Xで流れてくる評判があまりに悪く、金と時間をドブに捨てるつもりで、そしてストレスで心身の調子を持ち崩す覚悟で観に行きました。ところがどっこい、1937年自社アニメ版やあらゆる「白雪姫」の要素を盛り込みつつ、現代の価値観に合った、そして現代を生きる人々への指標となり得る、新しいおとぎ話を見せつけてくれました。最高。
1937年アニメ版で育った人の多くはポスターなどを見るだけで違和感を覚えたことでしょう。白雪姫と言えば「雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒い美しい少女」と決まっている。特に雪のような白さは名前にもなっているほど重要な要素のはずなのに、この白雪姫は「白く」なくないか? ならこれはもはや「白雪姫」でも何でもないじゃないか……そんなふうに思った人もいるのではないでしょうか。
手元にある日本語訳グリム童話でも括弧付きではあるものの、「(肌が)雪のように白い娘が生まれた」とあります。けれど元々心優しい母はそんなこと願っていません。
「雪のように白く、血のように赤く、窓わくの木のように黒い子がほしいなあ」
──野村泫 訳『決定版 完訳グリム童話集』
生まれてくる子の何の要素が白く、赤く、黒いことを望むかは限定していません。さらに言えば、グリム童話の初期稿であるエーレンベルク稿では実際に生まれた子の特徴も、どこか白く、赤く、黒いかは書かれていないのです。
それからすぐに雪のように白く、血のように赤く、黒檀のように黒いすばらしくかわいい娘子ができ、その娘子は雪白ちゃんと名付けられた。
──フローチャー美和子 訳『初版以前 グリム・メルヘン集』
もちろん“ポリコレ”の要素はあるのでしょう。現代において「肌の白さは美しさ」なんて言ったら白人至上主義の人種差別者かと一発アウトのはずです。本作もそれを意識していることは、最後の「肌の色で美しさが決まるわけではない」という言葉から伺うことができます。
ならば白雪姫は何が雪のように白いのか。両親は娘の何が雪のように白いことを望んだのか。それは心です。後から気づいたのですが、これは巧い。グリム童話(特に第7版)においても白雪姫は「けがれない心(心臓)」を持っているという描写が散見されるし、1937年アニメ版でも体現されています。本作での「雪のように白い“心”」を望まれ体現していくことは、白雪姫の「白」要素を改変しているように見える一方で実は先例に極めて忠実なのです。
敢えて言うなら、「白い」心が先天的に備わっているのでなく、作品を通じて身につけていくことが本作の独自性でしょうか。しかも具体的な条件が提示されます。勇敢で、公平で、誠実な心、そういうものを持つ“美しい”者になれと父王は願い、ご丁寧に心……ハート型のペンダントにその言葉を刻んで白雪姫に託し、姫も目指していきます。ならば1937年アニメ版の白雪姫のように、素敵な人との結婚を待つだけの“古い女”でいてはいけない。では“男”のように武器を手に戦う強さを見せれば良いのか。それも違う。
困難な状況下でも、怯まず行動する勇気と、他者への思いやりを示す優しさ。その両方を獲得することが本作における白雪姫の課題であり、達成のためのキーパーソンが“王子様”でした。
とはいえこの“王子様”、王子様どころか盗賊と来た。普通なら“悪党風情”の言葉に耳を傾けるべくもないけれど、“公平”な白雪姫は彼の「行動しろ」という言葉に眠っていた心を揺らし、すると鏡は女王の問いに初めて「白雪姫が最も美しい」と答えて、物語は動き出します。
そして盗賊……ジョナサンも、一方的に白雪姫を叱咤するだけじゃない。女王の圧政に厭世的になっていますが、白雪姫の「自分さえ良ければいいという考えではいけない」という言葉に刺激を受けていきます。そうして互いの不足を補い合ったからこそ互いが大切な存在となり、だからこそ毒リンゴを食べても“王子様”のキスで生き返ることができる──で話は終わらず、白雪姫がきっちり城を女王から奪還し、父王の望んだとおりの「美しい心」を持つ立派な統治者となって、国中に平和で豊かな暮らしが戻り「めでたしめでたし」となる。完璧です。
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本作における“改変”はこれに留まりません。留守中の小人の家に上がっても何もせずさっさとベッドで眠る。小人は白雪姫の身の上話を聞くと無条件で匿うことを提案してくれるし、姫は小人にも累が及ぶことを恐れて辞退する。天候が荒れて結局厄介にはなってしまうけど、翌朝の小人たちの素行で荒れ果てた部屋の掃除──の方法を教えながら、対話と融和と協力の大切さを諭す。反対に小人たちが歌と踊りを披露し白雪姫も参加する。森で再会した盗賊一味と城からの追手が戦闘になるも、姫は逃げず、けれど変に参戦するのでなく、追手の撹乱という形で協力する。毒リンゴの呪いを解く条件はアニメ版では「恋人の“初めての”キス」だったけど、本作では単に「真に愛する人のキス」。そして先述したとおり白雪姫は小人の家にいつまでも隠れ住むのを良しとせず、行方不明の父王を探しに出立しようとしていたところに老婆に扮した女王と出会い、ジョナサンが捕まったことを聞かされ、助けに行く前に腹ごなしをとリンゴを差し出され、さらに「皆で分け合うことは良いことだ」という父王の理念を持ち出されてリンゴを食べて死ぬ。ジョナサンは白雪姫を逃がした狩人と協力して脱走し、姫を生き返らせる。その後の展開は上述しました。
印象としては、たしかにアニメ版「白雪姫」とはまったくの別物です。けれど今回の改変はすべて、私にとっては気持ちが良かった。不幸な境遇に塞ぎ込む白雪姫の弱さは人間らしくて共感できた。家主が留守中なのに勝手に掃除をするという越権行為はしない。小人と姫は(7人もいるから反対意見も出たとはいえ)互いの身を気遣い合う。小人の中では特に“博士”と“おとぼけ”が目立ちますが、知性と優しさを重視するようでホッとした。女の姫が家事を負わされるわけではなく男の小人に掃除を指導するのは男女平等社会(ということになってる)現代らしい描写だし、姫の戦闘力が低いのも武力だけで強さを量られるわけじゃなくて良かったし元々軍事力の低かった国の姫らしくてリアリティもある。「初めての」という謎の条件が消されたのも処女性を求められなくなったような印象を受けたし、それでも作中では結局初めてのキスになったのは視聴者への配慮を感じた。女王が毒リンゴの呪いを解ける唯一の人間を捕らえるあたりはちゃんと周到。女王から城を奪還する展開が挿入されるのも、奪還するまでの流れも、女王の結末も、姫がちゃんと統治者として受け入れられるのも文句なし。ジョナサンが王子様でない辺り身分差は問われず、けど城から脱出した時に白馬に乗っていてちゃんと“王子様”してるし、そして顔だけで惚れるわけでなく姫と対話を重ね人格を尊重して心を寄せ合い、それなのに姫とジョナサンがその後どうなったのかはまったく描かれないのも、本当に、本当に気持ちが良かった。
これだけ現代アレンジを施した上で、「白雪姫」の欠かせない要素はしっかり押さえてるのもお見事。雪のように白い“心”、血のように赤い頬と唇、黒檀のように黒い髪と瞳。女王による姫の美しさへの妬みと殺害企図。姫は森を彷徨い小人(ついでに盗賊も!)の世話になる。変装した女王が小人の家を訪れて毒リンゴを食べさせるも白雪姫は生き返る。「白雪姫」でしかない。
さらに、本作はアニメ版を前提にした描写も盛り沢山でした。アニメ版で変装した女王がリンゴを差し出す時「グーズベリーパイ(イチゴパイ)よりアップルパイの方が小人は喜ぶ」と言っていました。本作ではアップルパイとその材料のリンゴは小人だけでなく民衆との喜びにあふれた生活をしていた時代の象徴に拡大されていて、だからこそ城に盗みに入ったジョナサンは捕まってリンゴを手放すしかなくなる。女王の命に逆らった狩人が心臓代わりにリンゴを箱に収めたのは父王への恭順≒女王への背信を示すものだし、こうした積み重ねがあるからこそ、白雪姫が老婆に差し出されたリンゴを拒めないのも当然と思わされるのです。
白雪姫のドレスのデザインも(コスプレっぽく見えてもう少しどうにかならなかったのかとは思いましたが)、狩人に連れ出された白雪姫が花を摘んでいると岩に狩人の影が映り、振り返ると狩人がナイフを抜いて迫っていた描写も、狩人が殺害を断念して女王の命令であることと森へ逃げるよう告げるのも、白雪姫が森に逃げ込むも恐ろしい思いをし、けれど森の動物の愛らしさに気づいて心を落ち着けると森が明るく豊かに見えるのも、小人の基本デザインと名前や性格も、もちろんあの「ハイ・ホー」も、女王がやってきて森の動物が慌てて小人に助けを求めるのも、アニメ版を知っているとニヤリとできるシーンの多いこと。特に本作における女王の結末はアニメ版の冒頭と見事にリンクしていて唸りました。
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昨年、原作から大きく改変された実写ドラマで原作者とドラマ制作陣が対立し、大きな騒ぎとなったことを憂いた原作者・芦名妃名子が自殺するという痛ましい事件がありました。私はちょうど悩んでいたこととそのニュースがリンクしてしまい、何かしらの作品について言及することが怖くなり、今も解決できていません。
原作のある創作物は、創作物もその作者の人格や信念も大切にされてほしい。そのためにも、なるべく原作に忠実なメディアミックス化を心がけてほしい。その考えに変わりはありません。ですがおとぎ話や昔話に対しては、まったく逆の考え方を持っています。
明確な原作者はおらず民衆が口伝えで形作り継承された昔話は、地域や時代の要請に合わせて少しずつ形を変えていく、それが当たり前のものでした。同じ人にその場で2回語らせたら話の筋がまったく変わってしまうことだって普通にあったのです。
アニメ版「白雪姫」も“元”の話を大きく変えています。グリム童話において女王は元々継母でなく実母だったし、生き返った白雪姫と王子との結婚式で女王は熱した鉄の靴を履かされ死ぬまで踊る羽目になります。王子は白雪姫の美貌(だけ)に執着して棺ごと運ばせて、その時の衝撃で毒リンゴが吐き出されて白雪姫は生き返るだけだし、一番古いエーレンベルク稿は父王が医者に姫の治療をさせるという話でした。そういう“原作通り”の映像「白雪姫」、観たいですか? 私はちょっと遠慮したい。
その時の世情に合った形に変われなかった昔話は人々からの興味が失われ、語られることがなくなる。そうして数多の昔話は“死んで”いきました。コミュニティが流動化し、時代や地域の変化が大きく早くなった現代では、昔話の“死”は急速に進んでいます。
今回、核は守りつつ現代向けに大きく変化した新しい「白雪姫」を見た時、すごく嬉しかったのです。ああ、この物語はまだ生きている。ディズニーはちゃんと生き長らえさせてくれている。そして話を大きく変えながらも、およそ90年も昔のアニメ版と、さらにその前のグリム童話や他の類話、あらゆる過去の白雪姫の欠片も、ふんだんに活かしてくれている。この「白雪姫」はただ新しいだけじゃない、「白雪姫」と人類が辿ってきた歴史への敬意も込められている。ちゃんと繋がってる。そう感じられたのがすごく、すごく嬉しかったのです。
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そういうわけで私にとって今回の「白雪姫」は最高でしたが、あまりに最高だったので逆に気になることもありました。
男も女も関係なく勇気と優しさを持ち合わせろとか、統治者に必要な素養は軍事的強さでなく人を大切にすることだとか、スタンドアローンヒロイックストーリーは無理です大事なのは助け合いだとか、私はすごく馴染むんですけど、私は日本人で、そして日本でもそんな考え方はもはや弱者か愚者のものだ必要なのはタフネスと自己主張それだけだという風潮すらあって私は縮こまっているのに、大国アメリカ産のストーリーがこれでいいんですか……? 特に助け合い・分け合いの奨励って下手すると共産主義の奨励に繋がらないですか……? そういうのアメリカはNGなのでは……?
女王が宝石の持つ永遠の美しさを尊び、白雪姫に象徴される花の美しさはいつか枯れて終わると侮蔑した時、「ああ磐長姫と木花咲耶姫ね」と思っちゃったんですよ。「いつか枯れて終わる美しさを人は愛するものだからこそ、あなたは醜い悪役で白雪姫が美しい主人公になるんですよ」なんて、文化も歴史もまったく違う日本神話から解釈を深められちゃうの、なんか違わない……?
アメリカの根底にあるキリスト教では永遠の命が重要なわけでして、その観点から見れば女王の主張にこそ軍配が上がりそうなものです。でも城に帰還した白雪姫が赤いマントを羽織っていたのは「赤ずきん」からのオマージュかなとは思いつつ、枢機卿も赤を着ることを考えると白雪姫の勇気と優しさにこそ神意ありってことなのかもしれない。
赤マントは18世紀にアメリカで流行ったという歴史を踏まえるなら、ディズニーなりの「ちょっと原点回帰しません?」という主張も想定できそうです。18世紀といえばアメリカが独立を果たした頃で、あの時は貧しかったけどみんな協力し合って生きてたじゃん、軍事大国の今は本当に幸せか? 権力者ばかり私腹を肥やして、民衆は分断を煽られていがみ合って独りよがりになって投げやりに生きて、諦めて怖がって何もせず過ごして、それで本当に神の御心に適っているのか? 私達の目指すヒーロー像って本当にそんなだったか? ていう。
アメリカに縁がまったくない私は確かめる術を持ちません。けれど私個人に話を戻すなら、とても心に馴染む物語をまさかの外国、それも世界を制するような超大国からお出しされたなら、ちょうど体調もだいぶ回復したし、またゆるゆるとでも頭をもたげてみても良いのかもしれない。そんなふうに思わせてくれる、本当に本当に良いおとぎ話でした。