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全6回中の第1回⬇︎
11月28日(木)
この日の概要: 2泊3日の3日目。帰るだけの日。9時、お世話になったあみだ湯を出発する。こえさんが車で近辺を案内してくれる。
●私は聞く係になれない
7時起床。このあと出発するまでのあいだにも色々とあったのだけれど、いい加減長すぎるので、そこは割愛。写真だけ何枚か貼っておく。堀川さんが用意してくれた紅茶をもって、最後にもう一度海を見に行ったときに撮ったものだ。



あみだ湯を出る前に、お世話になった方々にご挨拶がしたかった。でも、みなさん身支度やらなにやらのために方々に散っていたり、まだ寝ているひともいたりで、わざわざ押しかけていくのもなあ……と思い、やめにした。2日ぽっちしか滞在していない、ほぼ通り過ぎてゆくだけの身だ。数日経てば顔も名前も記憶から消えるだろうし挨拶なんて大袈裟だよなと、自虐や卑下でなく、素朴に思った。
でも、と、こえさんの車に乗せてもらい、遠ざかってゆくあみだ湯を眺めながら、考えた。滞在日数は同じぐらいでも、たとえばKさんはすっかり打ち解けていた。Nさんは長期滞在の方だけれど、持ち前の愛嬌できっと初日から馴染んでいたのではないだろうか。私はそうはなれなかった。
話を聞くことならできるかも。その思いに背中を押されて、ここに来た。被災したひと同士では話せないことがよそから来たひとには話せる場合があると聞き、その係になれたらと考えた。だけど、人と関わることが不得手な私に、2日は短すぎた。このひとにならば話してもいいかなと思ってもらうためにも、私自身が踏みこむ勇気を持つためにも、語りたいひとと語りたくないひとや、語りたい話題とそうでない話題を見極められるようになるためにも、もっと時間が必要だった。……と、そんなことをぐだぐだ考えているうちに、窓の外の雰囲気が変わりはじめた。
●"被災地"を撮る
その一帯の風景は、あみだ湯の周囲とはあきらかに様子が違っていた。潰れた家、潰れてはいないが窓ガラスが一枚もない家、そこかしこに積まれた廃材、傾いた石塀……。道路のあちらにもこちらにも深々と刻まれたままの爪痕を眺めることしかできないまま、なんとかしてこれを、11ヶ月経ってもいまだにこの状況であることを、伝えなければと思った。だけど写真を撮ることにはやはり抵抗がある。そのあたりのもどかしさを、こえさんと堀川さんに話してみた。「記録を残すのは大切なことだし、伝えなきゃっていう気持ちもあります。でも、潰れていても誰かの家だと思うと、カメラを向けるのを躊躇ってしまって。泥かきでお邪魔した大谷のお宅でも、けっきょく一枚も撮れなかった。写真なしで、帰ってからどう発信したらいいんだろう……って、悩んでいます」。「見ていってください」。こえさんは静かに言った。「発信とか、しなくても」。はっとした。ものすごく、大切なことを言われた気がした。
見ていってください。その言葉からは、ここが今も大変な状況で、まだまだ外からの力を必要とすることを、知ってほしい、受けとめてほしい、という思いが伝わってきた。意外だった。なぜなら、これまでのこえさんとのやりとりからは、まるで異なる印象を受けていたからだ。
地震のあった1月から今日までのあいだに、こえさんと何度かメールを交換してきた。そのなかでこえさんは、被災の苦労をあまり語らなかった。いや、ぽつ、ぽつと聞かせてはくれていたのだけれど、私の印象により強く残ったのは、それとは別の部分だった。
「家族も含めて無事で、家も潰れていません(近辺ではましなほうです)。避難所への公的支援はほぼなくて、それぞれの自宅から持ち寄ったもので賄っている状態です。七輪で火を焚いて料理したり、みんな逞しく生きています。」
「暖冬なのが救いで、日が出ると暖かいなあとか、星が綺麗だとか思いながら生きています。」
「いつか復活して、もっときれいになった珠洲の風景を見せられればなあと思っています。建物は壊れても海も山も、自然は残っているので。できることなら、そこで生きる人の営みも残ってほしいと思っています。」
どの言葉からもひとびとのしなやかさやたくましさや温かさ、それから慣れ親しんだ土地や自然への愛着が伝わってきて、その向こうにときおり、珠洲(をふくむ能登)が”被災地“としてばかり語られるようになってしまったことへの戸惑いや遣る瀬なさが覗いた。自分が”被災者”と呼ばれることへの違和感について「(被災者という言葉が)いまいち好きではないというか、しっくりこない……」と書かれていたこともある。
だから私は、こう思うようになったのだ。
こえさんが見ているものを、”被災地”というだけではない、生活の場やふるさととしての珠洲の景色を、少しでも近い形で想像できるようになるために、目を凝らしたかった。
(同上)
これがいつのまにか私のなかで形を変え、”被災地”的な側面を忌避する方向へと傾いていたらしい。だけどこれは間違いだった。自分が根本的な部分を見誤っていたことに、ここでようやく気がついた。
原因は、言葉に重きを置きすぎたことだろう。書かれていることをなるべくそのまま受けとめる、書かれていないことを勝手に読みとらない、そこにばかり気を張りつづけるあまり、私は言葉の外側を見ることがへたくそになっていた。書かれた言葉だけがまるごとの心であるはずがない。私のなかで「撮らなければ」と「撮りたくない」がぐちゃぐちゃになっているように、こえさんだってきっと、矛盾や割り切れない思いを抱えている。
「……というおふたりの会話の後ろで、私は思いっきり動画を撮っています!」。後部座席から堀川さんの元気な声が飛んできて、完全に目が覚めた。そうだよ、なにをぼーっとしてんだよ。初日の大谷では私と同じように倒壊した家屋の写真を撮ることを躊躇っていた堀川さんが、いつのまにか葛藤に折り合いをつけて、やるべきことをやっている。私も撮らなきゃ。発信とか、そういうことよりもまず、私が直視するために。今のこの景色を、なるべく長く憶えているために。



「あれが、子どものころ通っていた小学校です」。ぽつり、ぽつり、こえさんが話してくれる。「このあたりはなじみのある場所なのですけれど、すっかり風景が変わって、まったく知らない場所みたいになってしまって……」。返す言葉がないまま、ただ頷く。学校のグラウンドのかなりの部分を、四角い仮設住宅が占めている。

「倒れている」というよりも「潰れている」という状態の家が多いのは、この土地の家屋に特徴的な、瓦屋根のせいも大きいらしい。「瓦は重いので、その重みで一階が潰れてしまうんです」とこえさん。黒い瓦屋根の木造家屋。それがこのあたりの伝統的な住宅だというのは、1日目、空港からの車のなかで教わった。


ブルーシートで覆われた家や窓ガラスや壁の一部を失ったまま傾いている家が次々と流れてゆく。住民とおぼしき歩行者よりも、ヘルメットをかぶって解体作業に勤しむ業者の方のほうが多く目につく。あちらでもこちらでも重機が頑張っている。「解体は、最近になって急速に進んでいます」とこえさんが言う。道路が修復されたことでアクセスが改善し、ようやく作業車両が入れるようになったのだそうだ。*
取り壊されつつある家と、崩れたまま手がつけられていない家が混在するなかに、一軒、今まさに新しく建設中の家があった。珍しい光景であるらしく、こえさんもちょっと驚いた様子で眺めていた。
(*この文章を書いている最中に「珠洲市が1月からの2ヶ月間にわたって雪に不慣れな県外の事業者に対して作業の休止を要請した」というニュースを見た。解体作業が急がれている背景には、こうした事情もあったのかもしれない)



住宅地を抜け、「ボラキャンすず」の拠点となっている鉢ヶ崎オートキャンプ場を通過する。そのさきに、災害ごみの仮置場があった。広大な敷地は走っても走っても果てに辿りつかず、その規模に圧倒される。目の前で巨大な山を築いている「廃材」の大部分がもともとは誰かの家であったことを思い、胸が痛んだ。
(動画:災害ごみ仮置場を、傍らの道路を走る車の中から撮ったもの。「廃材」の山がどこまでも続いている)
これらの家に住んでいたひとたちは、今どこにいるのだろう。またこの地に家を建てるだろうか。その家は黒い瓦の屋根をいただくだろうか。わからない。けれど、薄曇りの空からさすほの白い光を浴びたショベルカーは場違いに厳かで、それを眺めているうちに、この景色には別の側面があることに思い至った。これらの廃材のひとつひとつが、誰かの手で撤去され、また別の誰かの手によってここまで運ばれてきたものだ。つまり、この景色はそのまま、復興が一歩一歩進められている証でもある。対向車線をやってくる車は、ほとんどがトラックだった。近場から遠方まで各地のナンバープレートをつけたトラックたちは、その背に廃材を山と乗せ、粛々と処理場へと運んでいった。

●こえさんの散歩道
車が速度を落とす。ゆるゆると走りながら、こえさんが言った。「これが、散歩の道です」。今年の夏、こえさんと私は「こえさんの窓」と題した文章を共同で書いた。あのときにこえさんが送ってくれた数枚の写真。あれに写っていた場所だと、すぐにわかった。漠然と眺めていた窓の外の景色が、にわかに特別な意味を帯びる。そのなかにふと、見覚えのあるものをみつけた。写真にあった建物だ。一目でわかり、わかったことが、嬉しかった。 ……が、それ以外は想像していたとおり、なんということのない道だった。特に見るものがあるわけでもない、ほんとうに、ただの道。だからこそ「”被災地”の外にいる私たちに見せたい景色はありますか?“」という問いに対してこの写真を送ってくれたこえさんの思いが、改めて胸に迫った。
この散歩道について、私は「こえさんの窓」の最後に、こう書いた。
(略)9月21日、能登半島北部を豪雨が襲った。こえさんや周囲の方々のことが心配で、メールを送った。
23日に返信が届いた。
「我が家は被害はなく、家も仮設住宅も無事でした。しかし見たこともないような景色が広がっていて、びっくりでした」
写真に撮って送ってくれた風景は、今どうなっているのか。 気になったけれど、聞けなかった。
(「こえさんの窓」より)
さらに、今回の「珠洲に行ってきた話」でも、②の冒頭で以下のようなことを書いている。
8月にこえさんからもらった数枚の写真が、心に残っている。「“被災地”の外にいる私たちに見せたい景色はありますか?」という問いかけに応えて送ってくれた写真だ。自宅から仮設住宅への散歩道を撮ったものとのことだったので「今も散歩はしていますか」と聞いてみる。「最近は、あまり。暗くなるのが早いので、家から仮設への移動も車になっていて」。できることなら、あの写真の散歩道をじっさいに見てみたかった。でも、こえさん自身が最近は歩いていないのなら、わざわざ頼むのも違うと思った。そうでなくとも、あなたの生活圏を見せてくださいだなんて、立ち入ったお願いだ。
こえさん本人は意図していなかったかもしれない、というか、おそらくしていなかった。それでもこれは応答だと、私は思った。私がブログに書いた問いを(ひょっとしたら、あの散歩道を見てみたいという、口には出さなかった希望も)空中でキャッチして、そっと返してもらったみたいだ、と。
そうか。応答には、直接言葉を交わすという以外の形もあるのだな。だとしたら、と考える。泥の詰まったバケツの重さ、突然の通行止めによって遠回りを強いられる不便、屋外での皿洗いで冷えきった手、薄曇りの空、銀色の海、青いビニールシートで覆われた堤防、山道で拾われた犬の怯えた吠え声と心をゆるしたひとにだけみせる安らいだ表情、ひとんちで心配になるぐらい無防備にくつろぐよそんちの猫、あみだ湯の休憩所の居心地のよさ、Sさんの賄いのおいしさと楽しさ、近所のひとが差し入れてくれた柚子やサゴシや蟹、その他ここには書ききれなかったたくさんの会話や情景(湯煙のなかで地元のひととちゃんとお湯が出るシャワーの場所を教えあったこと、電気代が厳しいから銭湯がお休みの日はシャワーだけで済ませてねと言われていたのにそれではやっぱり寒かろうからとサウナを温めてもらったこと、ボイラーの炎の熱さと美しさ……)そういったひとつひとつを私がこの体と心で受けとめたことだって、見ようによっては”空中でキャッチした”、と言えるのではないか。そしてそれはたぶん、私のやりたかった「聞くこと」に、かなり近い。
私は私なりのやりかたで、聞く係ができていたのかもしれない。そう結論づけるのは、さすがに虫が良すぎるか。ともあれ、今回はこれでよかったのだと、ようやく思えそうだった。
●白鳥
しばらくの後、どこまでも続く田んぼ沿いを走っていたときのことだ。「ここ、白鳥が来るんですよ」とこえさんが言った。「白鳥! いいですね!」「はい。この時期はしょっちゅう見られるんですけれど……うーん、今日はいませんね……」。白鳥なしでも、じゅうぶんに気持ちのいい風景だった。収穫を終えた冬田が見渡すかぎりひろがっている。これだけ広ければ、白鳥たちの食べる落穂も二番穂もたっぷりとありそうだ。と、ふいにこえさんが声をあげた。「あ、いた! あれです、あの、白いの!」。言われても、すぐにはどれだかわからなかった。堀川さんとふたりで目を凝らし、はるか遠くのほうに、何か白い点が散らばっているのをみつけた。米粒と呼ぶにも小さすぎる、点、点、点が、よくよく見ると動いている……ような気がする。「近づくのは難しいですね……」。こえさんが残念そうに言い、私はあわてて写真を撮った。古いスマートフォンでどれだけズームしたところで、点は点としか写らない。それでもこの瞬間を、こえさんが私たちに白鳥を見せようとしてくれたことを、3人で一生懸命目を凝らしたことを、どうにか形に残したかった。

(おしまい)
以上が、2024年11月26日から28日の3日間にかけて、私が珠洲で見てきた風景だ。できることなら、私が目にしたものをぜんぶそのまま見てほしかった。だけどそれは不可能なので、せめて土地やひとから受けとったものを少しでも共有できればと、この文章を書いた。
元日の大地震から1年が経つが、珠洲をふくむ能登のひとたちは、まだまだ手助けを必要としている。どうかひとりでも多くの方の目や耳や心が向けられますように。そしてそれが、現地のひとたちに届きますように。私も引き続き耳を澄ませます。小さな声にも。言葉以外にも。
能登でお世話になったみなさまに、心からの感謝を申し上げます。あみだ湯で会ったみなさん、堀川さん、そしてこえさん、本当にありがとうございました。また、みなさんに会いにゆきます。
長い長い文章をここまでお読みくださり、ありがとうございました。
あわせてお読みいただきたい文章です。9月の豪雨の直前にこえさんと交わしたメッセージと、こえさんが見せてくれた珠洲の風景。こえさんと相談しながらこの文章を書いたことが後押しのひとつとなり、今回の滞在に辿り着きました。