感想を書くのが難しい、と思う。
今年6月半ばに上下巻が同時に刊行されて、6月の末に読んで、ずっと感想を書きたい、言葉にしておきたいと思いつつこんな時期になってしまった。その原因には自分の怠惰さもあるのだけど、でもそれだけではなくて、自分のなかでの言葉にしづらさみたいなものもあるんじゃないかと思う。というのは、自分は普段、漫画や短歌や小説などの感想を書くときは具体的なシーンやセリフや単語やキャラクターにズームアップして語ることが多いのだけど、『多聞さんのおかしなともだち』について話そうとするとき、そうしようとならない。もっと全体の、ひと続きのものとしてこの作品を受け取っていて、そうしてそれを自分は言葉にしあぐねているんじゃないかと思う。普段なら小分けにして言葉にしている、あるいは言葉にできるよう切り分けているそれを、そうはできないたっぷりとしたものとしてそのまま抱えて立ち尽くしているような。それでも感じたこと、思ったことはあって、それを言葉にしておきたいとも思うので、普段よりだいぶ拙いなあと思いつつこの文章を書いています。
まず最初に言っておかなくちゃと思うのは、自分は『多聞さんのおかしなともだち』が大好きで、この作品が読めたことやこの作品がこの世界にあることがとても嬉しいということです。『多聞さんのおかしなともだち』が自分の本棚にあることが、誰かの本棚にあることが嬉しい。この文章も、これをきっかけに『多聞さんのおかしなともだち』を手に取ってくれる誰かがいたら嬉しいし、『多聞さんのおかしなともだち』が好きな誰かと頷きあうきっかけになれば嬉しいと思って書いている部分があります。
自分が『多聞さんのおかしなともだち』を手に取ったのは、主人公がアロマンティックの漫画だと聞いたからでした。自分はアロマンティック・クワロマンティックを自認していて、特に昨年からはそれを強く意識するというか、自分のより近い位置に置くようになったので、アロマンティックの主人公がどう描かれているのか、どんな物語なのかが気になりました。
アロマンティック
恋愛の領域でどんな相手にも魅力を感じないという恋愛指向の形。
クワロマンティック
「恋愛の領域で魅力を感じる」ということそのものがわからないという恋愛指向の形。あるいは、恋愛の領域で誰かに惹かれるということが自分にとっては意味を持たないと感じる在り方。
※あくまで自分の理解の範囲での、またこの文章のためのざっくりした説明なので、より詳しく正確に知りたいという方は「クワロマンティック/アロマンティック/アセクシュアル関連文献まとめ」で紹介している文献などを参考にしてみてください。
そうして読んでみて、主人公の内日さんは自分とは似ていないと感じる部分のほうが多かったです。「わかる!」より「そうなんだ」や「そうなの?」のほうが多くて、共感するより理解しようとすることのほうが多かったなと思います。そしてそもそも、キャラクターというより、もう少し体温や生きている存在特有の湿った空気などを感じる印象で(これは内日さんがというより作品全体の、描写と合わせて絵柄からの印象かも)、知らない、けどこの世界にいるどこかの誰かの話を、なぜか知ってしまっているような、そういう感覚がありました。
自分が内日さんに感じた似てなさの一番の側面は性格ですが、もう一つ、“アロマンティックである自分”をめぐる屈託の形も違うなと感じました。内日さんの屈託は、恋愛の領域でどんな相手にも魅力を感じないことそのものにあるのではなくて、「セクシュアルマイノリティの子どもとして自分に求められている(と内日さんが感じている)在り方と実際の形のズレ」にあると自分は感じました。もし、内日さんがセクシュアルマイノリティではない親のもとに生まれていたとしたら、恋愛の領域でどんな相手にも魅力を感じない自分に対しても全然違う考え方や感じ方をしただろうな、と思います(それは果たして内日さんなのだろうかとも思いますが)。
自分は、Aスペクトラムが主人公の物語のうち、その人物が「自分も“ふつう”の人と同じように恋愛をしなければならない」と思い詰めている作品は苦手な傾向にあります。なぜかというと、自分にとっての自分のアロマンティックやクワロマンティックはそういう形をしていないからです。「恋愛をしなくちゃいけないなんてそんなことないじゃん」と思ってしまう。主人公が自分と違ったり遠かったりするからといって必ずしもその作品が苦手になるとは限らないけれど、似ているのかなと思ったのに遠かったらさみしくなるのかもしれません(そしてこれはたぶんそもそもアロマンティックやクワロマンティックが登場する作品が少ないからでもあって、今はそういう登場人物自体が少ないから、恋愛指向が同じというだけで近さを期待してしまうのかなと思います)。
その点、内日さんは自分とは似てはいないなぁと感じる一方で、なぜか遠いとは感じませんでした。内日さんもある意味で「“ふつう”の人と同じように恋愛をしなければならない」という感覚を持っているように見えます。けど、そもそもの前提として、内日さんの「恋愛をするべき」を支えているのは社会的な恋愛規範だけではなく「親がセクシュアルマイノリティであること」でもあって、そこが遠くなさの理由なのかなと思います。そもそも自分と内日さんの境遇が違うんだということ、そして内日さんの屈託の根っこはセクシュアルマイノリティの親の子どもであることに由来しているように見えるから、根本が違うんだからそういうものだよねと納得するような。
感覚としては多聞さんのほうが自分に近いのかもなぁと思うけど、多聞さんはあまりたくさん登場しているわけではないから、本当にそうかは分からないなあとも思います。自分が多聞さんに親近感を覚えるのは、作中で多聞さんが迷うそぶりを見せないからです。なんとなく、生き方というかスタイルみたいなものを手にしている人なのだろうなと思って、自分はそこまで確固としたものを持っているわけではないけれど、“自分はこうで、今後もこうなんだろう”ということがなんとなくもう腹に落ちているので(少なくとも今はそう思っているので)、悩んでいる様子が描かれる内日さんよりは多聞さんのほうに親近感を覚えます。ファッションとか性格とか他の部分は特に似ているとは感じないけれど。
あと、多聞さん、親近感がどうかとは別に、児童書で出会っては心を躍らせていた「あやしい大人」の系譜を感じていて、大人になった今も心がそわつくのを感じます。普段何をしてるのかとかもっと知りたいな。
あやしい大人
はやみねかおる『名探偵夢水清志郎事件ノート』シリーズに登場する「教授」や、同じくはやみねかおる『僕と未来屋の夏』に登場する猫柳さんなどをイメージしています。本名や来歴や生計を立てている術などが不明だったりする、けれど一方で子どもに親しく優しい魅力的な大人たち。
それでいうと『多聞さんのおかしなともだち』のファンタジー要素にも同じように嬉しくなりました。自分にとってファンタジーというジャンルは心の故郷で、妖精や妖怪やおばけや幽霊や魔女が昔も今も好きなので、そうした存在が当たり前のように「いる」と描かれていることに心が躍ります。
あとは、そう、“物語”の扱われ方が印象的で、これはどうしても話しておかなくちゃと思います。自分は物語が大好きです。この文章の初めのほうで「この作品が自分の本棚にあることが、誰かの本棚にあることが嬉しい」という言い方をしたのは、『多聞さんのおかしなともだち』が物語をめぐるお話でもある、という受け取り方をしたからです。
内日さんは小説や映画や漫画など物語にたくさん触れていて、そして物語のなかでようやく自分に似た子どもたちに出会うことができていました。たぶん強い親しみや、それゆえの嬉しさを感じていたんだろうなと思います。そしてここでの“自分に似た”はアロマンティックであることではなく、「レズビアンの子ども」あるいは「セクシュアルマイノリティの子ども」であることを指します。
自分は「物語のなかに自分に似た誰かを探す」感覚はあまり強くない/なかったと思うし、内日さんを見ているとなおさらそう思います。それはそもそもの「仲間がほしい」とか「(自分の周囲に)仲間がいない」という感覚がなかったからこそでもあるのかなと思います。
でも、内日さんの姿を見ていると、物語のなかでAスペクトラムの誰かと出会えたときの嬉しさを強く思い出します。自分は、自分を重ねられる誰かを探す感覚はあまり強くないけれど、Aスペクトラムの物語がこの世界にあることはとても嬉しくて、『多聞さんのおかしなともだち』を手に取ったきっかけもそれでした。その作品があることが、その作品のなかに自分に似た誰かがいることが嬉しい。いないことになっていないのが嬉しいと、どうしたって今の世界ではそう思ってしまいます。そしてその「ある」や「いる」や「いないことになっていない」を感じるとき、翻って(そうだ、普段ってなぜかいないことになってるんだよなあ)を思い出して、内日さんの「ここには自分に似た誰かがいる」という喜びをより強く、二重に受け取る感覚がありました。
それでいうと、
自分は「物語のなかに自分に似た誰かを探す」感覚は強くないけれど、物語に触れる内日さんの姿を見ることで、Aスペクトラムには物語のなかの居場所が多くない/なかったことを思い、この作品のなかには居場所があることを嬉しく思います。そして、自分の本棚と同時に、いま子どもである誰かの本棚のことを思います。子どもたちの本棚にこの作品があって、“自分に似た誰かに物語で出会えない”ことをさみしく思わなくて済むことを嬉しく思うのです。
そして同時に、主人公の内日さんが“かつての子どもで現在の大人”であることを嬉しく思います。この作品に出会えずに大人になった自分が、そうして大人になった内日さんの物語を通じて救われる──というと大袈裟だけど、仲間をほとんど見つけられないなかで大人にならざるを得なかったかつての子ども仲間がいると感じられることで、この本を本棚に置くことのできる大人としての救いというか、今の子どもの本棚にこの本が存在することとは別の嬉しさを受け取りました。子どもの頃出会えなかった「わたしたち」がいて、出会えないまま子ども時代を終えざるを得なかったけど、大人になってようやく出会えたのは手遅れじゃないよみたいな。
これは『多聞さんのおかしなともだち』に自分がヤングアダルトの気配を感じているからこそなのかも、と思います。中高生の頃に夢中になっていた作品の、自分が中高生だった頃の、懐かしい気配を感じて、今の子どもたちにこの作品を読んでほしい、読めて良かったねと思う一方で、自分もその頃にこの作品に出合いたかったと思って、でも主人公の内日さんは(物語冒頭では高校生の姿が描かれているけれど、メインの時間軸では)大人だから、わたしたちにも物語はあると思える。『多聞さんのおかしなともだち』が今を生きる子どもの本棚にあることができて、自分の本棚にあって、この世界の本棚に存在すること、それぞれとても嬉しいです。
あと、そう、内日さんが「そんなこと/…せんで/ええの/なんか/わかってる/それでも(上巻175ページ)」と思い悩んでいたり、“多聞の友達”が「…そんな/当たり前の/こと うちの/お母さん達も/わかってる/それでも──(下巻103ページ)」と語るのに対して「そうだよ、そんなふうに気にしなくてもいいよ」と思いつつ、でも自分も(そんな風に気にしなくていいことはわかってるけど)と気にしてしまうものはあって、その対象は内日さんや“多聞の友達”と自分とで違いはするけど、その「それでも」の感覚を共有する気持ちがありました。分かっちゃいるけど、分かっちゃいても、ままならないことごと。きっと知識を付けることや、誰かからの説得や慰めではどうにもならないだろうなあと思うそれ。
どうにかしようとしてもなかなかどうにもならないだろうなあと感じているからこそ、そのままならなさをままならなさとして内日さんたちが抱えてくれていることがじんわり心強いというか、そうだよねえと頷きたい気持ちになったのかなと思います。
具体的なシーンにズームして感想を書くのが難しいと冒頭で書いたのですが、一つだけ、どうしても好きなシーンのことを話したいので、その話をします。下巻に収録されているepisode 09の話です。
このシーンにいろんな“わたし達”で“彼ら”が出てくるのがとても嬉しかったということです。親のあり方だけでなく“わたし達”自身もいろいろな“わたし達”がいることについて、そうだよねと描かれていることがやっぱり嬉しかったです。
たとえば自分はクワロマンティックでアロマンティックですが、その恋愛指向が同じな誰かがいたとして、それは“そこが同じ”でしかなく、どう暮らしているかや何に悩んでいて何に悩んでいないのかなど、そうした部分は人によっていろいろだということを強く感じています。そしてその“いろいろさ”を知ってもらいたいとも思っています。クワロマンティックやアロマンティックと呼ばれる人たちがいるということだけではなくて、その上でひとりひとり全然違う形を持っているということ。だから『多聞さんのおかしなともだち』のなかでその“いろいろ”に出会えるのが嬉しかったです。だよね、やっぱりそうだよねとも思うし、もうちょっとメタなレベルで「そう描いてくれてありがとう」という気持ちもありました。
初読のとき、“多聞の友達”の「自分で名前がわからない」や「名前を探す」という設定/あり方を「自分のクィア性を名指す名前を探す」ことと重ねて読めるのかな〜と思いながら読んでいたのですが、読み終えた今はそういう理屈で整理するようにはあまり読みたくないなあと思うし、そもそもそうしたクィア性に対して別に名前が必ずしも必要ではないしなあ(この作品もそこの名付けや分類を促そうとするものではないだろうし)……とも思っています。“多聞の友達”を何かの象徴や暗喩と見ることもできそうだけど、それはあくまでできるというだけ、という気分が自分のなかにあります。
ただ「名前/存在を呼ばれないことで自分の輪郭が不鮮明になっていく」というような感覚は、クィア性に限らず普遍的な感覚として実感を重ねられるなぁと思いました。『多聞さんのおかしなともだち』の感想で“対話”がキーワードになっているのをまま見かけるのですが、相互理解という意味合いとは別に、他者からどう認識されているか(を自分でどう把握するか)が自己認識を支える面があるということや、他者との対話を通じて自分の考えやあり方が固まっていく面がある、ということを思います。言葉を使う、文章を書いたりすることはいつだって自分だけでもできるけど、でも、それだと何を話したいのかわからなくなるということもあって、誰かと話すことで「こういうことが話したかったんだ」と思い出すことができたり、それが対話の嬉しい部分でもあると。
とりとめのない話がしたいという気持ち。話したい、聞きたい、言葉にしておきたい。ささいなことをそうしたい。一晩中でもゆっくり、だらだら、慌てることなく。そういう気持ちになる作品でした。
それから、絵が好みなこと、食べ物が美味しそうなこと、台湾の気配を感じること、全部嬉しいです。造本もとっても素敵なので、これから買う人は電子じゃなくて紙で買ってほしいなと思っています。
本当に全然話しきれた気がしないのですが、でも、あと他に何をどう書いたらいいのか書きあぐねてもいて、なのでいったん今回はここまでにしようと思います。今後ずっと、何度も、本棚から手に取って読み返すと思うので、そのときにまた何かを書きたくなったら書きにきます。
ちなみに「Aスペクトラムが出てくる物語」についてはこちらでもあれこれお喋りしているので、もしよろしければどうぞ。