仮題は「続・感じた想いを論ずるって、むずくね?」である。
以前、私は「ミュージカル『刀剣乱舞』〜葵咲本紀〜」の感想を書いたことがある。あれから、もう5年くらい経つようだ。感慨深い。
私は当時抱いた自分の感想が面白おかしかった。だから、本当は原文そのまま転載したかった。しかし、しずかなインターネットで再掲するにあたり、どうしても当時のひけらかし過ぎるスタイルと、今の「いろいろ切り分けて発信したい」という思想がどうにも合わず、加筆修正する羽目になった。
あの内容を要約すると、「鶴丸国永が好きすぎて葵咲本紀のストーリー内容を何も覚えていない」ことをただダラダラと綴っているだけである。それが私にとっては「面白い」のである。
この頃の私は「自分が何を考えているのか」を旦那と一緒に整理しなければ、自分の感情に名前を付けることもままならなかった。未だに己の感情に飲み込まれてしまうことはあるが、この頃の私にとって、己の強い感情が恐怖の対象でもあった。名前のない怪物のように見えていたのだ。
おそらく、このときの私が「鶴丸国永を観て涙した」のも「葵咲本紀のストーリーをあまり覚えていられなかった」のも、強い感情に名前を付けられなかったゆえのことだろう。未だにスクリーンで鶴丸国永や三日月宗近を観て、興奮の渦に飲み込まれ、記憶を消し飛ばしてしまうくらいだ。
強い感情を抱いたとき、そのときの出来事のほとんどを忘れてしまう。これは、ある種の防衛本能のようなものが働いた結果なのかもしれない。その感情に名前を付けられれば収まってくれるはずなのだが、これがなかなか難しいことがある。名前がつけられない怪物を鎮めるためには、細かい記憶を代償とするしかない。
このときの私の偉いところは、怪物――もとい大きな感情に名前を付けようとしていたところである。名前の付け方が分からないなりに「自分はこう思ったのだ」と描写し、書き留めておきたいほどに強い気持ちを抱いたのだと綴る。そして、この興奮を誰かに伝えたいと願う。今も昔も、その性質は1ミリも変わっていないところが、自分でもなんだか可笑しくなってくる。
以前、私は「感じた想いを論ずるって、むずくね?」という話をした。
感情に名前を付けられない状態で、感じた想いを論ずるのは、本当に難しい。しかし、そんな状態でも、書こうと思えば書けるのだ。過去の私のように「鶴丸国永が好きすぎて葵咲本紀のストーリー内容を何も覚えていない」ことを、約2500字で書き綴ることもできる。私は芸人ではないのだ。オチがないエンタメがあっても良いだろう。
などと、感想のハードルを下げに下げて、この話を終えるとしよう。ふふ、残念だが、私の話にオチなんてないぞ。