とても共感した。
なんでもメタ認知すればいいというものではないが、自分がいまのインターネットのアンチテーゼとしての「しずかさ」になにを期待しているかを考えてみた。
しずかさの逆はうるささだとすると、何がうるさいのか、を考えた。
場が「うるさい」
自分のコンテンツの上やら右やらに、自分以外のコンテンツがド派手にでてくるのがうるさい。広告とか、プラットフォームが用意したディスカバリー機能によって推薦されたコンテンツがそれに当たる。ここは私の場所なのに、と思われてるんじゃないかな。
表現が「うるさい」
耳目を集めるコンテンツが評価されるので、表現が過度に強くてうるさい。言葉が強すぎたり、画が強すぎる。
多くの耳目を集めることがプラットフォームに利益をもたらすので、強い表現はより評価助長されてしまう。
反応が「うるさい」
感想を述べるのは自由だが、コメント自体もプラットフォームの評価の対象なので、優しい共感よりも強い否定は利益に繋がり評価されやすい。コンテンツへの敬意はどこかへ飛んでいってしまう。
ビジネス依存
3つあげたが、どれも強度だけじゃなく量もうるささにつながると思う。どれだけポジティブな反応であっても、旧Twitter時代にバズによって鳴り止まないほどの通知をもらうのはとても最悪な体験だった。
「しずかなインターネット」は少し触っただけで、こういった「うるささ」と思考格闘して作られたことが感じられたので、強い共感を感じたように思う。
ただふつうのメディアは株式会社によって資本主義の論理で運営されると、どうやったって「うるささ」は排除できないとも思う。ビジネスモデルがなんであれ、ビジネスを最大化するには人の活動量を大きくする方向にふりむけなければいけないので、最終的にはうるささにつながってしまう。どんな崇高なビジョンも、最期はビジネスモデルに依存して変化を求められる
「しずかなインターネット」がしずかなインターネットであり続けるためには、普通の企業のように運営していては難しいのだろうと思うし、個人の運営でも難しいのだろうな、と思う。資本主義では解決できないインターネット上の問題だと思っている。
最終的には非営利法人のような意義・寄付・説明責任で回るハコに運営を映すことができれば、今の姿を保ち長く運営できるサービスになるのかな、とか考えてみた。おもしろい。