コップの水を口に運びながら、手が少し震えていることに気づいた。綱渡りをしているような感覚に陥ることが時々ある。ほんの少しのズレが起きると、ほんの少し踏み外すと、憂鬱の底に落ちてしまいそうな、そんな感覚だ。「このままやっていけるのか」「この状態が続いて耐えられるのか」という不安で胸がシンシンとする。頭の中が暗く、重くなる。
何か具体的に、物理的に嫌なことが起きた訳ではない。誰かに何かを言われた訳でもないし、仕事で強いストレスがかかる大きな出来事があった訳でもない。でも、心の中が荒れている。「宇宙視点で見れば、大した事ない」と切り替えられたらいいけど、「この心の状態が続けば、耐えられなくなるのでは」という不安や憂鬱が確かにあるのは事実だ。
大丈夫、大丈夫。何度も自分に伝える。目を瞑り、深く息を吸い込んで、お腹が膨らむ感覚、空気の流れが喉を通る感覚に意識を向ける。深呼吸しながら「大丈夫」と唱える。今まで、なんだかんだ乗り越えてきたんだから、大丈夫、大丈夫。人生が好転するような、いや、人生の見え方が好転するような行動を、コツコツと積み上げていけば何とかなる。大丈夫。
「大丈夫だよ」は、無責任で頼りにならない言葉だとたまに聞く。でも、「大丈夫ではない」という現実的な可能性の踏まえて上で、無責任ながら、どうしようもなく「大丈夫だ」という言葉に頼るしかないこともある。そして、今「大丈夫だ」と唱えられた事実が、未来がより大丈夫になる信憑性を高めてくれるような気がする。大丈夫と言うことから大丈夫が始まる。
あるテレビドラマを見ていて、こんなセリフに出会った。「簡単なことにやっと気付いた。目の前の現実から逃げれば、逃げた分だけ居心地の悪いところに落ちていく。問題に向き合う勇気、その面倒を乗り越えられれば、少しずつ解決に向かっていくはずだ」というものだ。
そう、ゆっくりでいいから、問題に向き合っていけば、少しずつ事態は好転していくのではないだろうか。その過程は、辛抱が必要な長いものだろう。パチンと指を鳴らせば、一瞬で全てが解決するのが現実ではない。それでも、簡単ではなく面倒が多いけど、向き合うべきだと自分が信じた問題に向き合っていけば、いずれ解決にたどり着くのだろう。
そして僕は、このセリフに少し付け足したい。それは、逃げてもいいタイミングがあるし、逃げることで居心地の良い場所に辿り着けることもある、ということだ。「現実から逃げるな」と言うが、「その現実は自分が向き合いたいもので、向き合った先に自分のなりたい姿に近付けるかどうか」を見極める方が先だと思う。人にとっての現実と自分にとっての現実は違う。現実から逃げているように見えても、「現実に向き合うために一時的に戦略的撤退を選んだ」「別の現実に向かって方向を変えた」というだけかもしれない。
もう一つ付け足したいのは、問題に向き合うのにも自分に合ったタイミングがあると思う、ということ。「人生は限られているから、今すぐに動き出した方がいい」とよく聞く。しかし、動き出すための体力や勇気が足りなくて、踏み出せないこともある。人生が限られていることは事実だから、もどかしいし焦りたくなるけど、無理に動き出そうとして、遠回りになることもある。今問題に向き合えていなくても、「問題に向き合ってみよう」と思えるタイミングが来るかもしれない。それまでは準備や休息の期間なのかもしれない。もしかしたら「今は問題に向き合わない」という決断したこと自体が実は問題に向き合うということなのかもしれない。
今朝起きたとき、「こんな日々がずっと続くのか」と気分が沈んだ。少し前までは、驚くほど前向きな気分になることもあり、「憂鬱さが少ないときって、こんなに見え方が変わるのか」「この感じだったら、ずっと楽しくやっていけそうだ」と感激するほどだった。しかし、ここ数日、突然ガクンと落ち込みがやってきた。頭の中で悪い物質がずっと分泌されているような感覚がある。自分の欠点ばかりに意識が向き、「ダメな人間だ」と継続的に判定している。
こんな気分を抱えたまま日々生活するのは億劫だ。今すぐにでも解放されたい。でも実際は、今すぐに解放されることはないだろう。「今すぐには変わらない」が、僕にとっての現実だ。そして、淡々と向き合っていかないといけない。自分を180度変えるのは難しくても、「どうにかしたい」と思っている自分がいる。憂鬱を抹消することはできなくても、憂鬱になったときでも「大丈夫だ、気分の波だ」と上手く乗りこなせるようになりたい。だから、「大丈夫だよ」と、無責任で頼りない言葉を自分にかけ続ける。その頼りない言葉を頼ることで、前に進める、そう自己暗示するしかないから。