高市早苗という現象

さよならおやすみ
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公開:2025/10/14

高市早苗が支持される理由がよくわからないが、わからなくもないというお話をする。

まずは拙著、アニメーターの老後を読んで欲しい。わたしの自伝的小説で、アニメーターになってからいままでの経緯が、誤魔化しながら書いてある。

読んでいただけただろうか? いや、だれも読んでいないだろうが、まあ、それで構わない。話は続ける。

僕の好きなドラゴンクエストXというゲームに、ゲゼルマインというキャラクターが登場する。おそらく「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」が元ネタで、それぞれ「機能性社会(契約社会)」「地縁血縁社会」の意味だ。ドラゴンクエストXの登場人物は恐ろしい数に上り、ヒメア≒姫? や、アバ様≒ばあ様? などの単純なものから、ギルデンとクランツのようにわかるものだけニヤリとするようなキャラまで無数に登場する。ネーミングは概ねテキトウだ。ゲゼルマインもぐうたらとした天使のおっさんで、名前こそ社会学に由来しているが、たいした意味はない。

『アニメーターの老後』は、地元の地縁社会を出て上京し、契約社会に身を投じるクリエイターの話だ。主人公は東京でアニメーターとして半生を送り、しかしそこでは老後の保証も得られず、地縁社会へと回帰する。ここで書かれる田舎の地縁社会をゲマインシャフト、東京の契約社会をゲゼルシャフトと近似していい。この、地縁社会と契約社会の対比は、僕の他の著書にも見られる。『アニメーターの老後』の実質的な続編であるひきこもりのユミがアニメーターになるまでにも見られるし、ハードSFである浮遊大陸でもういちどもそうだ。

これは僕自身が、親と折り合いが悪く、地元に馴染めずに上京し、契約社会で四苦八苦した経験によるものだろう。おそらく僕だけではなく、なにがしかの夢を見て上京したものの多くは「このまま夢を追うか、地元へ帰るか」で悩んだことがあると思われる。拙著では勇!! なるかなにそういう人物が複数描かれる。

ドイツの社会学者テンニースによれば、社会はゲマインシャフト(=地縁の社会)から、ゲゼルシャフト(=契約の社会)へと変容するのだという。僕もそれは当然のことだと思う。地縁社会のしがらみは息苦しく、閉鎖的で、因習に塗れ、ときに呪術的で、自由がない。法よりも慣習が支配し、ろくな契約もなく、人情で縛られ、顔役に気に入られれば出世するが、機嫌を損ねると爪弾きにあう古い社会だ。他方、ゲゼルシャフトは契約をベースに築かれ、才能によって職を得て、合理的に目的が遂行され、自由がある。そして僕もテンニースのように、社会はゲマインシャフトからゲゼルシャフトに移行するものだと思ってきた。もちろん、アニメーターになろうと決意した高校生時代にそんな言葉を知っていたわけではないが、だけど地縁社会を逃れ、自分の才能で勝負するのだという意識はあった。

なかば僕は地元因習への、あるいは親への怨嗟を昇華するつもりで『アニメーターの老後』を書き始めた。そこで僕は、社会は変わるのだ、保守的な因習に縛られない自由な社会を築くのだ――と、結ぶつもりだったが、なぜかこの物語の主人公は、契約社会には自分の居場所を見いだせず挫折した。自分で書きながら、正直、こんなはずじゃないと思った。いや、こんなはずじゃないのは、僕の人生だ。こんなはずじゃなかった。

そしてこの物語の最後のほうで登場した「ひきこもりのユミ」は、裕福な家に生まれ、才能もないのに絵描きになると言っており、「こっちを主人公にすれば、腕だけで契約社会に羽ばたく物語が書ける」と思って続編を書き始めた。田舎の因習のなかで社会に馴染めず引きこもり、それが東京という契約社会でアニメーターとしての腕を開花させて、スターダムにのしあがるのだ。ゲゼルシャフトバンザイだ! だが、こっちは契約社会に馴染めないどころか、田舎のヤクザの人脈に頼る結果になった。いったいどういうことなのか。自分でも首をひねったが、要は現状で「契約社会」は成立していないのだ。いくら理想としてそれを掲げていても、現実に社会を支えているのは、広義のヤクザだ。ヤクザが公共事業を回し、ヤクザが人材を派遣・管理し、ヤクザがセーフティネットとして機能している。

ヤクザというのは、いわゆる無法者だ。ヤクザの間には掟があるだろうが、明文化された法ではない。地縁血縁は救えども、無関係なものにまで手を差し伸べない。それはそうだろう、古今ヤクザなどどこにでもいて、鎬を削りあっているのだ。自分のシマの人間は助けても、それは、味方だからだ。敵まで助ける義理はない。そしてそれこそがゲマインシャフトであり、社会はやがて成長し、法によって平等にすべてを救うゲゼルシャフトへと変わっていくのだが、現実には、変わっていない。それをいま変えている最中で、変えなければいけない、ヤクザにまかせてはおけないと、左派の人々はやっきになっており、それはそれで重要なことではあるが、現実には、変わっていない。いつか変わるだろうが、いまじゃない。

つまり、ゲマインシャフトは右翼的・保守的、ゲゼルシャフトは左翼的・革新的と(雑に)言い換えることができる。高市早苗に代表される自民党右派、あるいは野党のなかでも右派にあたる党とその支持者は、ゲマインシャフトをベースとして考えるひとが多い。このサイトの教育勅語批判なる記事にも書いたが、教育勅語はゲマインシャフトの色合いが濃い。ゲマインシャフトの社会であれば当然支持されるだろうことが書かれており、その視野で見ればごくまっとうなことに思える。そして左派が言っているのは、テンニースと同様、そこからゲゼルシャフトへと進行せねばならない、という未来へ向けた主張だ。

ゲマインシャフト的な右翼と、ゲゼルシャフト的な左翼の対立は、「情緒・心」と「法・契約」の対立に置き換えうる。温かい「情」と、冷たい「規則」でもいい。理屈上はそうではなく、もっと複雑な話になるが、民主主義社会で大衆に訴えるにはそう複雑な概念は届かない。そしてそうやって情緒に訴えられ、強く心を動かされたら、その訴求力は法に勝る。もちろん左派の側からも社会的弱者の救済などに関しては情緒に訴えるだろうが、だが実は、そこには矛盾がある。我々は情緒を学ぶ際に、「身近なものに置き換えて考えなさい」と聞いて学んでいる。要は原理的に、身近なものにしか「情緒」は働かない。

ちなみに、このサイトにLa Luciole のこととして投稿した記事に、自分は実存主義者だと書いた。思想的にはポスト構造主義唯物論的ニヒリズム寄りポストヒューマニズムあたりが立ち位置らしいが、文学的には実存主義で、作品からはサルトルやカミュが強く匂っている気がする。ただ、ゲームはユーザーとの二人三脚である部分もあり、カミュほど理不尽ではなく、まだ理想主義の側面を残してはいると思う。ゲームのシナリオライターには理想主義のひとが多く、僕の世代のひとには象徴主義者も少なくない。

これらの何々主義というのは、宣言してそうなるものでもない。いろいろと書いているうちに、絵描きが自分なりのセオリーを身につけるように、作家も自分なりの創作のセオリーを作り上げるものなのだ。意図して選んだわけでもなく、絵描きが簡単に作風を変えられないように、文筆家の作風もそうそう簡単に揺らがない。僕もこの歳になって、ひとからあれこれ聞いて「ならばこちらの主義に乗り換えるか」なんてことはなく、ただ「書きたいもの」「書くべきもの」に合わせてしか「主義」は変わらない。そういう意味では「主義」ではなく「手技」なのだ。僕は「実存手技」の書き手だ。

そしてここでまた『アニメーターの老後』に戻ろう。この小説に登場する名村英敏は、知人の名を拝借して入るが、とりも直さず僕自身だ。主人公は、地縁血縁の社会を捨てて、アニメーターになるべく上京した。先にも書いたが、腕だけで勝負するつもりの上京だった。そして上京後すぐにアジア最大の脚本家・小山高生と知り合い、そのコミュニティの周縁に生息し、その人脈によって仕事を得、ひとを紹介してもらった。それは才能からではなく、小山と同じ宗教を信仰する友人がいたおかげだ。その宗教への勧誘を無碍に断るわけもいかず、義理で立川の道場に通い、その道場でも多くの知り合いができた。そしてその小山高生が高市早苗を支持している。ほぼ毎日のように立川の真光道場へ通いながらもその入信をのらりくらり躱し続けた輩が、それに気がついたところでという話ではあるが、「地縁」あるいはもっと単純に「縁(えにし)」という語を胸に思うと、そこに浮かぶ景色はある。

上京した僕がゲゼルシャフトだと思ってきたもの、その大半は、東京という田舎で築いた地縁だった。漫画もゲームもやりたいやりたいと言っていればその仕事が舞い込んだ。才能からではなく、縁があったからだ。いまもそうだ。小説を書いてサイトに公開して見てくれ見てくれと言っていたら仕事が来た。縁があったからだ。それでもなお、地縁社会、ゲマインシャフトを否定し、契約社会、ゲゼルシャフトの到来を夢見ているのだから、まるで自分の腕で成り上がったと思い違った思い上がりだ。

と、これらの前フリを経て、ここで誰それを支持している、支持しないと書くのは簡単だ。だが、随筆として語り得るのは、「上辺の言葉」だ。いくらでも嘘をつける。「いやいや、高市早苗はクズだろう」「なにを言っているんだ、高市早苗が日本を救うのだ」と、反論を受けて、そこに僕が再反論を加えるとしても、たぶんそれは僕が言いたいことではなく、「反論されたのでこう言い返してみました」程度のものにしかならない。SNSは自由闊達な議論の場ではなく、自分を虚飾する場だ。僕はその議論に、一切の価値を感じない。

しかし、作品は逃げられない。

『アニメーターの老後』『ひきこもりのユミがアニメーターになるまで』に書いたことから、僕は逃げられないし、それが僕の思想だ。もちろんそこには「高市早苗を支持する」とも「高市早苗を拒否する」とも書かれていない。そしてそれは、重要なことではない。作品にはそんな表面的なことではなく、僕が政治や生活や未来をどう捉え、政治家として誰を選ぶかという「ロジック」と「原体験」が描かれている。それは僕にとって、「誰に投票するか」などよりずっと重要な問題だ。そして、それを共有するために僕は、物語を書いている。

@sonovels
さよならおやすみノベルズという個人小説レーベルで地味に書いています。サイトで読めばタダ。Kindleで100円。 sayonaraoyasumi.github.io/storage