長くなってきた&解決編的な章に入ったので分割。
基礎理論編はこちら。
第5章:暇と退屈の哲学
マルティン・ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」に挑戦する.
哲学とは何か?
18世紀ドイツロマン派のノヴァーリスの定義を採用する.
哲学とは本来郷愁である.様々な場所にいながらも,家にいるようにいたい,そう願う気持ちが哲学なのだ.
これを踏まえてハイデッガーが言いたいことは以下である.
ある哲学の概念についてどんなに多くの知識を持っていようとも,その概念について問うことで心を揺さぶられたり,心が捉えられる経験がないならば,その概念を理解したことにはならない.
一見するとノヴァーリスの定義を選んだ理由は恣意的にも見えるが,ハイデッガーは,ノヴァーリスの定義に「心を揺さぶられた」からこそ,この定義を採用していると言える.
退屈を二つに分ける
一つ目は「何かによって退屈させられること」,二つ目は「何かに際して退屈すること」.前者を退屈の第一形式,後者を第二形式という.
退屈の第一形式
ハイデッガーはこんな例を挙げて説明する.
ある片田舎のローカル線の,無趣味な駅舎で電車を待っている.この地域に魅力はない.次の列車は4時間後に来る.本を一冊持ってはいるが,読む気分ではない.時計を見ると,やっと15分過ぎたところだ.街道へ出てみて,並木の数を数えてもう一度時計を見ると,5分経った.歩くのも飽きたので,石に座って地面に絵を描く.やっと半時間経った...
こういうときを「退屈を放置していると台頭してくる"空虚放置"に,ぐずついている時間に引き留められる」と表現している.空虚放置とは,やることがなくてむなしい状態に置かれることで,そういう状態に人は耐えられないから,やるべき仕事(木を数えるとか)を探す.
でも空虚とは本当だろうか?実際には駅舎もあるし並木もある.つまり空虚放置とは本当の意味で何もないことを意味しない."物が私たちに何も提供してくれない"ことを意味する.でも実際には,駅舎は雨風をしのぐとかの機能を提供している.私が本当に欲しくて彼らが提供してくれていないのは,”電車”である.
つまるところ,退屈の第一形式の結論は以下になる.
目の前の物が,我々の欲しいものを提供してくれない.そのために「空虚放置」され,ぐずつく時間による「引き留め」が発生する.
これは色々な例にあてはめられる.
例えば結論の分かり切っている会議においては,実りある発言や提案のような,我々の期待するものが提供されない.故に会議室に「引き留め」られ,空虚放置される.
付け加えて,ハイデッガーは「モノには特有の時間がある」という.
例えば駅舎に「特有の時間」とは,駅舎の理想的時間である.それはつまり,「電車の発車直前」で,その時間にタイミングよく来て乗り込めた人は,「駅舎の理想的時間にうまく適合した」のである.
退屈の第二形式
何かに際して退屈すること.第一形式と違うのは,何が人を退屈させているのかが明確でないということ.
ハイデッガーはパーティの例を挙げたけど,いまいちピンとこなかった(ハイデッガー自身,実例を挙げるのは困難であると述べている).
一応書いておくと,"楽しいパーティが終わった後,夕方中断した仕事にちょっと目を通すと,「私は今晩,この招待に際し退屈していたのだ」と気づくような退屈"と言っている.
後の章も読んで自分の経験の中の「第二形式の退屈」はなんだろう,と思ったとき,YouTube Shortsを見ているときだなぁと思った.Shorts自体は面白いし,どこにも退屈な要素はない.でも,それで2時間くらい過ぎた後,あ,やることあったよなぁ.退屈だったんだなぁと思う瞬間がある.あれのことかなぁ...?
第一形式とは違い,空虚は私たちの中に生育してくる.また,「時間の引き留め」に関しては,第一形式のようにぐずつき足を引っ張ることはない.パーティの時間自体は楽しいからだ.なので,時間からは放任されている.しかし,放免されてはいない.第一形式では退屈の対象(到着しない列車)が解消すれば退屈からも放免されたが,第二形式では無言の圧力のように控えめに影響を及ぼしてくるから,逃げ切るのが難しい.
退屈と暇の類型(※このまとめでは割愛している)を思い出すと,第一形式は"暇であって退屈している",第二形式はファイトクラブの例で説明された,"暇ではないが退屈している"に相当する.
退屈の第三形式
第一,第二形式について注意すべきなのは,ハイデッガーは「こんな種類の退屈があるよ,あんなのもあるよ」と言っているわけではないこと.第二形式は,第一形式の発展形のようなもの.具体的には,「より深い所から」立ち上る退屈としている.そして,一番深い根源的な退屈が第三形式.
今までとは打って変わって,ただ一文で表現される.
なんとなく退屈だ.
これは一番深い退屈であるがゆえに,状況に関係なく現れる(だから例を挙げて説明されていない).
第三形式では気晴らしは力を失う.
第一では人は退屈をかき消そうと気晴らしの努力をする.第二では直面せず,ただ浸っている.そして第三形式では「退屈に耳を傾けることを強制される」.
ハイデッガーはこう言うのである.第三形式の退屈は心の奥底から響いてくる声だから,耳を傾けないわけにはいかない.
そしてこうも言う.第三形式における「引き留め」とは,「可能性の先端部に括り付けられ,そこに目を向けることを余儀なくされること」だそうだ.
難しい表現してるけど,要は無視できない,気晴らしも許されない退屈に耳を傾けると,自分自身に目を向けることを強制される.そうすることで,自分自身の可能性に気づくことができる.ということらしい.
正直,ハイデッガーの説明はあんまりわからない.でも,結論は納得いくものが出てきたので,それを見てみる.
ハイデッガーの退屈論の結論
第三形式の退屈で,人は自身の可能性に目を向けることを強制される.その可能性とは?自由である.言い換えると,私たちは自由であるがゆえに退屈する.この本の以前の議論も交えると,
人間は定住生活を送るようになって,狩猟採集生活ではフル活用していた時間や能力を余らせるようになった(自由が生まれた).そして,その自由があるがゆえに退屈も生まれた.
ということだ.そして,可能性とは自由であること,と述べられた.でも,現時点では可能性にとどまっている.ではそれをどう実現するか?
ハイデッガーの結論は,「決断すること」だ.つまり,
退屈する人間には自由があるのだから,決断によってその自由を発揮せよ.退屈はお前に自由を与えている.だから,決断せよ
これが,ハイデッガーの結論である.残り2章で,この退屈論を批判的に検討しながら結論へ向かう.
個人的には,この議論には概ね同意できる(残りの章を読み終えると,また違う感想を抱くかもしれないが).
それに,自由があるから退屈する,だからその可能性を実現するために決断せよ,というのはとてもいい指針に感じた.
あ,あと,マンバメンタリティに通じるところがあるなぁと感じた.(※有名なバスケ選手の考え方.毎日を良くするために,すべてのことで努力を積み重ねる,みたいな考え方.筋トレ界隈で出て来がち)
とりあえずは縦動画を見る時間とかの中で,「気晴らしじゃないかこれ?」と思ったら,「決断」しようかな,と思います.