龍也をご存じか?
ターツタツタツタツタツタツタツターツゥーターツゥー♪
……龍也の名前で全力で遊んだことを、歌人木下龍也様および関係者の皆様に心よりお詫び申し上げます。
龍也とは、いま日本でもっとも注目の歌人、木下龍也氏のことである(ここからは龍也と呼ばせてもらう。だっていつもそう呼んでるから)。情熱大陸でも取材されるほどなので、ご存じの方も多いはずだ。
何を隠そう、私は龍也が好きだ。ファンだ。彼の歌集を開くだけで「龍也……くうっ……」と、強めの酒をキメたときのようなうめき声が出るほど好きだ。そして龍也が好きなのは私だけではない。なんとびっくり(でもないか)おもしれー女もだ。彼女もまた「ああ……龍也ぁ……」と嗚咽を漏らしながら龍也の歌にのめり込んでいる。知らんけど。私たちはゆくゆくダンスユニットを組み、踊りながら人生の荒波を越えていくと決めているのだが、そのユニット名は「龍也の女」だ。もちろんおもしれー女の許可は取っていない。だが彼女は大体のことはおもしろがるのでたぶん大丈夫だろう。だめだったら「オールアラウンド龍也」にしよう。それでもだめなら「龍也のつむじ、ここにあります」とかはどうだろうか。とにかく、私たちはそれぐらい龍也が好きなのだ。
実は私は龍也と街ですれ違うという、一大ビッグイベントに遭遇したことがある。龍也、あのときすれ違うあなたをガン見した失礼極まりない女は私です。オタクは推しが目の前に現れると挙動不審になるものなのです。言い訳です。申し訳ありません。
生龍也の歌人オーラはそれはもう美しかった。夜の街をひとり歩く龍也のまっすぐ伸びた眼差しは、荻窪メリーゴーランドの再現のようで、美しさと静かな狂気のあわいにあった。全身から焼肉と酒のにおいを発散させていた私の穢れを浄化してしまうほど、龍也は神がかっていた。もうね、興奮しました。SP6人に囲まれてアルタを歩くタモリさんを見たときぐらい興奮しました。山田くーん! 龍也に冠番組持ってきて! 「詠んでいいとも!」と歩道の中心で叫びました。心のなかで。それぐらい龍也との邂逅は奇跡だった。
龍也をひと言で表すなら、「住所一定、有職のスナフキン」だ。スナフキンだってムーミン谷に住所はあるかもしれないが、龍也の方がひとつの場所に根を張って生きてるもんね! オタクは推しのことになるとどうでもいい張り合いを始めるものです。それこそどうでもいいとして、龍也とスナフキンは似ている。風貌ではなく、感覚が(超個人的見解です)。スナフキンには自分の世界がある。他人に近づきすぎることもなく、かといって拒絶するわけでもない。誰からも好かれて信頼されているけど、自分は他人に依存しない。たまに鋭いことを言うし、どうでもいいことも言う。気が向けばハーモニカを吹き、気が乗らなければ寝て過ごす。野原であそぶ風のように掴みどころがない。それがスナフキンだ。そして龍也もそうなのだ。龍也の歌は決して私と並走してくれない。包み込むような歌、愛にあふれた歌、優しい歌。一見すると隣に立って手をつないでくれるような歌を詠んでいても、龍也はそこにはいないし読み手に依存しない。龍也は常に向こう側にある龍也の世界にいる。スナフキンのように飄々としていて、決して一緒に歩くための手は差し伸べてくれない。龍也が差し伸べる手は、こちら側にいる私の感情を揺さぶるための手なのだから。
龍也の歌は美しくて気高く、シンプルで強烈だ。達観した仙人のようであり無垢な少年のようでもある。スナフキンも龍也も、私とは見えている世界が違う。だから惹かれる。引き込まれる。だれでも真似できそうで、だれにも真似ができない。それがスナフキンの生き方であり、龍也の詠む歌の魅力なのだ。
月に一度、私はおもしれー女と短歌会を開催している。自作の短歌を披露して、あとはひたすらフリートークに徹するという、疲れた女たちのガス抜きの場だ。そこで「推し短歌」を発表するコーナーがあるのだが、冒頭でも書いたとおり、私たちは常にうめいている。今年は「オールアラウンドユー」から推し短歌を選んでいて、毎回「龍也ぁ……くぅ……龍也……なんなんだ龍也ぁ……」とひたすら悶えている。文字にすると怪しさ満点だが、本人たちはただただ龍也の歌にやられているだけなのだ。それだけ龍也の歌には力がある。
龍也、生まれてくれてありがとう。短歌を詠んでくれてありがとう。これからも生きて、詠んで、狂わせて、龍也。
どうですか、あなたも龍也の女になりませんか。
とりあえず「あなたのための短歌集」から始めてみるといい。百首のなかに、あなたの心を揺さぶる歌が必ずあるから。