで生じる傷」は必然であり「苦しまなければならないもの」ならば、職業としてそれを引き受けるのが「読まれる覚悟」なのかなと。でも「誰しも必ずどこかに苦しみを持って生きている、自分だけじゃない」と、共通の人間性として考えられれば、「どうしてわたしだけ…」というようにはならないかな。わたしは小説家でもなんでもないですが!
作者も読者も自我があり、コントロールはできないという話に関連して。
ファンフィクションのアカウントで「自我を出さないで」と言われる風潮が気に食わない。お前にとって都合の悪い自我なんて、いくらでもあるに決まってるだろ!この世で自分にしか自我がないとはゆめ思うなよ!と、「自分だったら絶対言われたくない」という観点で怒っていた。
わたしにはわたしの自我がある。わたしはわたしの思うように生きたいし、誰かの思い通りになんてなりたくない。だからこそ同時に、誰かをわたしの思い通りに動かそうとすることも、あってはならないんだと、『読まれる覚悟』を読んで自戒として心に刻んだ。わたしがわたしの自我を尊重されたいのであれば、他人の自我も同じく尊重しなければならない。
最後に。
たぶんわたしは、人の人生を物語としておもしろがりながら生きている。フォロワーの何気ない人生のpostがおもしろいし、小説よりもエッセイを読みがちだし。人生には意味のない、無駄なことがたくさんあって、わたしはTwitterに流れてくるそういうpostを見て楽しんで生きてきた。「物語」として見てはいるけど、別にオチも伏線もなくていい。「人が生きている」ことがおもしろいのであって、なにも有益である必要はない。好きなフォロワーの狂い(突然の沼落ちなど)なんて最高のエンタメだと思っている。でも一方的に「消費」はしたくない。自分もされたくないから。痛みや苦しみには寄り添いたい。寄り添いきれない痛みや苦しみが多くなってしまった場合は、申し訳ないけど自分の心のために距離を置かせてもらっている。無力だ…と思いながら。
XとかいうキモいSNSが「おすすめ欄」で勝手に「ムム…アルゴリズム的に、あなたはこれが好きでしょう?!こういうの興味あるでしょう?!これが有益ですよ!あ、こんなのバズってます!🤓」って表示してくるpostより、わたしが興味ある人の「Twitterのいいね欄」のほうが、 5億倍おもしろかった。いまの「おすすめ欄」は玉石混交で、ときに感情を勝手に乱されたりしてしまうから、こんな場所で反応するままに言葉を記録するより、手元に残そうと思って、ジャーナリングを始めた。
わたしが興味のある人のいいね欄こそ、人生における余白のようで楽しくて興味深かった。そんな無駄を楽しむ人生でありたいものだ。フィクションに対しては、余白があることはおもしろいけど、意味のない設定は付け加え過ぎないでほしい。それは現実だけで手一杯なので。
自分は自分の人生のことしかわからないし、人の人生のことはわからないまま生きないといけない。自分が「読まれる」こと、誰かが「読む」ことについて、その解釈を思い通りにコントロールすることは、できない。残念ながら。
でも、それも含めて「自分」も「他人」も、おもしろがりながら生きていければいいな。
……なんてしゃらくさい締めを書いてみたけど、普通に自カプの解釈違いとか逆カプは腹立つな。そこは「イヤなもんはイヤ」精神で行こう。行くんかい。そんな自分を――それでも愛そう……(がばっ…!)(白ひげ)