2024年11月26日(火)

吉田卵白
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僕は控えのベンチに座り、怯えていた。自分の名前が呼ばれたら急いで監督の元へ行き、誰と交代するか聞き、コートに出ないといけない。試合に出られるのは喜ばしい事のはずなのに、監督が僕の名前を呼ばない事を密かに望んでいた。試合に出て、失敗するのが怖かった。怒鳴られるのが怖かった。

目を覚まし、今の情景が夢だったと分かる。少しの間体を起こさず、そのまま天井と自分の間の空間を眺めていた。夢から醒めても、怯えた心の感覚は残っていた。緊張や不安感が胸に残り、いい気分の寝起きではなかった。

部活の夢を見る時、夢の中での僕はいつも臆病風に吹かれている。試合直前で靴紐が上手く結べず遅れそうになる。コート上で不安や重圧感に襲われ試合に集中できていない。そういう、上手くいっていない場面の中にいる、ビクビクしている自分に焦点が当たった夢ばかりを見る。「大事な局面で得点を取る」「試合に勝利して喝采を浴びる」みたいな情景は見た覚えがない。

厚い敷布団の上で体を起こす。季節の変わり目のせいもあってか、最近頭や体が少し気怠い。そういえば今日は、気圧の変化が激しくなると言ってたような。気怠さや憂鬱と共に起床し、週末や給料日まで耐えて待つ、この反復からいつか脱却できるのだろうか。変わりのない日々の反復自体が嫌な訳ではない。未来のある時点までただただ耐え忍んでいて、今の過程に専心できていない感覚が、どうも閉塞感を増幅させている。

部活中に怖がる僕が夢で現れた時、いつも考える。怯えやすい自分からは、いつまでも脱却できないのではないかと。世界に変えられる部分と変えられない部分はあるとして、僕の怯懦は変えられない部分ではないかと。「周りの目を全く気にせず、常に萎縮せず立ち向かう」「どう評価されているかに怖気付かず、正しいと信じた方に没頭する」、そんな人にいつか僕もなれるといいなと30代になった今でも思う。

しかし、根っこの部分からガラリと変わるのは難しいのではないだろうか。僕の臆病さは、心身に深く組み込まれたものではないだろうか。だから、諦めて、「どう抗うか」ではなく、「どう受け入れるか、どう付き合うか」に取り組んだ方が、臆病さやそれに対する自意識から来る苦しみが和らぐのではないだろうか。こんな事をああだこうだと悩みながら、「なぜこんな事で悩んでいるのか」と悩みながら、今日も生きる。

@yoshidaranpaku
日記の練習。