「また来るからね」が、最後の言葉になってしまった

tsudoi
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公開:2026/2/24

※この記事を書いたのは、2月22日の夜です。

約1ヶ月前に「後10年は頑張って生きたい」と言った父が、今朝、亡くなった。

1月2日に母が亡くなり、2月22日に父が亡くなった。正直、さすがに辛い。1月30日、玄関前で倒れた父の入院手続きをして「また来るからね」と深く考えずに声をかけてそそくさと東京に戻ったのだが、その時は、1ヶ月くらい入院したら実家に戻って、少し元気になった父にまた会えると軽い気持ちだった。

入院してから兄と姉が、定期的に父に面会をしてくれて、その様子を共有してもらっていた。そして、入院して数日後、兄から「胆嚢炎になっている」と連絡が来た。

食事を抜く治療が始まり、栄養は点滴で摂るようになった。食事を絶って、どこまで回復するか経過を見るとのこと。

さらに数日後、どんどん痩せていく父、容態がよくなるどころか、ひどくなっていく。肝硬変を併発。腹水が溜まり続けている。黄疸が日ごとにひどくなっていると、姉から報告を受ける。

急変リスクもあるから心臓マッサージやそれ以上のことを望むかを話し合って欲しいと病院側から相談を受ける。

思ってもいなかった状況になっていき、気持ちがついていけなくなる。

2月13日、下血をしたと報告を受ける。腹水がひどくなり、足のむくみがひどい。2月15日、自分で排泄ができなくなった。1日単位で容態が悪化していき、その報告を毎日聞くと、さすがに辛い。

こんなはずじゃなかった。

1ヶ月くらい経ったらまた父と会話できると思っていた。そう思っていたから、あの時、「また来るからね」と深く考えずに声をかけてそそくさと東京に戻ってしまった。

2月19日、酸素量が足りなくなってきて呼吸器をつけた。会話がほぼ聞き取れなくなった。2月20日、自分の誕生日、それどころじゃなかった。そして、2月21日、兄から「父の容態が怪しそう」と連絡を受ける。

一度、自宅に戻ろうとした兄が、病院から呼び出される。血圧が65-40。数時間後、血圧が62-35。さらに数時間後、血圧が57-32。

完全に危篤状態。

2月22日の深夜0時、血圧が70-20。1時、87-28。2時、60-23。

兄から30分ごとに血圧の報告を受ける。兄からの次の報告が「亡くなった」かもしれないと思うと、寝れるわけがない。

始発の6時45分発の飛行機で札幌に行くこと決め、航空券を購入し、用意をする。4時19分、血圧44-22。

羽田空港行きの電車に乗った。5時14分、血圧33-22。

無理だ。間に合わない。

始発の飛行機が離陸して、病院に着くまで3時間はかかる。搭乗する際、携帯の電波を切らなければならない。電波を切る直前に、兄から「脈が落ちている」と報告を受けて、搭乗した。

羽田空港から新千歳空港までは約1時間半。

次、電波を入れた時、兄からどんな報告が入っているか、簡単に想像ができた。それが怖い。飛行機の中、涙が止まらない。

新千歳空港に到着し、怖い気持ちを押し殺して、電波を入れた。

離陸して13分後の6時58分、兄からLINEが届いていた。

「降りたら連絡下さい」

1月2日に母が亡くなった。母は約10年間の闘病生活だった。長い期間、施設と病院で過ごしており、亡くなった時「闘病生活、お疲れ様でした」と、悲しみの中、スッと自分の中で、受け入れることができた。

父の場合は違う。

実家に戻ると、父はいつも椅子に座っていて、玄関を開けると「おっ」と声を出して、こっちを見る。当たり前だが、父は、いつも実家にいた。それはこれからもまだしばらく続くと思っていた。母が亡くなって、落ち着いたら、旅行もしようと思っていた。父の死が、受け入れられない。

「また来るからね」と言って東京に戻ってから、父と直接会って話すことが叶わなかった。そんなことになるとも思っていなくて。あの時、看護師さんに頼んで、少し父と話しても良いですかと頼めばよかった。父とまだもっと会話をしたかった。後悔が、頭から離れない。

そして、父の最後にも間に合わなかった。それが悔やまれて仕方がない。

搭乗するため、携帯の電波を切った瞬間に、胸が苦しくなったあの感覚が、忘れられない。

僕はまだ、父に会いたい。