最後に観たのが幼稚園児くらいの時で、その時もあまり興味を持たなかったのかまったく印象に残っておらず、感覚としては初見。
直前に読んでいた石塚正英『「白雪姫」とフェティシュ信仰』では、ディズニーの「白雪姫」は当時のアメリカ男性にとって都合の良い“理想の女性像”を描くべくグリム童話から改変されたと指摘がありました。1960年代には女性解放運動の中でディズニーの白雪姫は「女性の権利を制約するものだ」と槍玉に上がったこともあるとか。これについては『女から女たちへ──アメリカ女性解放運動レポート』に詳しいそうですが未読。なので「そういうものなのか」と軽く念頭に置く程度にしながら観たところ、まったく異なる印象を受けました。
むしろ同書で述べられていた「アメリカ社会の各界各分野で中堅ないし指導者として実務手腕を発揮して久しかった」ドイツ系移民が求めた「アメリカナイズされたドイツ人社会」の象徴であり、さらに踏み込んで言うならイングランドをルーツに持つウォルト=ディズニーの祖国と母への憧憬が込められたのがこの白雪姫だと、そう感じました。
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冒頭では、継母の妬みでボロを着せられ家事に従事させられています。現代感覚だと虐待です。姫は継母を恨んでも良さそうなのに、笑顔をたたえ、歌を口ずさみながら、希望を抱いて心清く生きています。
いくらなんでもおめでたすぎる。これが男(や姑)にとって都合の良い女像の投影と言われる所以か……と始めは眺めていましたが、小人と出会ってからの姫の姿にそれは大きな誤解だと思い知らされました。
彼女は暗い部屋のベッドに刻まれた名前をすべて覚えており、寝覚めと共に顔を合わせたばかりの7人の小人の特性をすべて見抜いて名前を言い当てる。そして、グリム童話ではただ「この家に置いてほしい」とお願いして小人に「家事をしてくれるなら」と条件を提示されるのに、アメリカで生まれ変わったこの白雪姫は「家事をするからここに匿って」と、見返りを含めて自ら提案するのです。それも既に(森の動物の手伝いがあったとはいえ)成果を出した上でです。
グリム童話の白雪姫は、研究者には結構悪しざまに言われることもあります。
(小人の忠告も聞かず3回も死ぬとか)白雪姫はあまり賢くなかったのではあるまいか
(女王の変装と言葉に騙されて3回も死ぬとか)ひとを見る目がない
──石塚正英『「白雪姫」とフェティシュ信仰』
(最後には后を処刑する白雪姫も、顔だけで姫に執着して女王への残酷な処刑すら是認する王子も、)陰険で似た者同士の二人は案外馬が合って、「死んでないとすればまだ生きていて」何不足なく楽しく暮しているのかもしれない。
──金成陽一『誰が「白雪姫」を誘惑したか』
こういう言説を見るたび「虐待育ちの7歳児に期待しすぎでは」と思ったものです。ディズニーアニメの白雪姫は年頃の10代と思われるのでグリム童話の姫よりは長じていますが、それにしても小人と出会った姫の言動は賢くしたたかだという印象が強い。
さらにディズニーの白雪姫は家事を請け負うだけではなく、歌や踊りなどの文化的活動を小人に教えるのです。小人と踊る姫の姿は優雅で堂に入っていて、この時に気づきました。白雪姫は姫としての教育をきちんと受けている。父王の存在感がゼロなので、恐らく実母の手によるものだ。冒頭に見せた、困難な状況下でも絶やさぬ明るさと希望は、そうした教育の賜物なのだろう、と。
小人に手洗いなど身を清潔にすることを当たり前のように促すこともありました。あのシーンだけ見るとたしかにやんちゃな子供に優しくしつけをする教育ママっぽさがありますが、むしろあれは身を汚しているのが当たり前な小人──炭鉱労働者という言わば“下級市民”“被差別民”に上中流階級の生活習慣を教導する“王侯貴族の娘”を見た方が、姫の小人に対する言動に一貫性が生まれるのです。それは恐らく冒頭で書いた、指導者となったドイツ系アメリカ人の、遅れてやってきた南欧・東欧系移民の労働者への理想的接し方の象徴とも繋がってくるのでしょう。
こうした貴族的振る舞いが「女々しい」とみなされるのも理解はできます。それを体現しているのが“おこりんぼ”です。彼はわかりやすく荒くれ者の男という感じで、白雪姫の振る舞いや主張に「これだから女は」と吐き捨てるし、他の小人が姫に従い手洗いをする時も「そんなことをしているとそのうちリボンやお花で飾られてしまう」、要は「女化させられてしまう」と、大変わかりやすく女性蔑視を示しています。
たしかに、肉体労働者(“下級市民”)にとって頭脳労働者(“上流階級”)は男であっても女性的に見えることでしょう。自分たちが当たり前に身につく筋力も汚れもない。なまっちろい、ほそっちょろい体で身を飾ってばかり。自分の周りにいるそんなやつは女なので、上流階級も女々しく見えると、そういう理論が成り立つんだと思います。そして肉体労働者(“下級市民”)が階級差を否定、あるいは無視したい時、この理論は重宝されます。
けど姫は飲まれないしめげない。「“おこりんぼ”に好かれますように」とお祈りしてるくらいだから、彼の反発はちゃんと感じています。けれど何事もないように、他の小人と同じように、優しく“教導”していく。これは貴族の矜持でしょう。“男らしさ”にこだわる“おこりんぼ”はなかなか素直になれませんが見事に絆されているし、白雪姫に危機が迫っているとわかるや誰より先んじて姫の身を案じて駆けつけています。これも“おこりんぼ”や多くの視聴者が思う姫の“女らしさ”に惚れたというよりは、姫の“貴族らしさ”に心服したと考えたほうが、個人的にはわかりやすかったし納得のいくものもあり、その観点で言えばたしかにディズニーの白雪姫は、豊かになった社会での新秩序の体現者と言えるでしょう。
極めつけが、老婆に化けた女王にリンゴをもらう時の白雪姫の様子です。老婆のことを警戒してるけど失礼なことを言えないと対応に難儀しているのは女の弱さというより貴族の振る舞いに感じたし、何より「アップルパイの方が男は喜ぶよ!」という売り文句には難色を示しているあたり、白雪姫が「男にとって都合の良い女」であるはずがないのです。
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とは言え引っかかるものもあります。白雪姫にとって、対面以前の小人の印象は「母親に適切な教育を施されていないみなし子」だったし、ママ代わりになっている面は否定できません。さらに、グリム童話でもほどんど示されていない姫としての矜持や振る舞いを、なぜ自由社会であるアメリカで見せるようになるのか。この二点に対する疑問の答えは、製作者であるウォルト=ディズニーが握っているように思います。
曰く、ウォルト=ディズニーは厳格な父に体罰を受け、優しい母に昔話を聞かされて育ったそうで。作中の継母に父親を、実母とその愛娘である白雪姫に母親を投影された可能性はあります。
また、ウォルト=ディズニーの両親はイングランドにルーツを持つそうで。これは完全な推測ですが、英国王を戴いていた文化の影響が無意識的にでも白雪姫に及んでいるのではないかと。そう感じるのです。
グリム童話の初版前、エーレンベルク稿では、女王が鏡に尋ねるのは「世界で」でなく「イギリス中で」一番美しい人は誰、というものです。当時のドイツでの物語の中でイギリスは異界に相当する扱いだったようです。つまりドイツで語られていた限り「白雪姫」は非現実の世界における架空の物語として受容されたのでしょうが、イギリスにルーツのある国で、イギリスにルーツのある人によって生まれ変わらされた白雪姫が現実の物語として貴族らしさ、母らしさ、女らしさという“肉”を与えられるのは、なかなかに興味深いものがあります。
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白雪姫は貴族らしさを前面に押し出しますが、貴族らしからぬと感じる一面もあります。超絶恋愛至上主義です。継母にどれだけ虐待されようとも「いつか素敵な人に出会って幸せに暮らす」という願いを支えに健気に生きているし、小人の家で厄介になってもその願いはずっと抱いてます。そのせいで毒リンゴの罠にはまるほどです。
こうした恋愛体質はたしかに新秩序っぽいのかもしれない。身分の釣り合う相手とか、政略とかお見合いとかでなく、自分がこれと思った相手と結ばれる恋愛結婚絶対主義は新しいのでは。その辺りは新国アメリカで生まれた白雪姫らしい点なのかもしれません。
あるいは、グリム童話「白雪姫」はフランス系市民から採録されたそうで。フランス系の昔話古典といえば『ペローの昔ばなし』があります。こちらにはたしか「白雪姫」は採録されていないのですが、「シンデレラ」などで比較するとターゲット層の違いから話の展開がグリム童話よりだいぶソフトです。ついでによく知らない上での偏見ながらフランスって情熱的というか愛を重んじる気風がある気がしておりまして、ディズニーなりに「白雪姫」を“故郷”であるフランス風にアレンジにしたのがあの姿なのかもしれません。そういえばペロー版ではディズニーと同様に白雪姫が「家事をするからこの家に置いて」と自ら見返りも含めたお願いをしていました。
■ 描写解釈──グリム童話と比較しながら
前置きはこれくらいにしてガンガンやってくぞ!
◉ 白雪姫の容姿
髪(目も?)は黒く頬は赤く肌が白いのはグリム童話から連なる白雪姫の特徴。唇が赤いのは頬があまり赤いと違和感が出るかもしれないから追加したか。髪が短いのは『ペンタメローネ』「奴隷娘」で継母に奴隷身分に落とされ髪を切られたのを踏まえているのかも。
◉ 魔法の鏡の説明
「男が封じられており、継母の求めに応じて闇の彼方からやって来て質問に答える」という説明は未見。必要だったか? あるいは継母がそういう呪術をして魔法の鏡を作る魔女なのだと示されていたのかもしれません。女王は魔女の使い魔とされるカラスを飼っていました。
◉ 白い鳩と願いを叶える井戸
たしか「シンデレラ」では亡き実母の魂として白い鳩が登場したような。ボロを着て掃除をさせられている点が「シンデレラ」と共通することを考えると、この白い鳩も白雪姫が亡き実母の見守りの中で育っているからこそ清く美しくいられるのだという描写かもしれない。
明るく前向きな白雪姫は、願いを叶えるという井戸に願いを語ります。昔話では多く井戸は地下の異界と通じる道なので、これもひょっとしたらあの世にいる実母が姫の願いを聞いて力になってくれているという描写かもしれない。なお効果はてきめんで願いの歌が終わらないうちに素敵な王子がやってきます。
◉ 城に逃げ込みバルコニーで面会
「素敵な出会い」を願いつつもいざ叶うとびっくりして城という言わば「親の庇護下」に逃げ込むのは心理的あるあるだろうなと。
ただそれでもバルコニーといういわば“内と外の境界”で面会をし直すのはなるほどうまい。『ロミオとジュリエット』を踏まえてもいるのでしょうか。白雪姫にキスをされた白い鳩が王子の元へ飛んでいきやはりキスするという白鳩間接キスも、二人の仲が亡き実母に承認されたとみなせて良い描写です。
◉ 森は恐ろしいか
継母にどれだけ虐待されても笑顔だった白雪姫が、森に逃げ込むとその暗さと得体の知れなさに泣き伏せるシーンはなかなかに興味深かったです。
森はたしかに異界なのですが、どうもドイツと言えば森という感覚もあるらしく。アメリカに渡った白雪姫はもはや故郷の森深さも忘れてただ怖いと怯えてしまうのだろうか……と眺めていたら「落ち着いたら全然怖くなかった!」と笑顔で森の動物と交流を進めるの、端的に言ってつよい。やはり根は森の娘なのだろうと見なしたいところですが、怖がっていた時は森は暗く、落ち着いたら明るくなっていたことを考えると、光の申し子である白雪姫にとって光届かぬ、すなわち恐れるべき場所などないとかそういう描写なのかもしれない。本作で白雪姫は敬虔なキリスト信仰者として描かれているし、やはり英米文化の申し子として生まれ変わった証と見るべきか。
でも森の動物を手懐けるのも魔女の素養だよなぁ……。
◉ 小人の“教化”
これは我ながらうがった見方なのですが、小人に手洗い≒身の清めを促すのは洗礼≒教化とも見なせるかもしれない。
◉ 代わりの心臓
グリム童話だと野生の猪の子ですが、ディズニーだと家畜化された豚なのが、具体的にどうとは言えないながらも趣深く感じました。狩人じゃなくて城の正規兵だから野生動物でなく家畜から獲ったとかそういうことなんだろうか。
◉ 失われた胸紐と櫛
グリム童話に忠実に胸紐、櫛、毒リンゴなんて段階を踏んだらやはり「姫はアホなんですか?」てなるだろうし映像作品として間が保たないだろうからいきなり毒リンゴで一発アウトになったのは肯けるし、ボロを着ていた賢い姫が胸紐や櫛に釣られるわけもないのでカットするのは正しいのですが、昔話の基本である「3の法則」が失われた以上、ディズニーも「奴隷娘」「リヒルデ」と同じく改変創作物語なのだなという感慨もある。
◉ 求められる処女性と仕掛けられる罠
毒リンゴの呪いを解く方法として「恋人の初めてのキス」が丁寧に用意されます。これは「初めての」というところが肝だと思っています。原語を確認してないので何ともですが、リンゴを食べる前にキス済みだったらリンゴを食べた時点でアウトってことだろうし。バルコニーでの間接キスが活きてきます。
もっと言ってしまうと処女性が求められてるんじゃないかなと。小人が出かける時、白雪姫は小人たちの頭にキスをして見送りますが、“おとぼけ”だけは口へのキスを求め続けます。あれに応じてしまっていたら、姫は王子様のキスで目覚められなくなっていた可能性がある。
実際小人は小人とはいえ男です。“おこりんぼ”が特にそれを体現していて、ひたすら己の男性性を主張し、姫の女性性を厭う。要は異性として見てるんですよ。その証拠とばかりに“おこりんぼ”は姫からの見送りのキスに、額であっても川に落ちるほど高揚するし、姫の危機と知るや誰より先に駆けつける。
7人の異性に囲まれながらも“恋人”を想い“純潔”を守り続けたからこそ、姫はリンゴの呪いを解くことができたのでしょう。この点についてはたしかに「男にとって都合の良い女性像を押し付けられている」とみなされる余地はあるけど、どちらかと言うと(当時の)キリスト教義に則った生活をできているかとかの方が近そうな気がする。
◉ 女王の地下室と地下水路
女王の部屋が地下にあり、魔術で姿を変えた女王が地下水路から舟で外に出ます。部屋でカラスを飼っていることからも研究書では「魔女であることを示す描写」とよく説明されているのですが。地下と水と言えば井戸です。井戸は姫の願いを叶える、亡き実母につながるものだと解しましたが、それを踏まえると女王の領域が地下にあるのも別の解釈が可能になってきます。
亡き実母も、生きる継母も、地下とその水を領域とする同義の存在であり“母”の表と裏のような関係とみなせそうです。姫の願いを叶えて王子に会わせるのも、姫の死を願って毒リンゴを作るのも、根は同じ“呪術”とみなせます。
グリム童話において、初版までは女王は実母しかいなかったのに、第2版以降は実母は姫を産んですぐに死ぬことで善・愛・慈悲を体現する光の存在となり、悪・憎・残酷に象徴される闇の面は継母に託されふたつは分かたれます。ウォルト=ディズニーはそうした構造と変遷を踏まえてふたりの“母”を繋がらせる描写を施したと考えることは可能です。7歳だった白雪姫を年頃の娘に成長させ、ならば小人1人のベッドには収まるはずがないと3人分のベッドを使うように改変できてますし。
はじめ老婆とリンゴには警戒するものの「願いを叶える」と言われたらコロッといってしまうのも、それが実母の領域だから白雪姫が信頼してしまったというのはありそうです。そして実母の領域を嘘であっても示せる継母はやはり実母と根のつながる存在として描かれているとみなした方が据わりが良いように思います。
◉ 雷で死ぬ女王
毒リンゴを食べさせた後の女王の展開はグリム童話から大きく改変されています。小人の家を出るや小人に追われ、逃げた先は崖の上。巨石を落として小人を殺すか少なくとも追跡の手を弱めようとした時に、雷が落ちて足場が崩れて落下死します。
地下を領域とする女王の逃げ先は地下であるべきでしたが、女王は空へ空へと逃げてしまいます。空はキリスト教における神の領域。雷もまた神の権能のひとつとみなされます。そのため、この女王の死は神の罰とみなすことができそうです。
グリム童話では王子と結婚した白雪姫によって熱した鉄の靴を履かされて死にますが、これは神に背く者に課せられた魔女裁判で実際に行なわれた拷問・刑だそうです。魔女裁判は人が神の代行として処罰するものですが、ディズニーでは神そのものが罰することにより、映像化するにははばかりがあるだろう刑死の描写をなくすことに成功しつつ女王の罪と罰をグリム童話以上に明確に、かつ強いものへと変化を遂げさせています。
女王は魔女の領域である森に逃げるのも手だったはずですが、森の動物が白雪姫の味方だから不可能だったのかもしれません。これも善性・光の白雪姫が森を恐れない理由と同じで、この世界に神の光の届かぬ魔女の領域は(地下にしか)ないという表れとも読めて、なるほどキリスト教国でもあるアメリカ産「白雪姫」らしい改変と言えそうです。
◉ 王子のキス
死してなお体は健在な白雪姫は無事に恋人の初めてのキスを得て呪いが解かれますが、グリム童話にはそんな展開はなく、どこから来た発想なのかふしぎです。ロシアでは祭で行われる「葬礼や葬列の模倣」で死者に扮した人に接吻する習俗があったそうで、それを参考にしたのでしょうか。
しかし死者にキスしたらバクテリアに感染して死ぬそうで。描写を見る限り王子は呪いを解く方法と知らずにキスしているようで、いくら初めて会った時に間接キスしかできなかったとはいえ、そしてそのことがずっと頭にあっただろうとはいえ、よく思い切ったことをしたなと、考えていたのですが。
薄暗い話に慣れてしまっている私は思った。こいつ、死ぬつもりだったのでは?
キリスト教では本来は離婚は禁止されておりまして。「死が二人を分かつまで」たったひとりと添い遂げることが求められました。相手が失われたなら己の愛の行き場も失われ、ならば死が二人を分かとうとも私も姫のいるところへ行って今度こそ愛を歌おう、という。
そこまでの覚悟ができなければ死者にキスなどできるはずもなく、となるとこれは離れ離れになっても互いだけを想い続けた白雪姫と王子のふたりだからこそ呪いを解くことのできた愛の物語ということになり、デ、ディズニー版「白雪姫」すごい(絶句)