14:00。
ランニングデートが、本当にランニングデートであることがあるだろうか。
「コースどうしようっか」
……本当は、そのくらいの温度であった方がいいんだろうけども。
「1時間で帰ってこれるような場所だったらどこでも構わないわよ」
と、ヘイローさまは腕を振りながらも、いつものリーダーシップは控えめにしながら、静かに笑うだけだった。
誰も彼も、適当に場所決めて行って帰ってくるくらいしかできていないから。
「だから、今日くらいはアナタが決めなよ。」
セイリングデイズの柔らかくもどこか違和感のある目。
じゃあ……いつものコースでいいかな、なんて。
どこが『日常』なんだろうか。
いつも通りという意味ではそうなんだろうけど、非日常に生きてきた今を変えないことには『日常』ではないでしょうに。
最初こそ、ブランさまがいろいろ気を利かせてくれていた。
音楽の話をしてくれたかな。流行りのJ-POPの話とか。イヤホンを交換すると、昔ながらのチップチューンに、イマドキのロックとか。ハルカと私なんか、脈絡ない音楽を張り合わせてて、なんか似た者同士だなと思ったりとか。
……それで、自然とレースの話に戻ろうとしていった。年度明けの目標はどうだろうか。とりわけ春の大一番はかなりの人数が狙いに行くようで。
代わりの話なんて見つかるはずもない。私たちは根からのアスリート。そうあることでいろんなものを押しとどめてきた。
かっこう、かっこう、と歩行者信号が鳴き出すころには、整然とした足音だけが共通言語になり果てていた。
それでもバラバラには、なりたくないんだよなぁ。
誰とも知れない言葉だった。きっと、隊列の中の言葉じゃなくて、通りすがったストリートミュージシャンのリリックだったか。
「ピクニックだと思って、サンドウィッチをお持ちしましたわー。」
「そういえば、どこに向かっておりますのかしらー?」
ハルカゼダヨリらしい、大分遅れた台詞。
いつもいつも、それに助けられてしまう。
「ちょっとわかってなかったけど、ピクニックだって言うなら……一つ心当たりがあって。」
ふらふらと、あてもなく東京郊外の文教地区を走り回っていた目標を、一つの標準位へと定めた。
めいめいに転がり、座り……。
"芝"ではなく、"芝生"を全身でかみしめながら、空を見上げる。
アパートと家と商店街と、アパートとアパートと、一軒家と……という、平穏ながらも雑然とした街並みも、ここだけ切り取られては晴れ渡っている。
多摩地域に広域公園などいくらでもあるのだが、ここの空が特別に思えるのは、また違う意味なんだろう。
「どうしてもきちゃうんだよね、天文台の跡地」
ツナサンドを持ったまま、今となって考えればまだ話すことがあっただろうに。
「星が好き」でも、「森が好き」でも、何なら「サンドイッチが好き」でも、それを踏まえて「別に大先輩に憧れたわけじゃなくて」でも、何でも言えた気がする。
どうしても、ここに来た時の思索が漏れてしまう。
「スイセンももうそろそろかなぁ……。」
毒草という断りとともに柵で囲まれている白い花にふと視線を落として語る。
「スイセン、別にさわるくらいならいいのだけど、葉っぱがニラに似てるから間違えて食べると大変なことになる」
「なんて話は、有名かな」
花の話、できないわけではないけれど。
めいめいに、物思いにふけっていた刻限だからか、注目が集まってしまう。
「ああ、生まれが諏訪でさ。」
「父さんが天文学者、母さんが時計職人の一家、ただ会社やってるせいで転勤ばっかりで。」
「日本のどこに行ってもある山とか、そういうものにしか目がいかなかったんだよ。」
しゃくり、と玉ねぎの音が甲高く響いた。
「……対極に、友達は多くはないかな。」
「そりゃあ、進学科の面々には歓迎されるみたいに、時々の場所で人気者になることはあるけども」
「転校したらそれっきりって、よくあることでしょ」
「勝負服の刺繍にはサラサドウダンとかショウジョウバカマとか、花言葉のそれを入れてるけど」
「一番の友達は、それでもタンポポだったかな。」
どんなに栄えている街でも、必ずアスファルトとコンクリートの隙間には土がある。
タンポポは、かえって除草が面倒なほど、公園から道路脇にまで必ず芽生えてくる。
つぼみを拝借して、ミカンの皮でも向くようにしながら、未熟で濃厚な黄色を広げていく。
「……ちょっとわかるでしょ、特別な施設とかがいらない、ただただ『走ること』にだけ情熱を傾けるのが。」
人様に向けるべき言葉なんて、どうしても見つからなくて。
私には、粗雑な雑草のブーケしかありません。
「一人になりたがっていた」というのは、こういう時に使うべき言葉で、
「一人にしてはいけない」というのは、こういう時に自分に使うべき言葉なのに。
「ありがとう」という言葉も探し切れずに。
「自分ばかり、悪かったわね。」そっと自分は立ち上がった。
『ちゃんと日常できてるじゃないの』
君たちを何も知らないでいるのは辛いんだって、そういうこともまた言いだせないまま、ブランミストラルの言葉に「そうなのか」と要領の得ない答えをしながら、様子を見ながらそろそろと歩きだし。
そして知らぬ間に、駆け出して。
抜け出して。
「まずい、一時間の約束でしたわよね」
走り出していく。
「元気になったみたいでよかった」とジャンプレースの同輩はそれに合わせてくるし、
「ああっ、おまちくださいませーっ?!」とハルカがどうにかランチボックスを引き上げて走ってくる。
どこかで、オルゴールの狂った調律の音が聞こえた気がしてとどまる。
「はぁっ……はぁっ……無理した戻ったところでオーバーワークになりますでしょうに、少しは落ち着きなさいっ!」
「どうしてこう……私よりも不器用なのかしら?」
ヘイローさまにブランさまと、次々と追いついてくる人影に我に返り、謝り倒しになる中。
あの女の目だけは。物憂げというより、真剣というより、なんだか怒りのようなものがして竦んでしまった。
「オルゴールか……」
弦にしろ、ピンにしろ、歯抜けになれば不格好でどうしようもない。
ふつふつと憂鬱が溜まる中で、もうひとつだけ、大切にしていたものに住んでのところで救われた気がした。
アンティークショップのウィンドウ越しに流れてくる音楽に耳を傾ける。
"ソ"の音の調律がズレてる。
メンデルスゾーンの『春の歌』。
夏合宿の時にどこかで聞いたことのあるような、ないような。
その1音のように、セイリングデイズのあの目の緊張が、忘れられなかった。