私のことは彼らにも運営にも関係がなく、どうでもよいのは分かっているのですが、どこかに書き出しておきたく。
本来なら手前の記事の続きを書きたくて、そのときのポジティブで前向きな、一時的とはいえ少し落ち着こうとしたときの記憶が残ってはいるのですが、現状、その文章を書くだけの気力がなく。数日おけば変わるかと思えば、日に日に体調は悪化し、悪夢を見ることになり、朦朧とした意識で「単語の羅列(いわゆる「言葉のサラダ」)が起こり、会話がままならない状態になるのかと怯えながら、気づけばまた意識を失うように眠り、なんとか会話や文章の作成が続けられそうだと安心しながら、何も終わっておらず。安心できず。
私の中で何も終わってないということです。落ちついてない。
彼らからすれば「15ヶ月と18日の果てに"やめます"と宣言して終わり」
私からすれば「20日間の果てに8年見てきたものが終わった」
"「◯◯の主役は我々だ!」様とは関係ありません"
なのに、どうして「魔界の主役は我々だ」が「まじめにヤバシティ」の面々に切り替えられて「魔じめにヤバシティ」として連載が再開するとか、変化するとか、そういったことを語っておられる方がいるのか、私は心底理解ができません。今にはじまったことではありません。分かっています。
「我々だのルールを守っているのに、リスナーのルールで怒られる」
「我々だはキャラクターであり、公式の二次創作ルールや発起人であるグルッペン氏のブロマガを読んでもナマモノ(nmmn)ではないのにナマモノや3次元と考えている人がいる」
「自分と他の人の考えが違うことが分からないか、自分と違う考えが存在するわけがないと決めつけるかのような天然エコーチェンバー、あるいは共依存性コミュニティ」
つまるところ「我々だを応援しているが、我々だ組織やメンバーの主義主張を聞いて、それに従って応援しているリスナーだけとは限らない、むしろ、そうでないリスナーが目についてしかたないから、リスナーだけどリスナーとは関係をもたない、同じと思われたくないという人がいる世界」なのは今にはじまったことではない。同じことが「まじめにヤバシティ」でも繰り返されているだけ。
「まじめにヤバシティが、何を言っていても、どういう立場でいても、そんなことは関係なく、自分が思った、自分の考えた、自分の中のまじめにヤバシティを推していて、それを当然だと思いこんで押し付けるリスナー」
が存在しているだけ。
関係者各位の心情や状況は想像もできないが「我々だ」の実質解散が宣言された直後、イラストレーターに対して「まじめにヤバシティ」から依頼が来たら受けてあげてだの、立ち絵を描いてあげてだの、イラストレーターを「自分達と同じで彼らが好きなのであり、"我々だ"はどうでもいいはずだ」と決めつけたかのようなリプライは、地獄の様相を成しているという他ない。
Q「運営はどういうつもり?」A「仕事してるだけ」
過去のブロマガを上げ続けていることを批判している人がいるが、あれは元々「過去のブロマガを再掲する」という告知をしていたので、そのとおりに行っているだけである。ここで「今の状況を見て、過去のブロマガの掲載をやめます」とか「メンバーと話し合いできなかったので、一瞬でみんな消します」とか、そんなことはできない。個人のX(Twitter)やサイトとは違うのである。
もっといえば「友達のあつまり」と「ルールやマナーがあって集まった会社や組織」は違う。で、「我々だ」は「知り合いのあつまり→組織→会社+組織」になったものだし、「まじめにヤバシティ」は「知り合いのあつまり→組織→知り合いのあつまり」なので、何から何までちがうのである。
分かりやすくいえば「大人に聞いてからやってね」と言われているようなのが「会社・組織」であり、「自分たちで決めていいよ」になっているのが「友達のあつまり」である。といっても、「友達みんなでやる」なら、やっぱり友達で話し合うと思うけど(みんなで遊びたい時は、いつどこで遊ぶか、ちゃんと話し合って決めるものだ)
ちょっとでも「会社」と契約して仕事をしたら分かることである。
見かけてモヤモヤしたことに対する独り言
Q.著作権の譲渡など一般的な契約ではありえないと思うのですが
A.私は時々「著作物」を作り、「会社」に譲渡するようなお仕事をしておりますが、至ってよくあることです。ただ、著作権の全てを譲渡することは法律的に不可能です。「著作権の譲渡」自体は珍しくもなんともないのだけは分かってください。たとえば、サンリオキャラクターは色んな絵描きさんが描いているのが明らかですが (C)San-X となっています。「著作物をSan-Xが全部管理している」ということです。
Q.「(C)◯◯の主役は我々だ!」をやろうとしていた?
A.そうだと私は思っています。会社に対する不信感は個々の感情なので言及しませんが、著作権の譲渡自体に対して不満を出すのは少々理解しかねます。正直、「一旦ここで」コミュニティの文章を見た限りでは「キャラクター商売においてよくある内容」に対して「過度に個人の権限を振り回そうとしたので交渉がうまくいかなかった」という風にしか見えません。
より深く勝手に考えるなら「この場合はどうか、こうしたい時はどうか」といった詳細について話し合ったのか分かりません。「自分たちの中で、勝手に悪い想像をたくさんして、自分たちのやりたいことや考えだけを訴えて、会社・組織がどうしたいのか、なんでそれをやりたいかをちゃんと聞いて話し合ったように見えない」のです。実際そういう形で決裂するのはよくあります。「制服を着ているときは学校の生徒として、恥ずかしくない動きをしましょう」「授業中にゲームをしたりしないようにしましょう」というようなルールの中で「制服があっても俺達は個人だから、家の中みたいに、好きなときにゲームする」というような主張をすれば、通りません。
別に詳細は知りたくありません。というか、本来は知れるはずがありません。「守秘義務」がちゃんと存在してるなら、何も話せないはずだからです。今のところ「権利者のほうが守秘義務を守ってる」んですよね。
権利者側は「会社」らしいので、それは、そうです。個人で活動しているのと違って、しっかり契約があり、破れば社会的損失が彼らの比べ物にはなりません。家族のためにお金を稼いでいる人もいるでしょうから、彼らのように自由に言い返したりはできないのは想像ができます。
陰口を叩きあう女子グループのような
「Aちゃんにいじめられた!」と言えば、多くの人が「Aちゃん」をひどいと思いこみます。あとから「Aちゃん」が何を言ったとしても「Bちゃんは泣いてるし、いじめられたって言ってる!だから、Aちゃんが悪い!」と言って聞こうとしません。そしてAちゃんは、みんなにヨシヨシと愛されて、Bちゃんは何を言っても、何をしても嫌われるようになります。
よくある「くだらない」シーンです。
私はずっと思っています。
「諸般の事情で、9月からグループとしての活動ができなくなった。ただ、活動を続けていきたい気持ちはある。グループとしても、できれば活動したいので話し合いをしています。今言えるのはそれだけです。いろいろと想像することや、不安になることもあると思いますが、信じて待っていてもらえると嬉しいです」
というように「権利者のせいにしない言い方」はできたはずです。
そもそも「権利者のせい」というのを押し出して「権利者と話し合う」というのは、変な話に聞こえます。睨みつけながら話し合うような人と、しっかり話し合えるかといえば、話し合えないと思うので。むしろ「こんなに暴れる人は、やっぱり自由にさせられない」と思うような気が私はしてしまいますね。
追記:簡単に言えば「元メンバーが権利者を信用できないように、権利者も元メンバーを信用できない状況だったのではないか」という感覚
「文句」を言っているのではない
私の「感想・懸念」を「文句」と決めつける人がいました。
さて。
ASDである私は、他人を怒らせないのが苦手。
言葉の使い方や意味にすごくこだわりがある。
というのを前提でお話しますが、今回の記事も含めて、私は「文句」を一度も言っていません。
国語辞書を引きましょう。
「文句」とは「文章の中の語句、または歌詞」「言い分。苦情。」の意味があります。多くの人は「苦情」の意味で「文句」を使うでしょう。
では、私の発言は「苦情」かどうかを考えてみましょう。
また国語辞書を引きます。
「苦情」とは「迷惑や害悪を受けたことに対する不平不満」というような意味があります。気になる言葉が4つも出てきました。
「迷惑」…他人のことで いやな目にあうこと。
「害悪」…害になるような悪いこと。
「不平」…納得できないこと。
「不満」…物足りないと思うこと。
では「感想・懸念」は何でしょうか。
「感想」…ある物事について心に出てきた考えや感じ。所感。
「懸念」…気になって不安になること。心配。
「感想・懸念」と「文句」の違いはなんでしょうか?
感情ですね。目に見えないのに、他人から分かると思い込まれて、決めつけられたりする、すごくヤッカイなものです。
私の「感想・懸念(感じたことや心配)」を「文句(迷惑や害をかぶっていやな目にあった苦情)」と思っている人は、「ユウさんは、我々だの元メンバーに迷惑をかけられたと思っている」と決めつけているのですね。
……言葉の使い方だけを見るなら、そういうことになります。
正直どうでもいいです。決めつけられるのはよくあることなので。ASDって「他人のことを考えない」って決めつけられがちなんですよね。「頭が悪い」とも決めつけられたりしますし。発達障害にもいろいろあって、みんなが頭が悪いわけではないんですけどね……。私は「IQ」がデコボコしてはいますが、それは「得意なことと苦手なことがハッキリしている」だけで頭が悪いわけではないんですよ。「IQ」を頭の良さと誤解させるのはやめてほしいですね。
感情は目に見えないし、分からないし、だからどうでもいい(けれど、他の人達にはどうでもよくない)
はあ。少し落ちつきました。疲れてはいますが。頭が痛いですね。
感情は目に見えません。「それっぽいもの」を出すことはみんなできます。私だってここで「悲しい」とか「辛い」とか「嫌だ」とか言えば、他のひとは「悲しい」「辛い」「嫌だ」という感情があるものとして扱ってくれるでしょう。私の顔も、人生も、何も知らない人がそう思ってくれるでしょう。
これは事実です。どうしようもない事実です。
「感情」は目に見えず、理解できない。なのに「理解できる」と思われているし、「見抜ける」と思いこんでいる人もいます。彼らは感情が理解できるのではありません。心が見抜けるのではありません。「たまたま感情を当てられたことがある」か「感情を当てたと思いこんでいる」だけです。
「共感」は「分かった気がする」「分かってもらった気がする」だけです。
お互いに心地よく「思いこみ」をしているだけです。
たまたま推理が当たって、一緒の答えになって、喜んでいるだけです。
それが悪いとは言いません。「同じことを同じに考えたり言ったりする」と、ちょっと面白くて嬉しいのは、よくあることです。
ただ「それはただの現象(出来事)だ」ということを、私は言っています。
理解してもらえない気がするので、ここまでにします。
私に感情がないわけではありません。ただ、他の人とはズレているのだと思います。「ただの現象」を多くの人は「冷たいもの」と感じるみたいです。
私にとって「ただの現象」は「ただの現象」です。そこに温度感はありません。たとえるなら、私の心はいつも鈍くて、他の人が「あたたかい」とか「つめたい」とか感じているものを、同じように感じることができません。
他の人が大声で笑うとき、私はほんのり笑うことがあります。他の人が小さな声で笑ったり、ほほえんだりするとき、私は心の中で笑ってしまうことがあります。そして「楽しくない?」と聞かれてしまう。
とても申し訳ない。
でも、ほとんどの人は私の「申し訳ない」があるとは思ってくれません。見抜いてくれないし、感じてくれません。「楽しくなさそうで」「不満があって」「怒っている」ように言います。私が「困っている」とか「申し訳なく思っている」とか、そう言ってくれた人は、数えるほどしかいません。
今も、きっと、理解されていません。そう感じてきたので、ここで筆を置きます。私はただ、落ち着こうとして書き始め、落ちつき、そして。誰にも理解してもらえないだろうな、と改めて思っただけです。
そこにあるのは"それ"だけです。他の誰も、何の感情も、関係ありません。
これを「嘘だ」と思われても、私は何も証明できません。