<『表現の自由』は差別表現を免罪するのか>
『みい山』各巻感想、今回はまとめというか番外。
全体的な『みい山』の絵柄の特徴として、登場人物が割と幼顔というか、丸顔で可愛らしい感じで、その絵柄で物語の生々しさが中和されている所はあると思う。ただそれが良い事かというと、前回書いた様に『障がい者は猫口』等の(作者が意識しているのかどうか怪しいレベルの)差別表現が紛れ込んでいて、福祉職員としてはひっかかる部分がある。
この各巻感想を始めるきっかけになった最初の記事で、自分は「そもそもみいちゃんを『みいちゃん』と呼ぶ事は虐待に当たる」と書いた。それは相手を対等な大人として扱わない事、相手を下に見る態度に繋がるからなのだけれど、その他にも地方自治体などが作っている『虐待防止の自己チェック表』等には『利用者の言葉や歩き方等の真似をしたことがある』という項目がある。障がい者の姿を漫画にして、(一般人からすれば)滑稽なものとして表現するのは、これにかすってはいないだろうか。
何で障がい者のものまねをする事が心理的虐待なのかと言えば、これもまた相手に対するからかいや見下し、相手を馬鹿にする態度の現れだからだ。(健常者同士のいじめでも同じ事をされた人はいると思う)
一般の人からすれば、虐待と言えば「相手を殴る」とか「暴れない様に縛る。部屋に閉じ込める(身体拘束)」といった直接危害を加えるものを思い浮かべるかもれないけれど、それ以外にもこうした『心理的虐待』が数多くある。ただそれは一般の感覚からすれば『軽いもの』と思われがちだ。実際には同じ虐待ではあるのだけれど。
それで、自分が思ってしまうのは『表現の自由』によって認められている創作活動の中に、上記した様な『心理的虐待』になりかねない表現が紛れ込んでしまう時、それはどこまで免罪されるのだろうという事だ。悪意があったか無かったか、故意か過失か、という考え方もある。でも、いずれにせよ心理的虐待が起きてしまったという結果は変わらない。
自分の様な福祉職員は、名前の呼び方から日頃の接し方まで、それが虐待に当たらないのかという事を厳しく問われる。一方で、福祉の外にある(本当は福祉に外も内もないが)社会は、自由に何を言っても良いし、漫画にしても良い。この非対称性は、もう少し認識されるべきなんじゃないかと思う。なぜなら今、国は施設で暮らす重度障がい者をもっと地域移行させ、グループホームなどの、より地域社会に近い場所で暮らす障がい者を増やそうとしているからだ。一般の方が今まで接する機会がなかった(かもしれない)障がい者との距離は、今後どんどん近くなって行く。その時、地域社会で心理的虐待が野放しになっていたら、津久井やまゆり園で起きた様な重大事件がまた起こらないとも限らない。
福祉関係者と一般の方々との、この表現に対する厳しさや関心度合いの差を説明するのは難しいのだけれど、『風が吹けば桶屋が儲かる』ということわざに例えると、要はあれって
1. 風が吹く
2.風で砂埃が立つ
3.砂埃が目に入って眼病を患い、失明する人が増える
4.失明した人は三味線弾きで生計を立てる様になる。
5.三味線の需要が増えると材料の猫皮をとるために猫が狩られる
6.猫が狩られるとネズミが増える
7. 増えたネズミが桶をかじる
8.桶が壊れて買い替えられ、桶屋が儲かる
という、物凄く回りくどい順路で「桶屋が儲かる」までを繋いでいて、それは物事の起点と、終点が遠く離れているから起こる事だ。これを虐待が起こる事を終点、そのきっかけである差別意識を起点とすると、一般人よりも福祉職員は対象との距離がもっと近い。
1. 風が吹く
2.桶が飛ばされて壊れる
3.桶が壊れて買い替えられ、桶屋が儲かる
肌感覚としてはこれくらい。正規の『風が吹けば桶屋が儲かる』くらい遠かった話が、相手との距離によって圧縮されて、虐待の起点と終点がここまで近くなる。食事の介助、着替えや入浴の介助、排泄の介助といった生活全般の介助は、当然相手に接近していなければできない訳で、そこで差別意識が見逃されていると、あっという間に「食事を早く終わらせるために、無理にスプーンを口に押し込む」等の虐待が起こり得る。手を伸ばさなくても届く距離に障がい者がいるのだから。
ただここで見過ごされがちなのは、『回り道をしようがショートカットしようが、最終的に終点に至るのは変わらない』という事だ。風が吹けば最終的に桶屋が儲かるのが変わらない様に、虐待の起点である差別意識を放置すれば、酷い虐待までは必ず繋がる。相模原の事件の時『植松よくやった』『死んだのは障がい者だから別にいい』って言っていた人がいたけれど、そういう酷い事をネットの中では平気で吐き散らかしているネット弁慶が、今日明日に植松と同じ事件を起こす訳じゃない。でもそういう態度を放置しておくといずれは「障害福祉関係の予算削減を訴える候補者に投票する」とか「入所施設の建設に反対して地域から排除する」とか、いくつかの段階を経て最終的にはもっと直接的な虐待に接続する。
自分がいつも津久井やまゆり園で起きた事件を「植松だけの問題じゃない」と言っているのは、当時『植松よくやった』『植松は正しい』って言っていた人間の存在を忘れていないからだ。そういう人間は、風が吹けば流されて行く。虐待を起こす方へと。
漫画を描く事、それを発表する事、場合によってはそれが出版され、広く社会に流通する事。それは表現の自由だろう。その中身を事前に検閲する社会が健全なのかと言われれば違う。ただ何度でも言うが、作者や出版社の責任においてそれを世に出したならば、その作品の影響については向き合うのが筋ではないか。
確かに虐待事例の一覧には『障がい者をネタに漫画を描くな』とは書かれていない。ただ、「書いていないから自分がしている事は虐待じゃない」という事にはならない。それは『風を吹かせている』のかもしれないからだ。関係者が全く意識していないだけで。
<漫画は無意識の嫌悪感を可視化する>
色々書いてみたが、自分だって内心に差別意識がないとは言えない。当たり前の話だが自分は聖人でもないし覚者でもない。常に品行方正に生きている訳でもない。様々な欠点を持った、普通の人間だよ。無自覚に酷いことだってしているだろう。
ただこの『無自覚』という事から言えば、それを『自覚』する所からでしか、誤った行動は正せないとも思う。そういう意味で、『みい山』の様な漫画はそれが絵柄という表現に現れるから、ごまかしが効かないなと思う。前回も少し触れたけれど、障がい者の猫口以外にも、『みい山』で描かれるキャラクターには、本当にその無自覚な嫌悪感、特に男性嫌悪が滲み出ているなという気がする。
1巻で言えば、みいちゃんを指名してくる『キモオタ系』の客たち。その中にいるシゲオとか。後はこの先出てくるツバサとか、みいちゃんの彼氏のマオ君とか。過去編の不良グループとか。キャバクラの送迎のドライバーも。まあ本当に『キモく』描かれていて感心する。男性目線で言えばシゲオなんかは普通に知り合いにいてもおかしくない奴ではある。(友達になりたいかと言われると微妙なラインではあるが)非モテで、キャバクラで恋愛対象を探そうとして空回りしているのとか、まあありそうだ。でもそれは『キモい』外見で描かれていて、作者は心底嫌いなタイプなんだろうなと思う。
自分で使うと違和感があるけれど、この『キモい』っていう表現はよく聞く。特に女性が使う時は、単に外見が気持ち悪いとか不潔だとかいう範囲を超えて、「ありえない」とか、相手の言動や価値観や存在を否定したい時に、それら全てを内包して『キモい』という言葉が出てくる気がする。で、そういうキモい要素を、ひとりのキャラクターにまとめて背負わせると、ステレオタイプな嫌われ者が生まれる。便所飯食ってて、同級生に告白すれば泣かれ、責められ、部屋が美少女アニメのグッズで埋め尽くされていて、それで自慰をしている様な場面まで描かれてみたり、ソープで童貞卒業しただのと描かれたり。ひとつひとつの『キモいオタク』『夜職のクソ客エピソード』を寄せ集めてみたらシゲオになりました、みたいな。実際に夜職をやっていたり、夜職の世界に詳しかったりするとクソ客エピソードなんて腐る程あるだろうと思う。(自分も接客業をしていた時のクソ客エピソードならいくらでもある)
で、そういう夜職あるあるのクソ客エピソードは、無自覚な男性全般への蔑視に繋がっていて、そこからツバサの様な『過剰に嫌悪感を詰め込まれた』登場人物が生まれてしまったんじゃないかと思う。障がい者で、母親が子どもの性処理に風俗嬢をあてがおうとしていて、本人は感情のコントロールが効かなくて、不潔で、粗暴で、まともに話もできないみたいな。そしてその演出された過剰な『キモさ』を詰め込まれたツバサが出て来るタイミングは、「みいちゃんはNGが出せないから風俗店で違法な本番行為から身体的虐待にあたる特殊なプレイまで何でもやらされている」(その上算数ができないから給料もごまかされている)っていう前提が語られた直後だ。
女性に性を売らせて上前をはねる男達は醜悪であり、それを買う男達も醜悪である。そういう男達の醜悪さの犠牲になっているのがみいちゃんである。そういう構造を描きたかったのだとは思う。でもそこに、明らかに知的(発達)障がい者であろうツバサとその母親を持って来る必要はあったのか。そもそも男性の障がい者を描こうとする時、彼を『みいちゃんに危害を加える加害者側』に置いてしまうのは正しいのか。それは作者が健常者の男に対して抱いているであろう男性嫌悪に引っ張られ過ぎていないか。
『みい山』の読者がこの物語全体を見て、その表現が(ツバサのキャラクターも含めて)「夜職の世界では現実にこういう事もある」「不都合な現実を描く事から逃げていない」的な称賛をしていると聞いた時、自分は『みい山』は無理だなと正直思った。特に『ツバサ号』の辺りで本当に付いて行けなくなった。あのコマは案の定悪い意味で話題になったし、アニメ化が発表されて炎上してからは「ツバサには『医療的処置』を受けさせるべきだ」「優生保護法は正しかった」というリアクションもあった。この『医療的処置』とは、恐らく薬物療法ではなく、もっと率直に『去勢しろ』という意味なのだと思う。それも強制的に。そこでは『優生保護法は間違っていた』と結論付けた現実の時計の針が巻き戻されてしまっている。じゃあ、また一からあれを繰り返すのだろうか。一部の読者は、それが正しいと思っているのだろうか。
ここまで順を追って話せば伝わるだろうと思うけれど、ここで結局『植松は正しかった』っていう過去の事件の結果と、みい山が描いているフィクションは接続してしまっていると思う。それが読者の受け止め方の問題で、表現の問題ではないと説明するとしても、起きている結果は変わらない。男性嫌悪で吹かせた風は、そこで描かれる男性の障がい者をも嫌悪させる事になり、結果、ネットでは心理的虐待にあたる障がい者排除の声が上がる。
今後、2巻以降の内容にも触れて行く事になるだろうと思けれど、この『無自覚な嫌悪』が作品全体を通して通奏低音の様に流れている事は、読者側が意識して記憶しておかなければならない事だと思う。そしてそれは、作者個人の問題ではなく、編集部にも当てはまる。
少なくとも自分は、2巻の巻末にある次巻予告に『みいちゃん、中学生。 友愛と恋愛の狭間で、 性の悦びを知る――。』ってアオリ文を入れた奴を当面許すつもりはない。