<『炎上』というものの無意味さ>
最近、『X(旧Twitter)』を見ていると、何だか「イラストレーター兼VTuberとして活躍されている方が高級女児服ブランドとのコラボを発表したら大炎上してコラボ中止」とかいう話題が大盛り上がりだった様で、前回描いた通り一過性のキャンプファイヤー(祭り)に過ぎない炎上というものの無意味さを思ったりした。こんなに早く言った通りになる事ってあるんだなと。
もちろんこんなものは自分が言い当てた訳でも何でもなく、結局は次に燃やすものを延々と追い求めて行くSNSの『場の空気』からすればさもありなんという話で、同時期に「女性インフルエンサーがコカイン所持で逮捕。しかも警察車両の中で舌出しやハンドサインでアピール」といったニュースもあったし、「セクシー女優(この言い方もどうなんだと思うけれど)の急死の原因が特定のホストとの関係にある」という話から、悪質ホスト問題が再燃したりもしていた。(逆に良質ホストなんかあんのかよ、と思いつつ)
世間はその都度何かに怒り、誰かを叩き、個人の怒りの表出を拡散し続けた。でもそれらもすぐに忘れ去られて行くのだろうと思うと、虚しさすら感じる。
繰り返しになってしまうけれど、こうした祭りとしての炎上が次々流れ去って行く中で、自分が個人として本当に向き合う必要性がある話題が何なのかというのは都度見つめ直す必要があると思う。本当に腰を据えて何かの問題を解決したいと思うなら。そして意味のある議論が必要だと考えるのなら。
もちろん、単に自分が注目されたい、トレンドの中心にいたい、という事だけが望みなら「今最も話題になっている祭りに次々乗り換えて行く」事が最適解だというのは皆わかっていると思うけれど、自分はそれに意味を感じない。
というわけで、今回は5巻について。「まだやんのか」と思われていそうだけれど、実際『みいちゃんと山田さん』に関して言えば、細かいディティールの話だけでも延々と問題点を指摘できるので、これでも端折っている方だと思うし、割愛している箇所も多い。
その上で、5巻については「ここは明らかに問題だろう」という箇所があるので書いて行く。それはみいちゃんについてでも山田さんについてでもなく、桃花についてだ。
<『第26話 この街の輪廻』>
桃花は『みい山』の中でも特殊な立ち位置にいるキャラクターだと思う。メインストーリーである「みいちゃんと山田さんの関係性」から離れた場所にいて、最初は「桃花が『無能はタンポポでも摘んでなよ』と言って切り捨てたみいちゃんを、山田さんが『そんなことない!』と言ってかばう」という、みいちゃんと山田さんの物語の導入のために必要な役回りだけを与えられた人物なのかと思ったのだけれど、この5巻に収録されている『第26話 この街の輪廻』では、作者から単独のエピソードをもらっていたりする。
個人的な見解だけれど、実写作品ならともかく、漫画やアニメには「無意味に存在しているもの」はない。現実をカメラで撮影する実写作品と異なり、画面に映る全てを『作画』しなければならない漫画やアニメは、映像全てに作り手の意思が存在しているからだ。無意味な画、不必要な画をわざわざ作画する者はいない。コマや画面の中にあるものは、背景ひとつ、小物ひとつに至るまで「そうある様に」意図された結果、読者や視聴者の目の前にある。違いがあるとすれば、その作者の意図が分かりやすく明示されているか、隠されているかという所だ。そして桃花のキャラクターは、後者にあたる。
桃花は1巻では、新人いじめをするサディスト的な描かれ方をしていた。夜職歴が長く、先輩的なポジションにいて、2巻以降でもたまに登場しては解説役になったりする。漫画的に言えば、彼女に必要とされる役割はそれだけで、何なら1巻の時点でその仕事は大体終わっているし、みいちゃんと山田さんの関係性を描く事に集中するなら、この5巻に挿入された単独エピソードは不要ですらある。でもここで作者は、桃花のために1話を使う選択をする。
京都で『市桃』という名前で舞妓をしていた過去、同伴してくれる客から「ガールズバーの店長をやらないか」ともちかけられて遠回しに断ってみせる様子、本心を悟らせない、相手に深く踏み込ませないための、『万能の仮面』である笑顔。その一方で、店の女の子のメイクを手伝ってあげる様子や、通信制高校で高卒資格を取得したらしい描写があったりと、この第26話で急に桃花という人物の掘り下げが行われる。そして、その中には問題のシーンがある。「舞妓時代、16歳の時に『受容体が欠落している人間』がいる事を知った」という一連の過去編だ。
お座敷遊び『金毘羅船舟(こんぴらふねふね)』の練習中、桃花は「みいちゃんと同じ猫口に描かれた女の子(彼女には名前もない)」の手を誤って椀で叩いてしまうが、その子が「痛くない」と言うのを聞いて、今度は故意に何度か手を叩く。そして「感覚が鈍いんだ」「受容体が欠落している人間がいるんだ」という『誤った理解』を深めて行ってしまう。
この理解の仕方は本当に危うくて、何なら津久井やまゆり園で殺傷事件を起こした植松聖が使った『心失者(しんしつしゃ)』という造語に近い意味合いを持つ。言葉でコミュニケーションが取れない重度知的障がい者には心がない。だから生きている価値もない。それが植松の考えだった。
『受容体が欠落している人間』と『心失者』という言葉が、一歩間違えれば簡単に接続可能な距離にある事。『みい山』の作者や編集部がその事にどれだけ自覚的だったかは分からないが、桃花という登場人物を肯定的に描くでも否定的に描くでもなく、フラットに「夜職の世界には桃花の様な人がいた」という描き方になっているせいで、この危険な考え方も特に作中で否定される事なく物語の一部として流れて行ってしまった。『受容体が欠落している人間』として描かれたものをそのまま無批判に「現実にもこういう人はいるよね」「リアルだよね」と受け止める人がいた事を、自分はかなり問題だと思っている。もっと言えば、第26話のタイトルである『この街の輪廻』とは、「みいちゃんの様な(あるいはミュウちゃんや舞妓を目指していた子の様な)人が、夜職の世界には繰り返しやって来る。歴史は繰り返す」という部分にかかっているのだろうけれど、作者自身はその事を良いとも悪いとも描かない。その中にいる桃花の事も含めて、ただ『そういうもの』として流している。これもまた問題があるだろうと自分は思う。
<『受容体が欠落している人間』≒『心失者』>
先天的に「痛みを感じない」という『先天性無痛無汗症』という指定難病がある。病名の通り、先天的に痛みを感じる事ができず、全身の温度覚(熱さや冷たさの感覚)と痛覚が消失しており、知的障害や発達障害を合併することがある。
考えればわかる事だが、痛覚がないという事は「大怪我をしても気付かない場合がある」「無自覚な自傷行為をしてしまう(口の中や舌を噛んでも痛みが無いため)」という事であり、温度覚がないという事は「適切な服装ができないので、低体温や高体温になってしまう」という事である。完全に治す治療法は無く、本人が気を付けるだけではなく、周囲の人々が第三者の目で傷の有無や適切な服装ができているかチェックし、見守る必要がある。
また、完全な無痛症までは行かなくとも、発達障害は『感覚鈍麻』を併発する事があり、これは「痛みを感じにくい」症状だ。「味の変化を感じにくい」という症状も感覚鈍麻に含まれる。(作中でも描かれていた、「マヨネーズを大量にかけないと味がしない」というシーン)逆に『感覚過敏』という症状もあり、こちらは聴覚過敏や触覚過敏がよく知られている。街中でヘッドホンの様な形のイヤーマフをして、不快に感じる音を遮断している人を見た事がある人もいると思う。
大事なのは、これらはあくまで『感覚鈍麻』であって、『みい山』が作中で言う『受容体が欠落している人間』という理解は完全に間違っているという事だ。
『人間は受容体の塊である』
『それは身体感覚だけじゃなくて 内面的なことにも言える』
『他人からの見え方が気にならない』
『想像力がないから相手が傷つく事を平気で言える』
『「これをやったら恥ずかしい」という感覚がない』
『持論だけど 受容体が欠落した人間は人に感謝するという感覚がない・・・』
『そして「人に感謝されたい」という感覚も鈍いので こちらも感謝する必要がない』
全部、桃花の考えだ。(「作者の考え」とは言わない)発達障害から起こる事と、それと併発している感覚鈍麻と、障害が無くても起こり得る思いやりの無さや羞恥心の欠如、モラルの低さ、そして相手の心や感情までを勝手に『受容体が欠落している人間』という自分の理解の枠に押し込んだ上で、「こういう人間には感謝する必要がない」「痛みを訴えて来ないから痛めつけてもいい」という自分の加虐性を押し付けているし、笑顔の仮面を付けなくても向き合える相手として、ある意味甘えてもいる。
彼女にどんな描かれていない過去があり、語られない苦悩があり、その結果としての今があろうと、この『受容体が欠落している人間』という理解の仕方は否定しなければならないと思う。しかし、作者にそのつもりが無いのであれば、自分は外部から読者として批判するし、それはあの植松が唱えた『心失者』と大差ない考え方だとはっきり言う。
自分は『みい山』を今更出版停止にしろともアニメ化を中止しろとも言わないし、表現の自由として自由な創作活動が認められるべきだという意見にも同意するが、その自由な表現の中に問題が指摘された時、責任を持って向き合って欲しいとは思う。自分たちは『第二の植松』の登場を抑止しなければならないからだ。累計発行部数300万部超えの作品であればなおさら。
<殺傷事件から10年後の津久井やまゆり園で起きた虐待>
自分が繰り返し言っている事だけれど、津久井やまゆり園で起きた殺傷事件を、犯人である植松聖ひとりの異常性や特殊性に押し付けるのは間違いだ。
植松個人の人格や生い立ちが全く影響していないとは言わないが、植松の造語である『心失者』という言葉が主にSNS上で一定の共感を集め、彼を評価する動きがあった事を自分は忘れない。誰の心にも植松的な思想を受け入れてしまう土壌があり、何なら植松的な思想の種は既に植えられている。そうしたものが芽を出さない様にするには強い自制心が求められるし、もっと言えば自分たちの様な福祉職員だけではなくて、地域で暮らす障がい者と接する機会がある全ての人にも、心のどこかで常に考えていて欲しいと思っている。なぜなら、どんなに気を付けているつもりでも、仕事や生活の中で余裕を無くした時に発作的な虐待が起きてしまう可能性はあるからだ。そしてあの事件が起きた『津久井やまゆり園』でもそれは例外ではなかったし、同じ法人が運営する他施設で繰り返し虐待があった事も忘れてはならない。
事件があった施設で再度の虐待が起きたという事で、通常よりは少し大きく報道されたと思う。きっと入浴介助を行っていた男性職員には余裕が無かったのだろう。もちろん業務の忙しさや、時間的・精神的余裕の無さを虐待の理由にする事は許されない。しかし、どんなに虐待防止研修をしたところで、現場で働く生活支援員に負担がかかる様な環境であれば虐待は起こり得る。それは支援員個人の倫理観や資質、能力の問題ではなく、施設の運営や人員配置等の構造的な問題だ。
それでもなお思う事として、そこに『心失者』的な考えや『受容体が欠落している人間』的な認識が無かったかどうかは問われるのだと思う。今回虐待を起こしてしまった生活支援員がそうだと言う訳では決して無いけれど。「言って聞かせる事ができないなら、叩いても仕方ない」「叩いても痛みを訴えないから、叩いてもいい」「身体拘束をかけないと強度行動障害がおさえられないからやるしかない」そうした考えに繋がりかねないものが、『受容体が欠落している人間』という言葉にはあり、それがほぼ無批判に掲載された漫画が累計発行部数300万部を超える社会の中に、自分たち福祉職員も、障がい者も、『みい山』の作者も、読者も、編集者もいる。
その危うさだけは繰り返し指摘しておきたい。