衝動に駆られて、anan 2395号を予約したのがついこの間。発売日の今日、楽しみにしていたその雑誌がようやく届いた。母曰く、ポストに入らないからと、担当の配達員さんがわざわざ住まいまで持ってきてくれたらしい。推しの顔が曲がらなくて良かったと思うと同時に、感謝の気持ちが込み上げてきた。
開封してからは、グラビア写真を楽しんで、ざっとすべてに目を通した。やっぱり推しを演じた彼らのことが一番気になってしまって、読了後、再度、推しの俳優さんお二方のインタビューを食いつくように読んでいた。
読んでいるうちに、「そういえば、何で私ってここまで『創作』にこだわってるんだろうな」という問いが、心の中に浮かんできた。何度も己に問いかけて、何度も飲み込んで、何度も吐き出してきたものと同じ信念。答えは「しずかなインターネット」で最初に私が語った日記にも記してある。
夢の世界の向こうに居る旦那(人ではない)を形にすべく絵を描いている。
(中略)
私は「自分の作ったコンテンツを見た人に、『私も何かを創作してみたい!』と思わせたい」と強く願って、絵を描いている。誰かに希望を与えるために一番大切なことは、自分が楽しんでいるさまを見せることであると思っている。
日記「この世は きらめきとノイズに満ちている」より抜粋
第一に、私は「私の見たい世界」を現実のものとしたくて、絵を描いている。一次創作でも、二次創作でも、キャラクターにモデルとなってもらったり、してほしいことをしてもらったり、私がやりたくてもできないことを彼らに託したりして、彼らを描いている。ようは自分の祈りを昇華するために描いている。
しかし、時として――特に二次創作は、その「見たかったもの」が公式の手によって叶えられてしまう場合がある。
――ここまで完成されているものを見ることができるなら。公式や他のファンの人たちが私の見たいものを作れるのなら。私はもう、描く必要がないじゃないか。
つい先日、初めての現地観劇を堪能したとき、正直、もう筆を折ってしまった方が良いのではないかとさえ考えた。描こうとしても手が止まるのだ。描いたものに対し、あるいは書いたものに対し、苛立ちが襲いかかる。私の言葉じゃ表現できない。私の手では描けない。こんなのは本物じゃない。だって、だって――本物は、もっと美しかった!!
それにもかかわらず、私の心は何かに突き動かされるように言葉を紡ごうとし、筆を止めない。私はどうしてそう感じたのか、何が良かったのか、どこに惹かれたのか、何を描きたいのか、これを絵にするには――
悔しい。まだ追いつけない。筆を折って、それを捨ててしまえば楽になる。なのに、私はずっと、心の中で高笑いしている。感性を蹂躙されて、これまでの私を打ちのめされて、壊されて、立っていられないはずだ。なのに、まだ「私はやれるはずだ」と笑ってる。
描くのも書くのも本当はやめてしまいたいのに、やめたくない。誰かに一刻も早く、この熱い想いを言葉で伝えたい。絵の完成度を上げて、もっと私は自分の見たいものが見たいと願う。誰かに何かを言われたり、嫌われたりしてしまう恐怖より、完成したものを開かれた場所にある額縁に早く飾ってしまいたいという欲求が勝る。
私は「自分の感情の発露」たる創作を通じて、私の見たい世界をより高次元のものへと昇華させたい。どれだけ筆を折ろうと、負った筆でまた描き始めてしまうのは、完成された作品や創作の素晴らしさだったり、私の好きなものを世に知らしめたいから。そうして、いつかその好きが、私が先日受け取った感銘みたいに、誰かの人生に光を与えたいんだ。
私も、誰かの人生を変えるかもしれないという気持ちで創作をやっていきたい。もっと、私の持てる言葉と絵で、まだ見ぬ誰かに筆を持たせてみたい。
でも、私には金を稼ぐ才能が皆無だ。続けるには金が必要だ。早く諦めてさっさと楽になりたいのに。
……やっぱりまだ、私はあの頃の夢から抜け出せないでいる。