15:00。
時計を見なくても時刻なんてわかるけども。ゼンマイはそれでもケーシングをリズミカルにたたいて、その存在証明をしていた。
時間が知りたくてつけているわけじゃないんだから、良いんだよ。
でもそれが健気だから、着けているんだ。
赤レンガの正門前で、自分はしっかりと両足を止めていた。
仁王立ちにも近いような、エネルギー切れの人間が、震えるような形に近いような、どちらでもないような……。
全く、我ながら要領を得ないピクニックだった。
……ピクニック、だったんだっけ。
「本人が無理してどうするんですか、今朝からずっと走りっぱなしですわよ……。」
ブランミストラル。
この小さな体から、どうやってその力が出るのか、わかったものじゃない。
だけれど、誰もが羨む王道距離を、誰もが羨む無敵の街道を……。
「……ちょっと、休憩、良いかな」
それでも、この人は、優しいんだ。
インターバルを、と言ったら、静かに微笑んだ。
昨日のように思い出すことがある。栄光のすぐ後に訪れた後日談のこと。
札幌記念の手ごたえ。
ラジオNIKKEIのあたりの空元気。
青葉賞のやり取り。
若駒ステークスの思い出。
ぐるぐると、撹拌しながらも、昨日どころか、今日のことを、さっきのことを思い出してしまう。
「標準時刻ってのは、日本だけで決まるもんじゃないんでしょ…?」
「全部の国の原子時計とか標準時刻と示し合せて、コンマ何十秒までのズレを合わせていくんでしょう………?」
私の後ろに、長い長い隊列ができていたのだという。
トゥインクル・シリーズでも言われることだけれども、パックリーダー、群れの先頭、集団の先頭というのは、とんでもなく嫌われるものだ。
淡々とリズムを刻めば、淡々と風除けにされていく。勝手に「容赦してはならない相手」として目をつけられて、その苦難を全て克明に分析されて、最後にはバラバラになっていく。
ペースが下がったり、上がったり、横にブレたりしたらば、それにもじわじわと適応されていく。
……したと思った矢先に、「残り少し」なんかでスパートをさせないように、静かに静かに竜頭を回して、ふらふら、ふらふらと動いて、つかみ取れそうな天井を見せつけながらも、さらに振り子を短く持って、顔を上げて"つらい"と叫びながら、自分が自分でなくなることを信じる。
そうして我を失ったときに初めて、1m、2mと距離が離れていって⸺
……単独走は嫌いだ。そうやってどれだけうまくやっても、絶対に距離を詰めてこられるから。
ふと、思ってしまうから。「私の前に何があるんだ」って。
ずっと、ずっと、ずっと。
「一たび、自分が世界の片隅で一番になったと思ったときに、外の世界に目をやった時に、必ず肩を叩かれる。」
「イチバンって孤独?」
「そんなの……私が一番知ってるに決まってる……」
「最後の最後に、あと一歩が届かなかった人に、恨めしく、恨めしく、どうしてだどうしてだと詰め寄られて」
「勝手に『でもしょうがなかった』って納得されて」
「だから、『ずっと勝ち続けて』って言われて」
「『超えるまで、憧れでいて』って言われて」
「『私だけの憧れでいて』って言われて、でも私だって同じこと言うよ!」
「それが最大の賛辞だと思うし、私は憧れを得て走るから。そういう道を選んだから。そういう道を進むんだから。」
「あのねぇ、あのねぇ……それでも、それでもさぁ」
コッ、コッ、コッ、コッ。
自分の激しい鼓動に割り込むように、秒針の跳ねる堅い振動が右腕から伝わってくる。
ああ、私は何をしているんだろうなぁ。
……でも、いっか。今の私は、私じゃない。
今度は"A"の音だけが、ズレているんだ。
「できた女じゃないんだ。そういう風にできてないんだよね、私は。」
「ずっと、ずっと一人にしてほしいくせに……それが一番さみしくて、さみしくて。」
「同じ時間を分け合うスポーツで、違う時間を感じな⸺」
……同じ時間を分けたことなんて、なかったなぁ。
でも、はっきりと背中に熱を感じた。
声を潜めて、少しずつ、少しずつしゃべった。
「……そうですか、そうですか。」
「……本当はね、あなたが引退するまで、そう決めるまではとっておくつもりだったんですよ。」
「そうなったときには、迎えに行こうって。」
「でも……そうじゃないっていうんですね。」
「今この一瞬が、大切なんだって。」
「私と同じだ、なんて言いませんけど、今ならわかりますよ。」
そういえば
その声に、水を吸って重くなった右腕のジャージの袖を捲って見せる。
「右腕に着けているんですよ。」
「仕事をしている利き腕を邪魔しないようにするのがいい、っていうけれど」
「時計そのものが仕事だって言うなら、利き腕にしたほうがいいっていうシャレです」
「これも、オシャレって言っていいんでしょうかね。」
「……ずいぶん奇妙ね、2600mなんて」
「でも、ハルカとブランと私は異論ないけどね」
「あー……私は割と賛成かな、2600m。」
「そうやってまたアナタはこの子の肩を持つのね……」
「今日くらいはさ」「オレも、2600mでガマンしてやるとするか」
「冗談よ、そうなると思ってたわ。1000m伸ばされなかっただけ感謝しないと」
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⸺....
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どうしても言わなくてはならない、そういって引き留めた。
2600mという距離の一つの目的は、もちろんあの日の約束にあったけれど。
「日本のウマ娘のマラソン記録が、なかなか世界に置いて行かれ続けている理由、あるいは男子との差をなかなか縮められない理由、わかるかしら。」
少し間をおいて、ふるふると首をふるったのが、ハルカゼダヨリだった。
……だって、だって。
あの女にどんなに言われようとも、この子ほど、見初めた子なんていないんだから。
最初は、私が寂しくなるのがいやだったから。
でも、東京で「理外の」1勝を挙げたあたりで、少しずつ違う理由も積もってきた。
……見た目で明らかにパックを引っ張っていたのはブランさまだった、ヘイローさまだった、でも、でも、私が無理に前に出てでもと思ったのは、ペースを無理やりコントロールしに行ったのは……。
「……いろいろあるんだけれどもね、どこまで行っても本質的に多走と長距離に弱いのよ。日本は特に。」
「正しく言うなら、三女神式レースを頂点とする体系そのものがそうなのだけれどもね。」
「もう私は、何かをアドバイスする立場にないから、今のあなたは良く戦えていて、信頼を置けているということだけを伝えたいの。」
「そして、何かを言いたいわけではないの。」
「余した3ハロンだけ」
⸺こうしていたいだけ。
オーバーワークとも、オーバーペースとも、スローペースとも、単に何も言わなかった。
とっても賢くて、とっても静かで、根も上げずにその分だけ、強かで。
「……私が甘えたいだけ。」
鉄骨じゃ感じられない温もりに、しっかりと熱が通っていることを、確認したかった。