『庭の話』

ure
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宇野 常寛さんの『庭の話』を読んだ。

SNS からはなれて、ひとりの時間を増やすことの大切さを思い出させてくれる本。

語りたいことはたくさんあるけれど、とくに心に残った「庭」と「制作」について書き留めておきたい。


本書では、自然と人が集まりながらも "共同体がつくられない" 場所のことを「庭」と呼ぶ。

無敵の人やコミュニケーションが得意ではない人にとって、ほんとうに必要なのは、何者でもない自分がただ存在することが「許される」場所なのではないか。

それは、仲間がいなくてもこの社会に居場所があると思わせてくれる、ひとりでいても寂しくない場所になる。

「庭」では、人よりも事物とのコミュニケーションが優先される。著者は「庭」で起きた新しい事物との出会いが「制作」につながると考える。


評価や承認に依存せず、世界と関わる回路がある。それが「制作」だという。

「制作」によって、人ではなく事物を通して世界と関わることができる。

「制作」に従事することで共同体や他の誰かから承認される快楽も、市場からの評価によってゲームの攻略と同様の達成感を得る快楽も確実に存在する。

しかし0から1を生むこと、自分がつくらなければ世界に発生しないものを生み出したときの快楽はそのどれとも違う。もっと言ってしまえば、自分がほしいものを他の誰もつくってくれないので自分でつくるしかない、という思いを実現したときの快楽は他のもので代替できない。

当然、それは自分のなかの理想の制作物にはならず、できあがってからここはこうすればよかった、やっぱりこうしておくべきだったと後悔ばかりが湧き上がってくる。その後悔が次の「制作」に人間を動機づける。この「制作」の快楽は、覚えるハードルが高いが一度覚えるとなかなか手放せない中毒性がある。

—『庭の話』宇野 常寛 著

では、どういうときに「制作」に向かうための回路ができあがるのか。

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』では、いつまでも満足することのない「消費」のかわりに「浪費」をしよう、という話があった。

「浪費」に失敗して、事物をどれだけ受け止めても満足できなくなったときに「制作」がはじまるという。

それはまず、ただ「受け止める」主体として出発する。ラーメンがおいしいとか、景色が美しいとか、そこからはじまる。そして人間の欲望は一定の確率で強くなる。ラーメン中毒になり、写真を撮ることにハマり、ランナーズ・ハイになり、玩具収集を二十年以上続けて「もはや新作以外にほしいアイテムはない」段階にたどり着いてしまったりする。この状態が加速すると、人間は「どうしてもほしいがまだ世界には存在しないもの」を求めて(自分でつくるしかなくなり)「制作」をはじめる。

—『庭の話』宇野 常寛 著


本書の趣旨からは外れるけれど、この本を読んで「制作」は無理をして行うものでもないと思うようになった。

「どうしてもほしいがまだ世界には存在しないもの」を求めることがきっかけになるのであれば「制作」ができないのは、満足しているということかもしれない。

おいしいものを食べたいからトーストを焼くとか、きれいな空間にいたいから部屋を片付けるとか、ただ生活することも「制作」なのかもしれない。


「庭」の概念が広まって、「庭」的な場所が増えたらうれしい。でも、管理の大変さを考えると「庭」が増えることはないかも…とも思う。

漫画『1日外出録ハンチョウ』で、職質されないためのアイテムを考える会があった。犬とかカルディの白いトートバッグとか。そういう周りを「庭化」させるためのテクニックも考えたい。

@ure
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