反差別やってるとよく目にする光景ではありますが、最近またそういうのを見かけてウンザリしました。今回はヘイターからではなく反差別思想の人から反差別思想の人に向けてのものだったのでより一層ゲンナリしたのと、バッシングにあってた方はシス女性だったんですが、その前後の時期に似たような発言をしていたシス男性たちはバッシングされるどころかいいね多数だったのもあってメンタル激荒れでした。
上記の状況からミソジニーを感じましたが、今回の件はそれ単体の問題ではなさそうだなとも思ってます。これまで丁寧な語り口だった人が言葉を強めることや、「Twitter的なもの」を憎むあまり、その憎悪が旧Twitterをメインに使っている個人に向けられてしまっている感じもしました。(これは日ごろの観測範囲の雰囲気とその人の属性から割り出した個人的な予測なので、的外れな可能性も大いにありますが)
いつもここに書いているように自分も旧Twitterには苦い思い出がたくさんありますし、未だに旧Twitterメインに使っている反差別思想の人には心底呆れ返っていますが、それを特定個人にぶつけるのは違うなと思っているのでそこは理性で押し込めています。もちろんミソジニーからも未だ自由ではない自覚があります。だからこそ、常に自分の言葉・行動をフィルターにかけてセルフチェックする毎日です。
恐らく今回バッシングしていた方々は自分が言いやすそうな人を狙っているつもりはないのでしょう。でも、客観的に見てそういう流れが構築されていたことは事実としてあるので、改めて己の中で働いてしまっているかもしれないバイアスについて考えてみてほしいですね……
バッシングされていた方の発言が全面的に正しいとは自分も思いません。が、似たような言動はこれまでにも様々なところで見られたのに、何の前提もなくいきなり大勢での強めの反論が始まったところにバイアスを感じずにはいられませんでした。
少し時間をあけて似たような内容の発言をしたA、B、Cの人物がいた時、AとBがなあなあのままスルーされてCの人物の時に周囲のストレスが爆発し、AとBに向けるべきだった怒りやエネルギーまでもがすべてCにおっ被せられる…… あるいは、最初に発言したA、最後に発言したCにはそれほど批判は集まらなかったのに、マイノリティ属性を明かしているBにだけ過剰なバッシングがなされる…… そんな光景を繰り返し見すぎて、人間不信がますます加速していきます。
人間という愚かで学びのない生き物は元よりそういう卑怯な面があるものだと思うので、時折そういう流れが起きてしまうこと自体は仕方がないのかもしれません。ですが、そのことに対して気づかない、あるいは見て見ぬふりをする人たちの多さに対しては、自分は絶望感を覚えてしまいます。
感受性が強すぎたり過敏な状態で生きるには、人間社会は辛すぎますね。
自分自身の経験に基づいて書いた懺悔編も読んでいただけると幸いです。