2024年5月の日記

2024/05/31

●夜のあいだの雨の音がすばらしかった。●外に出かけ、いちにち調べものをして過ごす。ついでに、藤子不二雄のSF漫画(名久井直子装丁の豪華なもの)を少しと、中井久夫を少し読む。

2024/05/28

●誤字や誤記に対するアレルギー状態に陥り、くるしみながら過ごす。

2024/05/27

●Google検索の結果の質がどんどん悪くなっているから、これまであまり買ってこなかったなんということのない実用書も買うようになってきている。検索上位に来るどのページにもコピー&ペーストのようなことが書いてあるので、あまりに冗長すぎる。どうしてこういうことが起きるのか、メカニズムはあまりわからないのだけど。行き過ぎたSEO対策のようなもの?●AIのハルシネーションがおそからず改善されて調べ物の実用に足るようになるのだとしたら、きっとそこに広告が含まれるようになるのだろうな。

2024/05/25

●ゲンロンSF新人賞の選考会および授賞式にでかける。はじめて観客としてじっくり見たのだが、あらかじめ最終候補作品を把握してから視聴すると、選考会の様子は異様に面白い。これまでは渦中にいたのでなぜこんなに選考会の視聴者数が多いのかいまいち腑に落ちていなかった(自分と関係のあるところ以外はあまり興味がなかった)が、外部から見ると選考委員の言うことに一喜一憂してしまい目が離せなくなる。まるで内輪めいた視聴態度のような気もするのであまり大っぴらにしないほうがよいかもしれないが、とはいえわたしは正真正銘の内輪メンバーなので、ひっそりと一喜一憂するぶんにはかまわないだろう。議論は二転三転したうえで、わたしが優れていると思っていた二つの作品が受賞することに決まった。おそらく休憩などもふくめて8時間くらいの長丁場の放送だったのではないか。●今回は新人賞を決める過程まですべてを公開するという非常にラディカルな試みが行われており、その完全に透明な方針は非常に挑戦的であり好感を持った。選考委員はすべての言動を監視されているわけだからおそらく非常にやりにくかっただろうと思うし、演出的にも、選考委員の本質的な迷いがそのまま提示されてしまうので番組として効果的だとは言えない。裏を返せば、新人賞あるいはその他のあらゆる選抜過程においては(点数のみに基づく筆記試験を除いて)その透明性のなさ、わからなさこそが神秘性と権威を生んでいるのであり、それをあからさまにしてしまっては興醒めではあるだろう。でも、それを解体してしまえるラディカルさがとてもいい。とはいえ、いろいろなことを総合して考えるとたぶん来年はこの方式ではなくなってしまうような気がする。●夜11時、受賞者に贈るための花束をつくるために五反田を駆け回る。スーパーマーケットで花を買い、ドンキで包装紙とリボンを買い、道端で花を包んでリボンを結わえる。深夜の五反田ブリコラージュ…。ありあわせのお花で申し訳なくはあったが、心からお祝いをすることができてとてもよかった。●夜、打ち上げの席でひさびさにゲンロンのUさんとAさんと話す。

2024/05/24

●スティックの粉末コーヒー一袋ではカフェインが足りないようなので、二袋を溶かして飲まなくてはならない。忘れそうなので、ここに記して覚えておく。

2024/05/23

●急に「虎に翼」(連ドラ)をまとめて視聴しはじめ、4日間くらいかけて8週間分を見終えた。連ドラを見るのはこれがはじめて。1話15分ごとの小さな山場が目まぐるしく展開する、かなり変わった形式。新聞連載の小説ともまた異なる物語的な文法があるような気がする。●きょうのエピソードでは主人公の寅子が出産と仕事のプレッシャーに耐えられず泣く泣く弁護士事務所を(休職ではなく)やめるという展開だった。お話はものすごくエモーショナルだったが、でも、どうせ二次大戦が泥沼化して東京にいてもどうしようもなくなるようなタイミングなのだとわかっていて、打算的に退職してそのまま疎開したのではとも思った(寅子のモデルは三淵という日本初の女性弁護士・裁判官であるという)。物語の感動のために奉仕する人生の数々……むろんわたしの想像にも根拠はないのだけれど、そんな伝説的な存在がプレッシャーなんかを理由に仕事を辞めるだろうか。●それにしても、本邦の視聴者たちはこんなにもエモーショナルなドラマを毎朝見ることができているのか。寅子ないし三淵には及ぶべくもないが、わたしも受験勉強が得意な女の子に降りかかる悲哀をいろいろと舐めてきた時代があったので(いまではエリート性の欠片もない人生を送っているが…)、ほぼすべてのエピソードでぼろぼろ泣いてしまう。夜中にごそごそとスマホで視聴するしかない。●そんなことより原稿をしなくては!

2024/05/21

●ハン・ガン『別れを告げない』まだ序盤だけれど、文章はもちろん、柔らかな驚きの仕込まれたドラマの展開も、とてもよい。少しずつ読み進める。

2024/05/19

●文学フリマ東京。ぜんぜん起きられず、閉場時刻ぎりぎりにすべりこむ。『毒についての話』の「薔薇色の食卓」が新作、『小説紊乱』の「雨カズラの成長」が新刊への再録。『小説紊乱』はすでに350部も動いているらしい。『毒についての話』もとてもよく売れていた。面白いのは確かなので、どうか読まれますように、と祈るように思うばかりではだめで、きちんと宣伝をしなくては…。●夜、打ち上げでおいしいものをたくさんたべる。なにかをきっかけに、同じテーブルの作家たちがそれぞれのトラウマを開示しはじめる。精神のふかいところにひそむ壮絶ななにかがつぎつぎと話題にのぼり、唖然としながら、聞く。

2024/05/18

●このところ、立て続けに2本のポッドキャストを収録。夜中に4時間の作品講評を収録をしたときには心身ともにくたくたになった。今回は作品を絞って全部で7時間くらいの収録時間になったが、去年は実作に13時間、梗概に6時間かけて全作品を講評していたらしい(梗概はほぼ休憩なしの1本どり)。われながら化け物じみている…

2024/05/14

● なぜか疲れている。読むべきものが多い。カフェインが足りないのかなと思うけど関係ないかもしれない。●強烈に魂のこもった作品にひさしぶりに出会ってしびれた。依然としてわたしの疲労も思考も晴れないけれど、疲労なんてどうでもいいから必要なのはとにかく魂を削ることなのだ、と思いながらまた疲労の海にのみこまれていく。

2024/05/13

●夜、来客があってホットプレートで餃子を焼く。しらすパイをたべる。地元の話題がいろいろと出る。

2024/05/12

●大江戸骨董市でいかしてるイヤリングとチェスを買う。昼食に入った店がぜんぜん気に入らず、大人気ないくらい機嫌がわるくなる。丸の内で遊ぶのが下手なのかしら。●夜、来客。豚すき焼きをつくる。

2024/05/11

●なぜか異様に疲れており(たぶんお酒のせい)、「クイーンズ・ギャンビット」を見る。

2024/05/10

●夜、お酒を飲んでしまう。バチバチとした不穏な文学談義…。お酒を飲んでもあんまりいいことないので、やめておきたい。

2024/05/09

●うっかり過集中して凡庸な作業をやりすぎる。異様に疲れる。

2024/05/06

●唐十郎の訃報と、フランク・ステラの訃報。唐十郎は、チョムスキー(95歳)とおなじで、わたしのなかではまだ存命であったことが意外である(つまり存命なのに歴史化されている)人物リストにこれまで含まれていた。歴史化されることは死ぬことだから、あらかじめ死亡していたのとおなじこと。これは理念的にもそうだし、実務的にも、歴史的な扱いをうける際にはその人物に対する評価についてこれ以上の変化がないであろうと見込まれる意味であたっている。逆に、たとえば蓮實重彦(88歳)・吉増剛造(85歳)・谷川俊太郎(92歳)がきわめて高齢であってもまだわたしの「意外と存命」リストに含まれていないのは、いまもなお想定外の評価に結びつきうるような人物でありつづけている(とわたしが勝手に感じている)ためである。

2024/05/05

●仕事がひと段落したので映画を見に行く。ろくに調べもせず、とりあえず渋谷まで行って、そのタイミングでやっていた映画の中でいちばん刺激がつよそうなものを選んでチケットを買った。「無名」という中国映画で、1940年代上海を舞台にした壮麗なスパイもの。映画の美術や衣装がとにかく美しく、俳優陣の顔立ちも見目麗しく、トリッキーな筋書きをよく理解しないままぼんやりと見続ける。二時間半とけっこう長い上映時間だが、最後の30分くらいでなにが話のポイントだったのかが急に見えてくる。いちばん最後のセリフでちゃんと痺れるのだが、その痺れ方がうっすらと共産党プロパガンダにもなっているのだなと納得する。(以下は完全なネタバレ)国民党や日本軍の手下のように見える立ち振る舞っていた者たちのなかで、いちばん華やかな立ち位置にある主演のふたりは結局のところ腹の中は共産党にあったことが最後の最後に判明し、その判明のしかたに絶妙にロマンスの色が織り交ぜられてたいへん格好良く演出されている。トニー・レオン演じるフーは国民党の諜報員を演じていたが、共産党の諜報員である妻と劇的な再会を果たす。ワン・イーボー演じるイエはフーの部下だったが、共産党員である婚約者すらも騙しているので恋人にふられ、しかも国民党に婚約者を殺されてしまう。婚約者を殺した国民党員に復讐する場面が時系列とは無関係に映画の最後に突然出現し、「なぜ彼女を殺した」「彼女が共産党員だからだ」(ここで見つめ合い)「俺もだ」(ひびきわたる銃声!)ということで、彼は唯一本心をもらした国民党員を即座に銃殺し恋人の復讐をする(ワン・イーボーは人気のアイドル・ダンサー・ラッパーであるとのことで、とても甘やかな顔立ちをしている)。こんな入り組んだプロットをここまでちゃんとエモーショナルに見せることができるものだと感服…。しかも日本でよくあるサスペンスめいたドラマと違って、俳優がぺらぺら喋ってわかりやすく状況説明をするようなことはない。その代償として映画の前半はややぼんやりとした印象になっているけれど、美的なトーンが一貫してしており眺めていて心地よい。●ダブル主演に対し恋人がひとりずつ、そしてそれを奪う役回りの男がひとりずついるという構造になっていて、ルネ・ジラールのいう欲望の三角形が二重化されている。ふたりの男がひとりの女を奪い合うという欲望の三角形自体は基本的につまらないお話のパターンの典型だとわたしは思っているけれど、ダブル主演のスパイものとして再構成するとロマンスはスパイドラマの味付けとして後景に退くのでまったく違う感触になる。これはある場でS氏が話していたことだけれど、たとえば叙述トリックみたいな使い古された技法は、基本的には作品の真ん中ではなくて味付け程度に使うことでいまでも面白く再利用できる。本作の監督チェン・アルは「常に観客の予想を裏切るような作風で知られている」とのことで、たしかにその手腕は申し分なく発揮されていた。

2024/05/04

●近所のあるギャラリーの展示が話題になっているので出向いたら、近所というかほとんど自宅から斜向かいといってよいくらいの近所だった。しかもびっくりするくらいタッパのある空間で、気持ちが良い(天井の高さは、俗っぽい意味での美術の神聖さを演出するのに必須の要素。そんな神聖さはまやかしなのかもしれないけれど、健康に良いのは確かである)。家で仕事をしていて煮詰まったらいつでもひょいっと見に出かけることができる。

2024/05/03-2

●東京都現代美術館でホー・ツーニェン「エージェントのA 」/サエボーグ「I WAS MADE FOR LOVING YOU」/津田道子「Life is Delaying 人生はちょっと遅れてくる」を見た。●ホー・ツーニェン展はとかく「読ませる」映像の連続で、長くてモザイク的なつくりなのにいくらでも見ていられるけれど、一度の訪問でぜんぶ見切るのは難しい。●今回都現美に行ったのは展示を見たかったからというのもあるけれど、カフェでだらだらしつつ仕事を進めたかったからというのもあるので、どのみち他の展示を見るためにもう一度行くことになると思う。いま住んでいるところと都現美はけっこう遠いけれど、昔は近所に住んでいたので心理的距離が近いせいか、出かけるハードルがかなり低い。それに(人気の展示をやっているときは恐ろしく混んでいることもあるけれど)一般的な企画展示のあいだはけっこうゆったりと過ごすことができて来館者としては心地よい。

2024/05/03-1

●去年のいまごろ、メリュジーヌをはじめとする跛者のことをさかんに考えていたのだけれど、わたしの幼少期にとって(すなわちいまでも)もっとも重要なとある女性が一時期に跛者であったことをいまはじめて明示的に思い出した。歩けないことは現実においてはとてもつらいことだけれど、それは表象の水準においては彼方へと接続する迷宮舞踏だったのかもしれない。とにかくそのひとは、さまざまな事情でお洒落をする余裕などぜんぜんなかったのに、どうしてかいつも硝子細工のようにうつくしかった。あまりに身近なひとであったから当時はそんなふうにはっきりと思ったことはなかったけれど、幼少期に処理しきれなかった強い情動のひとつにたぶんそのひとがあまりにうつくしいということが含まれていたような気がする。そのひとが隅々まで着飾っている写真を見せられたある晩、幼かったわたしはなぜか説明し難い思いにとらわれて泣き出してしまったことがある。●日本語のネイティヴスピーカーはピッチ(たとえば箸と橋のイントネーションの違い)に無頓着(無意識的)だが、日本語の文体はわりとこのことと関係しているのではないか。少なくとも短歌ではそうだ、ということを投げやりに振り出しておいて、その先は未来の考えごととして先延ばしにする。

2024/05/02

●頭がはっきりしないので、去年の日記(きわめて膨大)を斜め読みしていた。1年間でたくさんの訃報があったことを思い出す。天沢退二郎、大江健三郎、坂本龍一。見田宗介の追悼講義。二十世紀は2023年に終わったのだ、という認識を新たにする。数日前、2024年4月30日にはポール・オースターが亡くなったのだという。●コロンビア大でイスラエルに抗議したデモ隊が警察に排除され、逮捕者すら出たという報道を目にし、世界が壊れていくのを目の当たりにする思いがする。●テントを張って若者たちがただそこで暮らす、という抗議方法は、抗議方法について美的な判断を下してよいのだとすればきわめて美的で効果的だ。このように特になにもしないこと、とりわけ眠ることを含む抗議活動の放つ険しい魅力のことをわたしはどう理解すればいいのかわからない。3月の日記に書いた、横浜トリエンナーレの你哥影視社による作品《宿舎》も、まさしくそこで抗議者たちが眠りにつくことがむきだしに表象されていてそのことにわたしは泣きたいくらいの情動をおぼえた。このことにはもっと丁寧に言語をあてがわなければならないが、さしあたり簡易に説明してみるとするならば、眠っているという究極の没我的状況を他人のまなざしやカメラに明け渡すということの無防備さは、いつでも果てしない美的な緊張感を生む。こちらを見返されずにそれを見つめる、ということは見るという行為のもっとも純粋な状態で、それが現実の水準で行われるときに虚構とそのメッセージが現実の膜をつきやぶって迫り上がる。眠っている姿を見せるというのは、自分自身をメッセージ=表象そのものとしてカメラの前に差し出すことであり、それは抗議者たち自身が死せる記号に変わるということだ。「本読みデモ」という、参加者がガザに関する本を読むというデモも信州で行われていたというが、本をに読んでいるあいだに現実との実質的な関係が断たれているあいだ、かれらは常に見られる対象としてみずからを無防備に景色のなかに差し出す。眠りにせよ本読みにせよ、メッセージを声高に主張するタイプの抗議活動とは記号的な構成がまったく異なっている(どちらが良いということではない)。振り返ってみればジョンとヨーコのプロテストがすでに眠ることを含んでいた。

2024/05/01

●五月がきたことを祝し、トマトとバジルの冷製パスタを作った。

@ukaroni
羽化とマカロニ。本、映画、展示のこと…(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)