2024年6月の日記

2024/06/30

●書き物。夜、誕生日祝いに近所のおいしいフレンチをたべにでかけた。

2024/06/29

●午後、伏見さんと会って話して、これから半年で1冊の本をつくることにきめた。内藤礼展にも行った。

2024/06/28

●喫茶店でひねもす書き物。夜、SF大会関係のミーティング。

2024/06/27

●30歳になった。

2024/06/26

●引きこもることと読書は相性がよいので、酷暑と酷寒の日々に本は役にたつ。気候の良い春と秋に文芸イベントが集中し、真夏にはフェスがあるけれど、時期が逆の方がよいのじゃないかしら、などと考える。たぶん、サザンオールスターズが夏の野外ライブをやめるというニュースを見て、そもそもメンバーが高齢であるサザンオールスターズにとってのみならず夏の野外ライブそのものがたいへんなことなのではないかしらと思ったのだった。しかし、わたしはフェスに行ったことがない。夏のフェスは高原で開催されるらしいので、案外涼しいのかもしれない。●夏になるし、どこかにでかけたいのだけど、驚くほど休みがたりない。休みをべつの仕事にあてているのでそうなるのはしかたのないことだけど、それにしてもたりない。こまったことだ。極力あそびの予定はいれないでいるけれど、ふつうに帰省とかをもう少ししたい。民法第730条、直系血族及び同居の親族は互いにたすけあわなければならない、といわれたところで、帰省する時間すらまともにとれないならば別居している直系血族(!)とどうやってたすけあえばよいというのか。直系血族が同居している前提のおめでたい条文だなあと感心する。

2024/06/26

●このウェブサイト(しずかなインターネット)の「ムード」を変更する機能が追加されていることに気づき、思わず「雨」のムードを設定してしまう。●「ムード」というのは奇妙な機能で、設定をかえても、公開されているWebページにはなにも変化がない。ただこれを執筆している画面にだけ背景イメージと背景音が追加される。なんということ!

2024/06/22

●東大の学費値上げ反対運動の件、「総長対話」を経てなんとなく雰囲気の変質を感じる、かもしれない。大学側を「当局」と名指すことをやめたほうがよいのじゃないかしらとふと思う。当局と呼ぶことで、複数のステイクホルダー間の関係性がとらえがたくなってしまうし。一方で、一連の牧歌的な反対運動の最中に警察に通報したという大学側の対応の低レベルさにもあきれるけれども…。広報課からのリリースで「本学施設への侵入事案について」という主語を書いた奇妙な一文が罷り通っていたのが悲しい。「本学学生が本学施設に侵入した事案」と書くべきでしょうに。

2024/06/21-2

●ある事情から、たいへん入手の倍率が高いらしいという紫テントのチケットを譲っていただき、じつは本格的に見るのははじめての唐十郎の本の芝居を見に行く。『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』、中村勘九郎、寺島しのぶ、豊川悦司の圧巻の演技。テント演劇そのものは水族館劇場に何度か行ったことがあるので馴染みがあるが(そしてじつはアングラ演劇そのものも、まったく知識はないがある事情から身体的には馴染みがあるのだが)、水族館劇場の敢えての素人感満載の演技に対し、こちらの演技は圧倒的な成熟度で迫り来る。●言うまでもなく演技も演出もドラマティックで感動したが、しかし一方でこのテンプレート的な狂女の妄想をめぐる戯曲のお話全体には素朴な意味でぜんぜん乗れない。当時の人気歌手・森進一のスキャンダルから着想を得たもので、そもそも古典にする意図のなかった水物の本なのだなと感じる。しかし水物であってもそれによって当時の人気を獲得したからこそ細部の面白さとあわせて評価され、このようにして脚本家の死後も上演されることになるわけで、古典をめぐるこのダイナミズムはなんともいわくいいがたいものだなと思う。●芝居の帰り道、なんで人だかりができているのですか?とわたしに訊ねてくれた女性は就活のため東京訪問していたところだという。あしたの試験が終わったら観劇しようかなと浮々していて、あらゆる人生に幸あれと思った。

2024/06/21-1

●きょう、漢字辞典を引いていて気づいたこと。「研」という文字にはそれ単体で「すずり」の意味がある。やげん軟骨という鶏の部位(焼き鳥屋さんでよく見かけるもの)があるが、ここでいうやげんとは薬研=薬を摺るための器具を指し、実際に薬研のかたちを検索してみると、鶏の軟骨のかたちに驚くほど似ている。●辞書は引くよりも読んだほうがいいのだとつねづね思っているけれど、そんな時間がとれる日は果たして来るのかしら。辞書を読む仕事はしたことがないけれど、事典を読む仕事は今後もしばらく続きそうである。レーモン・クノーが事典編集者であったことは、わたしをたびたび勇気づける。

2024/06/20

●株の値上がり益でも配当益でもなく、株主優待を目的にして投資をつづけているのだという桐谷広人氏をとりあげたYouTube番組を見る。もと将棋のプロ棋士で、リーマンショックで大損して困窮し、いまは市場の波にあまり影響されない株主優待オタクになったのだという彼の生き様もすでに相当面白いけれど、なんだか投資家然としていない朴訥としたオタク的かつ老人めいたしゃべりかたが妙に印象に残る。株主優待で送付される品物をつねに「いただく」という言い方で受け取るのだが、要するに投資のリターンであって配当金や利鞘と変わらないものを「いただく」という動詞で認識するという世界の捉え方のラディカルさになんだかくらくらする。●たいへん奇妙なひとだなと思うけれど、カネではなく徹底的にモノのみにこだわって価値をやりとりするというのは経済を考える上でかなり面白い例だなと思う。オタクっぽいふるまいだけれど、ある意味では経済や金融にかんするオルタナティヴな思想として解釈することも可能なのではないか。というか、かれの徹底した振る舞いは、単なる株式投資におけるリスクヘッジという実益を超えた思想性を感じる(表面的にはかわいいオタクのおじいちゃんにしか見えないけれど)。そもそも株主優待という文化は、日本企業に特有のものらしい。株の値上がり益をモノと置き換えて考えるのはちょっと難しいが、株の配当金がモノで支給されるのが当たり前の世界を想像してみたらどうなるだろう(といっても、これはマクロ経済的に考えるべき話ではなくて、マクロには配当金のおまけ程度であるところの株主優待をもちいて市場をハックしているからこそ、個人の家計においては利潤が最大化されているというだけかもしれないが)。それにしても、投資家だというのにモノと段ボールでぎっしりと埋まったあのマンションの部屋を思い返すにつけて、なにか強烈なオルタナティヴ性を感じてしまう。金融市場にもちこまれた贈与経済…。

2024/06/19

●『本の雑誌』ルビ特集をすみずみまで読む。ルビ、この底知れぬもの…。●この特集とはあまり関係ないことだけど、最近たまに反省するのは、ルビを使わない(=PCで書き込みしやすい)文章に自分の文体が最適化されてしまっているのではないということ。noteなど日本ローカルのサービスを除いて、一般的なグローバル資本によるSNSではルビの機能がいっさい搭載されておらず、これがたぶん集合的にひとびとの文体を変えてしまっていると思う。手書きのメディウムであればみずからルビを打つのはきわめて簡単なことであったはずだから、鏡花のように作家みずからが総ルビで文章を書くという身体性もぎりぎりなじみうるものであったはずだ。●ルビは読めないものをおぎなうためにもちいるわけだから、漢字の制度の標準化が完成されるほどに不要なものになっていく。事実、戦後すぐの婦人雑誌などの記事が(いま見ると圧巻の)総ルビなのは、漢字教育が行き届いていなかったからだろう。学校でしっかりと漢字の読みを教え、出版社が常用漢字ならびに教科書に掲載された読み方だけを用いるようになったら、大人向けの出版物においてルビは極論まったく不要になる。しかしその標準化に書く側までが身をまかせていると、言葉は弱くなっていく。●そういえばルビ特集で鏡花はでてこなかったような気がするけれど、鏡花の総ルビはほんとうに怖い。

2024/06/18

●東大安田講堂前のテントは美しいなと思う。わたしたちが学生の頃(「タフでグローバルな東大生」が祭り上げられていた頃!)は、良くも悪くも大学に楯突くモチベーションはなかった。わたし自身もありがたく援助を頂戴して(それでも援助を受けるための複雑な申請やその他の手続きを完了させることは果てしなく過酷で辛かったが)留学し、結果的にいろいろな能力を身につけた。●しかし今回のかなり見事な値上げ反対運動の下地をつくったのは、パンデミックにおいて学生生活がなによりも冷遇され毀損されたという事実ではないかと思う。パンデミック下では集まることすらできず実質的に学生たちは重要なコミュニティでの時間を奪われていたのだろうから、さらなる理不尽に対して集まって抵抗することで、その抵抗の活動自体が学生の生活を向上させるだろうということは感覚的にも想像できる。ある意味で、パンデミックによる切断が、学生の悪質なホモソーシャルなノリを一度低減したのではないかと想像してみることもできる。わたしが学生の頃は、東大内の支配的なコミュニティに加わることは女子学生としてかなり心理的抵抗のあるものだった。もしその傾向がパンデミックの後に変化していたのだとしたらどうだろう、と、これは現場にいない以上確かめることはできないが、考えてしまう。●現場に足を運んだわけではないので動画で切り取られたものを見た限りでの印象だが、先日の国立西洋美術館での抗議が伝統的な左翼パフォーマンスをひきつぐシュプレヒコールを含むものであったのに対し、東大の学生たちはtofubeats的な(という感性もなんだか古いのだろうが…)軽やかな音楽とともに、ロックバンドのライブのMCみたいなかんじで学費値上げ反対を叫んでいる。これはたぶん伝統の切断の効果だろう。抵抗の伝統を軽んじるべきではないし、不快さをあたえるのは抵抗の手段そのものでもあるのでまったく悪いことではないが、デモのシュプレのヒステリックさは参加のしやすさでいえばそうではない印象を与える面もある。しかし今回のように短期間で多くの若いひとの参加を集めようとするのであれば、とにかく楽しくスマートにやるというのもひとつの方法なのだなと感じる。

2024/06/17

●都知事選についても思うことは当然いろいろある、それからニコニコ動画へのサイバー攻撃についても思うことがいろいろあるのだけれど、ちょっと日記を書き疲れた(ほかの原稿を書くべきである)ので、未来の日記でなにか書けるとよい。●ひとまず日記として。6月8日に発生したニコニコ動画へのサイバー攻撃のあと、3日で構築されたという代替サービスでは、2007年に投稿された人気動画がランダムに視聴できる。わたしは2007年時点ではインターネットの世界をよく知らなかったので特に懐かしいわけではないのだが、外山恒一の政見放送の動画をたまたま目にして、なんだか古き良き時代だったのではないかと安直にも思ってしまった。「当選したら、私もビビる——やつらもビビる」というセリフの圧倒的なペーソスと破壊力。今回の都知事選のあまりに低レベルな惨状にくらべれば、2007年都知事選の外山恒一のパフォーマンスがいかに真剣で高品質なものであったかと感じ入ってしまう。

2024/06/16

●猿場つかささん『海にたゆたう一文字に』刊行記念スペースで喋る。文字の記号性の外側にあるあれこれをおしゃべりしつつ作品の魅力も深掘りでき、とてもよい会になった。

2024/06/15

●ずっとパソコンに向かっている。執筆にタイマーを導入したら効率良くなるかなと思ったのだけど、残念ながらそうでもなかった。●東大の学費値上げ反対運動においてハンガーストライキが行われていることについてなんとなく思いを馳せていたところ、たぶん20歳ごろのわたしがそれに参加していたとしたら、たぶん摂食障害を発症していただろうなと思った(その年頃のわたしは、発症寸前という感じが自分でもよくわかっていた。食べ過ぎたらとりあえず水をたくさん飲んで喉に手をつっこんで吐くというようなことが癖になっていたから)。摂食障害は女性の方がリスクが高いといわれているから、ハンガーストライキは(体を張っているわけだから当たり前だけど)健康な男性身体のほうが参加のリスクが低いということになる。とくに学生運動に参加するような20歳そこそこの女性は、まだティーンエイジャーと同じくらい摂食障害のリスクが高い年代だと思う。ハンガーストライキには良さもある反面、そのようなうっすらとした身体的な排外性のことは認識されるべきである。

2024/06/14

●ちょっと疲れたので、まとめて何日分かの日記を書く。日記を書くことで元気になる、ということの理由はまったくよくわからないけれども。●知人のNさんがひっそりTumblrに投稿していた日記を読んでみると、まったく元気がなさそうだった。その日記いわく、Tumblrのデザイン(あんまりみんなに読ませようとしないしずかなつくりになっているところ?)のために、元気のないときはTumblrに文章を書くことになるらしい。●日記を書いてみてわかったけれど、最近は夜に予定をいれがちだったから、少々疲れるのも仕方ないことだったかもしれない。それに今日は無理やり原稿も進めているし。

2024/06/13

●夜、SF大会の企画の打ち合わせをする。「リリックとしてのSF」という企画の準備をしており、企画内容は申し分なく面白いことになりそうである。一点困っていたのが、最初に割り当てられていた時間帯が26時までの枠であったことで、その時間はまったく起きていられる気がしなかったので、焦った。結果的にどうにか23時スタートの企画になったので、よかった。●とはいえ、当日はみんな元気で、自分もふくめ結構起きていることができるのかもしれない。

2024/06/12

●昨晩芝居を見てからどうやって帰宅したのか思い出せない、とひとしきり悩んだけれど、芝居のほうが夢だった。舞台のまわりに白い幕がたらしてあって、その幕をかきわけながら鑑賞するへんな芝居だった。知り合いの恋人(わたし自身は会ったことはないが、文章を読んだことがある)が出演していた。

2024/06/11

●夜、唐突に銀座にでかける。Oさんといくつかの建築を見学して回ったあと、銀座のサイゼリアで食事をする。演出家の知人も合流して、演劇についていろいろなことを教えてもらいたいへん勉強になった。

2024/06/09

●クリストファー・ノーランの『インセプション』をAmazon Primeで見る。たぶん前にも見たことがあるはずなのに内容をまったく覚えておらず、最後のシーン(トーテムが回り続け、そのシーンが夢である可能性をほのめかされるところ)で思いっきり考え込んでしまう。(当たり前のように)面白かった。また、作品内で数十年を一気に経過させると途端に物語のスケールが大きくなって、高揚する。●本作がこれだけの長尺となったのは、サイトウから依頼されたビジネスのミッションに応えるというプロットと、かつて自死した妻の記憶と対峙するというプロットが絡み合っているため。前者だけだとあまりに物語の情感として味気なく、しかし後者だけだとひたすら内省的になってしまうので、こういうつくりにせざるをえなかったのだとわかるが、絡ませ方はいびつなつくりになっていると思う。

2024/06/08

●とくに理由なく福生にでかける。超アメリカンでクラシックなダイナーでハンバーガーをたべ、エスニック食品や駄菓子をわあわあと買った。食料品の品揃えが基本的にへんてこなので、定期的に福生に行くとよいかもしれない。

2024/06/07

●チェルフィッチュ×金氏徹平『消しゴム山』を観劇する。こんな前衛的な作品なのにわりとオーセンティックな箱いっぱいに人が入っており、素朴に驚いてしまった。わたしは観劇そのものはかなり苦痛に感じたが(2時間半、ドラマのない空間の継続するなかに身体を閉じ込める!)、あとから分析的に思い返すと確かに面白いと思う箇所が多かった。面白いのだけど、さすがに、オーセンティックに客を座席に縛り付ける見せ方をする必要はないのではないか……。個人的には、ずっと客電をつけておいて、飲食や座席の移動、ストレッチや読書や昼寝が自由にできるような感じで鑑賞してみたかった。

2024/06/06

●「虎に翼」ストーリー展開がこれまでよりだいぶ穏やかになってきた。生活になじむ程度の劇的さ。あんまりドラマとかTV番組をリアルタイムで見てこなかったけれど、こんなふうにフィクションが日常に並走するのは不思議なかんじだ。15分なら休憩がてら見られるし。●東大の学費値上げにたいする反対運動。学部生の終わり際、銀行口座に数千円しか残っていなかったことを思い返しながら、めらめらともえる怒りと共に賛同する。「地方出身の女子学生の場合、実家から通学する方や、男性など住居等のセキュリティリスクの低い方とは異なる経済的困難が明白に存在します。学費値上げは、東京大学が取り組んでいるとされる女子学生の進学推進にも逆行します。適切な議論なしに値上げを決定しないでください。」●個人的な経験からこういう投稿をしたけれど、より根本的な問題は、学業と学生の家族との関係を切り離すためには学費は低くなければならないということだと思う。親との関係がものすごく悪い学生だけではなく、親との関係がたとえわるくなくても、たとえば「経済的な自立」という(一見するとまっとうな)幻想を内面化してしまう子どもは多いだろう。●奨学金の申請手続きは発達障害気味の学生には恐ろしいほど困難であるということについても、ほんとうはもっと声を高くして言いたい。しかし自分が発達障害当事者であるのかよくわからず(たぶん診断としては該当しないだろう)、またわたしはギリギリ申請手続きを(なんどか再提出しつつ)どうにか乗り越えられたので、問題を明言できない。奨学金だけでなく、学振などで研究の資金を交付してもらうにあたっての手続きも異様に複雑化しているが、これが意味するところは発達障害者はたとえ一般の人より飛び抜けた研究能力を持っていたとしても、まともに学び研究することがほとんど不可能になっているということだろう。そして官僚的な人間ばかりが生き残っていく…。

2024/06/05

●帰宅するときに空腹なのにつけこまれて、ばったり出会ったひとに誘われ、うっかり食べ放題のお店に行ってしまう。いつもは涙ぐましい努力で自炊に励んでいるというのに、空腹はいとも簡単に判断をくるわせる。●手料理は愛ではなくてサバイブするための鋭利な武器だ。わたしは料理がかなりうまくできるけれど、これはみずから材料を買いもとめて料理せざるをえない貧しさを長いあいだ生き延びてきたから獲得した鋼のごとき能力である。●さまざまにやることがあり、混乱している。混乱していると、重要度の低い案件からつぎつぎ、ところてんのように押し出されてなし崩し的に捌かれていく感じがする。重要度の高い順のところてんであってほしいのだが…。もう少しきちんと仕事を管理しないとまずいかもしれない。●「ふくやま美術館の特別展「イタリアと日本の前衛 ―20世紀の日伊交流」の図録を読んだ。国境をこえた作家同士のあかるく親密な関係性が、作品や書簡をつうじてつぶさに浮かび上がるのが愉しい。6月2日までの展示。」5月30日にTweetしたこの図録は送っていただいたものだ。ふくやま美術館はじつに実家から徒歩15分くらいのたいへん身近な美術館であり、そこに地元出身ではない友人が勤めている。彼女がおそらくはじめて企画した展覧会。結局、展覧会に合わせた帰省を計画することはかなわなかったが、しみじみと図録を読んだ。いよいよ、自分たちの世代がいろいろなものを精力的につくる年代になったのだなと感じる。

2024/06/03

●インスタグラムで友人があげているごはんのスクショをとって、べつの友人に共有する。どうも新生姜なるものは肉巻きにしてたべるとよいらしい、そんなお料理はつくったことがない、などと言いながら。「というか、スクショ晒して食材の噂するって、平和すぎない?」

2024/06/02

●昨晩は、奥泉理佐子さんと恒例?のスペース配信をする。病気のこと、購買や贈与のこと、漂着物について、羅列と制作、寺山修司の質問、舞台と正面性、などなど。他愛ない雑談から、意図しないままふと制作の話にうつるグルーヴができてきた?ような感じがする。●原稿がある。べつの仕事もはじまろうとしている。頭ががやがやと忙しいけれどもうれしいな。●古典をちゃんと面白がれないときがっかりする。やっぱり古めのSFはなかなか厳しい。評論を読んで面白そう、と飛びつくと文章がひどくて読み続けられないことが多い(怒られそう!)。古めかしいからではもちろんなくて、そもそも美意識がない感じがする。たぶんSFがまだ文学ではなかったとき、その在野らしさが支持されていたのかな。しかしオーソドックスな文学性(文章の良さ)をもとめてしまうわたしはオールドスタイルな読者なのか…。購入した古本がやけにかびくさいのもあって気分がちょっと沈む。

2024/06/01

●わたしのいまの仕事のひとつを肩書きにするならば「事典編集者」ということになると思うが、これはレーモン・クノーの仕事とまったく同じだ。よろこばしい。もっと事典をつくりたいな(ふつうの本より編集はたいへんだけれど)。●本文組版のためのインデザインの利用と、装丁デザインのためのイラレの利用は、実務として分業されている(前者は印刷会社のオペレーターさんが、後者は装丁デザイナーさんが、担う)。編集者の立場からすると本文組版のソフトが扱えるほうがシックで格好良いと思うが(そもそもすでに組版のことはわかっていてインデザを外注しているだけだし)、編集の工程を考えると、本文組版を赤字によっていちど他者のものにするという遅さの捻出は結構だいじなことだと思うので、たぶんこの工程は他者とともにあるほうがよい。だとしたらイラレを触れるようになるほうがよいのかもしれない。でも、そもそも装丁が過剰にデザイン的でグラフィカルであることの必然性は、資本主義的な理由をのぞいてあまりないような気がしており、イラレがなくとも、文字や紙やインクをていねいに扱うことで美しい本はつくれるようにも思う。●組版の技術を勉強するならばインデザインに依存しないフレームワークを学びたいかもしれない。組版という民主化された技術が、ひとつのテクノロジー私企業のソフトウェアに寡占されているというのはあまり納得がいかないから。さいわいコーディングはわりとできるので、たぶんなにか使える技術があるはずだ…。

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)