別れの挨拶-終わる魔法の中で【寄稿:Acruxさん】

pyxis
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公開:2025/11/12

二時も半分を回るころだろうか。

今頃学園では、カフェテリアでの長い長いデザートタイムを終えて、今日の主役たちがグラウンドに集まってきているだろう。

スタンドから応援か指導か、声を飛ばす者。内ラチの更に内、名残惜しそうに芝の感触を確かめる者。後輩との最後のランニングデートに付き合う者もいる。

競走ウマ娘としての生命を終わらせたとしても、着古した紅いジャージはその身に「夢追う者」としての面影を宿らせる。

なるほど、「桁違い」を主張するこの女が纏うのは夢の「面影」ではないわけなんだな。

「正反対を行くのは、いつも通りってわけだね」

ターフよりもずっと深く彩られた、洗剤の臭いすら染み込んでいない緑の衣装。路傍にこれから咲き、これからも咲く。

隣を見遣ってやれば「何ですか?」という文字を眉に刻んで怪訝な顔が帰って来る。

「そういうところだよ」という言葉を飲み込んでようやく、ここのところ暫く、この女の名前も呼んでいないことに気づいた。

最後に直接顔を合わせたのは、ステイヤーズの時だっけ。

避けていた……と言っていいだろう。何と無く、顔を合わせ辛かった。

「てか、いつの間に隣に?」

『いつのまにやら。』

『流石に3600を2000+1600と宣うだけはあるみたいね。エルに比べれば呼吸の乱れが顕著だけど』

『ハルカとは比べてあげない。あれは貴女の言う"純粋種"ですもの、追いつくにはまだまだ鍛錬が足りませんわ』

「ダート・ハードルまで網羅して、ちょくちょく芝に先祖帰りして来る次代のオールラウンダーがどれだけいるかって話」

「とはいえ、盾狙って来るならそうも吞気ではいられないけどさ」

「私のような養殖モノに、EXTENDEDの舞台は厳しいばっかりで」

ちぐはぐな足並みを6人で頑張って揃えるうちに、いつしか隣り合わせていた。いつかのように。

ただこの女がなんとなく見定めた道に、僕がいた。それだけのこと。

⸺眼中に無かったというべきか。

網羅なんてできるはずもない大きな大きな路の中に、箱庭を見出して、自分はその住人に仕立てられた。

それがどこかで気に入らなかったのが始まり。それは間違いない。

が、「それだけでない」のも、きっと正解。それで見えてしまった世界が、今も視界に広がる。

「インパルス、調子良さそうだよ」

「この間ネットウマムスメにインタビュー載ってたけど、春の盾に凄く自信有り気でさ」

『当然でしょう、私という女が見出したのだから』

『多分時間的にその帰り道だったかしら。パルスにこの間会ったのだけれど、「あの日のことは忘れてないよ、ありがとう」って』

『思わず突き付けてしまった、「礼はいいから、消えた虹を追うのはいい加減やめなさい」って』

「それで嫌われるのは自業自得だよ、アクインアッカって奴?」

「でもインパルスにはもっと自由になって欲しいのは、同じかなあ」

なみあしのまま憎まれ口を叩き合う。今更この程度ではヒートアップはしない。

ライバルと言うにはやはり遠かった。最強世代の中の「最強」と、蒼く染まり切ることさえ出来ない未勝利ウマ娘では、見えるものが全く違ってくるもの。

月刊トゥインクル始めとした各種メディアに何度かツーショットを切り取られたことはあったが、実際のところ練習場以外で殆ど足並みは揃わなかった。

それを「悔しかった」と言えばこの女はどんな顔をするのだろうか。

「やっぱり時代遅れね」と鼻で笑われるならまだマシな方だろう。

「いつまでも後ろ向いてんじゃないよ」と窘める姿が真っ先に浮かんだ。

「ふぅん」と興味なさげに一蹴されるのが一番嫌だ。

『睨むように走ってくれるから、人払いの必要はないのはありがたいけど』

『もうちょっと、楽しい話しませんか?』

「そう……だね」

ああ、レースの話になるとこうだから嫌になる。

互いに「自分らしさ」を前面に、目いっぱいに出してしまうから、衝突してしまってキリがない。

⸺とはいえ。

今更何を話そうか。

もう誰も、「未勝利仲間」ではない。

足並みも、進む道も、全く違う。

「非日常」の檻に囚われて、「日常」を見失ってしまった。

彼女の紫水晶がらしくもなく揺れるのは、そのせいなのだろう。

『母さんがしてくれる時計の話が凄く好きで』

静寂を無理矢理引き裂こうと、デュオモンテが口をぱくぱくとさせる。

『⸺だからさ、周りを巻き込みながら同じリズムを作る『標準時』っていうのが、なんだか自分の憧れた走りに取り込まれるようになってきて』

『……聞いたことありません、よね、小金井に原子時計があること。』

自分から話を長くしているくせに、どんどんばつの悪い顔になるその表情に、「悪かったね」という言葉一つさえ喉につかえてしまい、軽く頷くことだけをした。

今度は自分に、しゃべれずの魔法が乗り移った気がする。

『⸺で、小金井かつくばにいつか貴女たちも誘おうと思ったのだけれど、妙に間が悪くて』

「あのさ」

『すぐそこでセントライトがあったでしょう、あれに「らしくもない」、別の誰かにとっては「らしい」自分を見せる、それを覚悟したものだから、一緒にここの結束も薄まって……』

「赤信号だよ、ちょっと止まろうか」

『……ごめん』

僕らのランチブレイクは僅かであったが、この女の心を氷解させるには十分だったのだろう。

「置いて行くな」とひとつ前の交差点で言われておきながらこうだ。ターフでの傍若無人っぷりの片鱗を感じる。

いつもの調子に戻ってきているのは、それは宜しいことなのだろうけど。

息を整えながら彼女は柔軟体操を。僕は小刻みに跳ねながら信号が青になるのを待つ。

一瞥すればひとつ前の信号を皆が通っていて、数秒もすれば追いつくだろうと。それを勝手に理解してくれるのだろうと。

きっと、少しだけの憂いもなく、この女は思っているのだろうなあ。

幹線道路に当たったせいで、一秒が長い。

「間延びする」と言うに相応しい春の陽気が、信号待ちをする僕らを襲っている。

『シガレット』

矢のように飛んでくる、現実に引き戻す、現実味のない言葉。

「はぁ?」

心当たりがあって、素っ頓狂な声を上げる。

ジャージのポケットに突っ込んだ藍色の箱に思わず手をかけるが、今更欲しくなったというわけではないらしい。

ビル窓から反射した陽光が、彼女の象徴のひとつたる円形グラスを白に染める。揺らいでいた紫水晶がどのように先を見据えるのか、分からなくなった。

『好きなの。最近良く口にしているけど』

「メガネ掛けてると口寂しくなるもんで」

『そう』

自分から聞いておいてその素っ気なさはなんだ。

「別に影響されてやったわけじゃない。元々モロハさんに貰ったものだし」

どうも琴線に触れたものだから、ちょっとだけ語気を強めた。

『長距離選手にとって肺は生命線だから、煙草の味は一生分からない』

『私という女は「大人の味」を味わいたいわけではないけれど、混ざり合うココアとシトラスのコンビネーションが好きでね』

⸺それに、何かしら口に入れないと気がすまない性質なの。

と、デュオモンテは少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。

こういう表情、見せれるんだよな。

振り返ろうともしないだけで、道程を愛しく思う気持ちはあるのだろう。

というより、そうでなければ「ランニングデート」なんて今頃していないか。

何故かいたたまれなくなって空を見上げた。

空はどこまでも真っ青で、広い。

今夜は良い星が見えそうだ、と意識は空に浮く想いだ。

この舌戦を「いつも通り」と思ったことがある。

檻に入ったと思ったけど、ただ「日常」と勘違いした、「非日常」の中のピースがあるだけなのかもしれない。

きっと、在るはずのないことのなかにあった、あるはずのことなのだろう。

現実と空想が曖昧になる。

シガレットのココアとシトラスも、同じなのだろうか。

「混ざり合う、かぁ」

「嚙み砕かないから、わかんないや」

『粋じゃありませんこと』

『噛んだ後のスーッとする味が醍醐味なのに』

長い長いひと時を嚙み砕いての一瞬。

そのうちに信号が変わって、皆が追いかけてくる。

「もっとペース考えて欲しいものですわ」とか、

「あら、もうお帰りですか~」とか、聞こえてくるのだけれど。

それでも、振り返るのだろうか、と。

試すように、今日は自分から踏み込んだ。

「ココアがメインじゃないの?」

「というか、そんなんだからメディア敵に回すんだよ、全部一気に嚙み砕こうなんて」

横断歩道の白をあっという間に抜けたかと思えば、すぐ後ろから規則正しい呼吸。

一糸乱れぬロードランナー、「路傍の華」たる10000mトラックの主の御姿がお見えだ。

『ミルクな味わいにいつか変わると思って、ビターなカカオを100%、舌先で転がしたのはどこのどなたかしら』

『外面だけでは、なりませんのよ』

雷鳴のように轟く「ちょっと!!」という声を無視したら、彼女もまた同じように。既に2丁目分くらいを毎時60kmで置き去りにして走る。

駆ける。

走れば走るだけ風景は流れる。

自分のそれは僅か数百秒とかだけれど、青々とした芝のうねりに生えた蹄跡も、注視しなければ見えることはない。

ターフの上でそれなら、ロードの上ならいちいち覚えることもできないだろう。もしかしたら、後ろに誰かいるなんて、気にしている余裕もないのかもしれない。

そんなこと考えて脳まで最高速で血を巡らせているうちに抜かされそうになったから、「なんのっ」と差し返す。

ライバルらしいことなんだろうか、こういうのって。

頬を撫でる風の感触は昔と変わらない。

ただ少しだけ、冷たいような。雨の香りが、するような。

何かを忘れているような気がしてならない。

「18のくせに大人気取りですか」『法律ですら成人でしょうよ 我儘いわないの』とか。

『というか、伊達メガネこそ何なのよ視力悪くないでしょう』「こっちのほうが集中できるの 雰囲気に左右されるようで悪かったね」なんて。

やっぱり軽口を叩き合いながら。

信号に阻まれることなく

トレセン卒業生の視線を背中に突き刺しつつ。

アーケードを抜けていって。

何時しか見慣れた赤レンガの通学路に、僕らはいた。

「ちょっ……はや……早過ぎだって」

『追い切りで手加減してやるバカがどこにいますか』

『まあ、良い汗流せたとは思いますよ』

幾ら長距離に「慣れて来た」と言えども、目の前にいる女は箱庭の中での王者だ。

そんな奴がホームグラウンドで走るんだから、まあ適うはずもない。

膝に手をあてながら息をするのがやっとな僕の数十m先で、デュオモンテは額に浮かび出てきた雫を拭う。

「……うっ、はぁっ……どうも」

『相変わらず貴女は単純過ぎる』

『なんでリップサービスかもしれない言葉を真面目に受け取ってるんですか』

『セイリングデイズという女の最大の弱点は、影響されやすいことだと何度も言ったのに』

女は本当に呆れた、という様子で嘆息した。

アナタのこういうところが昔から大っ嫌いだよと言いかけて、どうにか嚙み潰した。

嚙み潰して、言葉が崩れて舌に届いたノスタルジーに血の味を感じる。

踏み込んで来る癖に近づけば一歩引いて来る、僕と彼女の変な共通点だ。

でも僕は、振り返る。彼女は、振り返らない。

「矜持」のためだと譲らないで、ターフの上では進んだら振り返ろうともしないのだ、この女は。

そうか、と声が喉の奥で反響した。

その癖だ、ああ「その癖」なのだ。

謳歌するべきと与えられたモラトリアムをターフにつぎ込んだ分、失ってしまった「青春」って奴を取り戻そうとしている。

自分がやって来たことを、自分が落とした蹄跡の深さを、やはり。

デュオモンテという女は、知らないのだ。

『悪かったね、ムキになって』

デュオモンテは珍しく完全に脚を止めて、僕の方を見遣る。

積年の恨みが通じたかはわからないが、ちゃんと僕相手には振り返ってくれている。

(『時代遅れですわ、自分で掴み取りなさい』)

「いつも」なのは、きっと道を振り返りはしても、歩いてはくれないこと。

いつだって、僕の隣でノスタルジーには浸ってくれなかった。

それを悲しくは思う、けど。それがこの女の生き様であるのだと。

同時に理解して、分からなくなって、あの時──────

──────まあ、自分でもわけのわからない感情を渡して、軽くバグらせてしまったんだった。

じゃあ今は、何を言えばいいだろう?

言いたいことは沢山ある。その中で伝えられるのは、きっと少しだけ。

「これで全部終わり」ではないけれど、終わるものがあるのはきっと確か。

「トレセン学園の生徒」として語らえるのは今日が最後だから。

遠くから声が聞こえる、と思った瞬間4人分の影が前に伸びて来た。

「置いて行くなよ!!」と黒仮面のくぐもった声も今度ばかりははっきりと言い切るし、僕らの「一流」に至っては当然相当なお冠だ、やっぱり似合う。

うわあ、やっちゃったぞと言いたげに頭を抱えるデュオモンテ。

「未勝利戦の同期」という繋がりを意識している以上は、その囲いの中にいるひとに呼ばれればこうやって反応してくれる。

⸺でも、その繋がりを意識していないのなら、どうだろう。

二人の顔が浮かんだ。

「約束、果たしたかったな」と少し寂しそうに、でも誇らしげな英雄見習いの不思議な笑顔を。

「あの灯を、僕は忘れない」と恥ずかしくなるくらい真っ直ぐな瞳で、強く誓った飛行士の決意に満ちた顔を。

僕の道と繋がったものだから、当然この女とも繋がってしまった、「蒼」い僕の大切な友人。

あの二人のことだ、「話したくない」なんてことはないだろう。

積もる話だっていっぱいあるって言っていたような気もする。

『やり過ぎちゃったなあ』

振り返って貰えないと、ちょっと寂しく思うのがあの二人だ。

そして多分……推測の息は出ないけど、寂しそうな笑顔の意味を捉えかねて苦しむのがこの女だ。

『さて、一緒に怒られに行きましょう?』

自分が知らずに与えた痛みが、誰かの寂しさになって。

誰かがそれを伝える間も無く寂しさを抱えたままで、大きくなったそれに気づいて知れない寂しさが増える。

バカみたいだ。なんて悲劇的だ。

誰も笑顔にならない。そんな物語が、あっていいのか。

そう思えば口は、勝手に開いていた。

「待って」

僕の放った真剣な声音に、レンズ先の紫水晶が揺れた。

杞憂なら、それでいい。

全部妄想なら、僕が僕を笑えるだけだ。

でも、そうでないなら。誰かの取り戻せない一瞬が、取り戻せなくなる。

「標準時刻ってのは、日本だけで決まるもんじゃないんでしょ…?」

「全部の国の原子時計とか標準時刻と示し合せて、コンマ何十秒までのズレを合わせていくんでしょう………?」

彼女の道に、拾い損ねている誰かの時間が落ちている。

あとどれだけ僕のものがあるか、それは今どうでもいい。

言葉なきままの離別。

それをきっとこの女は、心の底では悲しく思ってしまう。

「だったらっ、さあ……」

膝を強く押し出し、ようやく真っ正面からその光を見つめる。

「伝統」を相手に戦い、凝り固まった「常識」を砕くべくして砕いた、不動のアメジスト。

今までになく揺れる紫水晶、その奥に自分がいる。

「アナタが、強く当たってきた誰かに……!!」

「アナタが引力を感じてきた誰かに、ちゃんと会っておいでよ……!!」

「デュオモンテという女の物語は、「真鍮世代」だけでも、「障害組」だけでも、ないでしょう……!!」

そこに憂いがあるなんて、裸のままの「青春」なら正しいのかもしれないけれど。

後悔なきようにと生きていて、すれ違いなんて。

みんな晴れやかに、最後のひと時を楽しもうとしている。

6年歩みを共にしたグラウンドを、制服を、赤いジャージを、大事そうに抱えて。

「後悔、したくないんでしょ……!!」

「だったら……」

その中にこの女〈ヒト〉の笑顔だけがない。

それが何よりも、嫌なのだ。

「サヨナラぐらい、言いなよ……!!」

皆が追いつくまでの、僅か数十秒の見つめ合いだった。

「日常」では届かぬ所にある「青春」を取り戻すべく、言葉を投げかけた。

自分では言葉のナイフを突きつけたつもりだけど、多分刃先は零れていてひとりごとに聞こえたかもしれない。

それに、これがトレセン生同士としての最後の一言なんて、中々勿体無いし。

他でない僕自身が胸を締め付けられる思いで、とても苦しかったけれど。

サヨナラすらいえないままでのお別れ程、悲しいものもないだろうから。

言葉を継ぎ足すのが、自分の役目のように思えた。

「……もうっ、捕まえたわよ!!」

「もう本当に……アナタたちは……なんで時たま二人して急に子供っぽくなるのかしら……」

切れ味抜群の怒髪天を携え、紅と緑の肩に手がかかると

「でも、ボクは久しぶりに楽しそうな二人が見れて……」

「いや悪い、忘れてくれ……うん、置いて行くのは良くないぞ、うん」

心配そうに目線を下げて、仮面の内が見えそうになったオールラウンダーが居住まいを正す。

「ランニングピクニック、楽しかったですね~」

「また今度ご一緒に……あら、バスケットを忘れて来てしまいましたわ~」

……あぁ。この子はまたこの調子だ。

そして、息を上げていた面々の中で、一番に顔色を取り戻した御仁が、やれやれと首を振るのだった。

「事故が無かったから良かったものの、普通に警察に目を付けられるスピードでしたわ」

「無事でしたから、小言はこれくらいにしますけれど。さ、取り敢えずグラウンドに戻りますわよ」

「置いて行かれたおかけで、デュオモンテさんと全速力で走り損ねたのを思い出しましたので」

そうしているうちにふたりだけの世界ではなくなって、賑やかな声が戻って。

この後少しだけ併走をして、色々あの女が一通り宣った後、そのまま解散になった。


(「そばにいて」)

なんて、言ってしまった。

終わるはずの物語に「先」を求めてしまった。

ステイヤーズステークス、ライブ会場に行く前のこと。

あれから全てがおかしくなって、忙殺して忘れた想いが、今更溢れてくる。

別れは、きっと形式上のものだ。

それでも、色褪せてしまうものがあるのは確かで、取り戻せないものにもなる。

僕と彼女の間にもそれがある。殆ど僕の一方的なものだが。

人気のなくなってしまった教室に、ため息を何回か響かせて。

位置情報を書いた紙に簡単なメッセージを添えて、彼女の席だった場所に入れた。

夜更けに寮を抜け出せば、星に導かれて勝手に辿り着く場所。好きなアーティストのLyricに引っ張られてたどり着いた、僕の秘密の場所。

辿り着けないのならそれでいいとも、気づいて欲しいとも言えない。

我ながら女々しすぎるだろう、まあ女だけど。

結局、自分のほうが未練がましいのは間違いない。

もし、もう一度会えるなら。

何を話そうか。何を語り合おうか。

彼女が成すことも今更だけど、僕ができることも今更だ。

本当に、今更だ。

あれだけいがみ合って、ぶつかり合っておきながら。

最後だけ、ほんとのほんとを伝えたいなんて。

振り返れと呼ぶ声に気付かないあの女と、振り返ってはくれないと知っていて今も叫ぶ僕。

本当にバカなのはどっちだろうなあ、なんて思いながらポケットから箱を取り出し、一本。

ココアの深い味わいだ。やはりこれに尽きる。これが尽きる頃には、シトラスの香り高さで息が澄んで頭がクリアになる。

ココアとシトラスの混ざり合った味を、僕はまだ知らない。

嚙み砕こうとしたことは何度もあるけど、名残惜しさとか、勿体無さがやはり勝つ。

でも、彼女が言うなら、なんだか。

「知ってみたいな」と強く思ってしまった。

そう思って歯を立てるが、ココアシガレットは嚙み砕けそうにもない。

「苦い思い出を嚙み潰してこそ」「まだまだだね」だと、声が聞こえた。

まあ、そんなに簡単に大人になれたら、自分じゃないよな。嘲いながら、空になったココアシガレットの箱を机の上に置いた。

窓の向こうはオレンジ色に染まっている。

終わりは、確かに近づいているらしい。


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