2025年6月8日にXのスペース機能で開催した音声配信「眞鍋せいらのぐうたらジオ」の文字起こしです(読みやすさなどのため適宜編集しています)。
Dr.ギャップはゲストとしてお邪魔し、同月プライド月間に合わせて発行した同人誌『いるよの話』のことなどお話させていただきました。
全体で26,000字程度あるため、三分割で公開しています。
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目次
#1の内容
自己紹介&導入
『いるよの話』制作について
二人の出会い
用語の確認
言葉の選びかた使いかた
#2の内容
「当たり前」でなくしていく
マシュマロへの応答
違うまま連帯することとフェミニズムをめぐって
#3の内容
短歌の話
〆のご挨拶など
短歌の話
眞鍋せいら
ちょっと聞きたいのは、この本の最初に自作の短歌を載せようと思われたのは、載せようって感じで載せたんですか? それとも、これをするには短歌がいいに違いないとか思って詠まれたんですか?
Dr.ギャップ
自分は趣味で短歌を作っているので、その流れで短歌を入れたいなっていう気持ちがまずありました。
最初は連作っていう、短歌を複数でひとまとまりにしてタイトルも付けてといったスタイルのものを入れるつもりだったんですけど、それがうまく作れなくて。でも自分は短歌が好きだし、本にも短歌を載せようと思ってますと言っちゃってたから、どうにか載せなきゃなみたいな気持ちもあって。で、本の頭にエピグラフみたいに載せるならまとまった数でなくてもいいかと。
眞鍋せいら
なるほど、なるほど。
Dr.ギャップ
情けない話をしちゃったな。
眞鍋せいら
いやいやいや。
Dr.ギャップ
あとはそうですね。短歌で連作を作ったらそこに主人公みたいな人が生まれると思うんですけど、自分をそのまま主人公にするのもあんまりなー、でも架空の主人公を作るっていってもステレオタイプを作ったり強化したりするようなことはしたくないなと思って。
ちなみに、自分をそのまま主人公にしたくないのは恥ずかしいからという話ではなくて、自分の短歌の主義の話です。作者と短歌の主人公は必ずしも一致しないというふうに短歌を読みたい、みんなもそうしてほしいみたいなものが自分のなかにあるのに、エッセイ集みたいな本のなかで主人公イコール作者みたいな短歌を載せるのはなあという。
眞鍋せいら
なるほど。
Dr.ギャップ
この短歌の主人公が作者であろうっていう風に読まれることについて、読者一人一人がそう選んで読むのは気にしないんですけど、短歌ってそういうものだよねって後押しするようなものを自分が作るのは、まして普段あんまり短歌に触れない人も手に取ってくれるだろう本のなかでやるのは気が進まないなという思いがありました。
眞鍋せいら
結構根強い問題でありますもんね、短歌の読みとしては。
Dr.ギャップ
作品の主人公イコール作者っていうふうに読んで悪いってことはないんだけど、どの短歌でもそうだと思われるのはちょっと嫌というか。
そう読む人はそう読んでも良いと思うし、作者もある程度そういうふうに読まれるだろうなという予想とか、それが主流になっている部分もあるだろうと踏まえて作ったりとか、あるいは実際に自分の体験やエピソードベースで作っている人も多いのかなとも思うんですが。でも、短歌の読み方ってそれがベースだよねっていうふうになっていくのはちょっと避けたいというか、抗いたいという気持ちがあるっていう感じですかね。
眞鍋せいら
なるほど、ありがとうございます。
そうなんですよね、それがベースだとは思わないで欲しいという思いは私もありますね。
Dr.ギャップ
自分は作者イコール主人公だと思って読むスタイルでやってますっていうのを最初に出してくださったうえでそういう読みを展開していくんだったらいいなっていうふうに思ってます。自然とね、それが読者のいちスタンスなんだっていう風には意識せぬまま、ぬるっとそういうものだよみたいな感じがある気がする。
眞鍋せいら
そうなんですよね。それこそ川野芽生さんとかが批判的に言及されていますけど、短歌の恋愛史上主義というか。恋をしたらいい歌が詠めるよって言うとか、この恋愛の歌を詠んでいるからには作者は恋をしているに違いないとか、そういう暴力的なまでの作中主体イコール作者プラス恋愛史上主義みたいな、重ね合わせみたいなのがあるんだろうなと思うんですね。直接何かあったわけではないんですけど、うわー、根深いと思って。
Dr.ギャップ
作者と主人公を重ね合わせるとか、恋が出てきたら男女の恋だろうとか、短歌のなかに大切そうな「あなた」が出てきたら恋愛の相手みたいに見なすとかいうのは、自分もわりと心地が悪いとか窮屈な気持ちがあって。
でも、自作の短歌に「あなた」を登場させて「恋の相手じゃありませんでした」みたいなのをやるよりは、読むほうで何かをやっていきたいと思うんですね。誰かが作った短歌の「あなた」について、大事な友達とか、親子とか、ペットとか、あるいは推しのキャラクターみたいなものとして読むとか、この主人公って作者とは限らないからこういう人をイメージしましたみたいな、そういう風にして今ある「こうなんじゃないの?」を、「恋愛とは限らんよね」とか「作者とは限らんよね」みたいに読みで示すことで、覆すというか抵抗というかができるんじゃないか、自分はそれをしたいなみたいなことを思っています。
眞鍋せいら
はい。読むほう、readするほうですけど、批評っていうか読むっていうのは責任がいろんな形で伴うというか、引き受けるものとしてやるみたいなところがあるんですよね。自分の思い込みとかが如実に出るじゃないですか、批評するほうって。だからそれに対して常に批判的であるっていう、自分はこう思うけどそれはどうしてなんだろうとか、自分はこの関係を恋人同士で解釈したけどそれはどうしてだろうとか、そういう問いも必要だなと。というか本来きっとそういう営みなんであろうなと。ギャップさんが今までくださった評とかを思い返しつつ。
Dr.ギャップ
恋愛として読むこと自体はいいんですよ。これはあくまで自分が思うことなんですけど、恋だって思ったほうがときめくのでこう読みましたっていうのであれば全然いいから、「恋って思ったほうがときめくので」っていうのも評などの文章のなかに置いておいてほしい。
逆に言えば、自分はそこら辺の表明さえあれば、こう読んだほうがときめくのでみたいな趣味を混ぜて読むことは気にしないというよりもやりがちです。でも、それはもしかしたら一部の人にとっては「書いてないことを勝手に読んでくる」みたいなことがあるかもしれない。でも書いてあることをどう読むかっていうときに、こう読んだほうが自分はハッピーになるんでちょっとこう読ませてほしい、みたいなのがあります。
眞鍋せいら
なるほど、なるほど。
Dr.ギャップ
無理やり言葉の意味を歪めたりっていうことじゃなくて、短歌を読んでいてA、B、Cの可能性があるとして、妥当性は同じくらいかもしれないけどAが好みだな~みたいなときの話ですね。
眞鍋せいら
よくわかります。ギャップさんが書いてくださる評ってそうなんですよね。A、B、Cあるでしょうけど、私はこういう理由でAを取りましたとか、今回はAでいきますとか、書いて読んでくださる。
Dr.ギャップ
それでやたら長くなっちゃうっていう。
眞鍋せいら
いやいやいやもう最高、長ければ長いほど嬉しいです。すごい画面いっぱいにあるみたいな。
いや、言葉を失って「良い」だけでもすごい嬉しいんですけど。本当にギャップさん丁寧に評を書いてくださることで私のなかではすごい有名なんですけど、言葉を失ってるときもあって、それもそれで味わい深い。
Dr.ギャップ
せいらさんがそう言ってくださったのを自分も覚えているので、たまに言葉を失って「あー!」ってなったときも、(まあでもせいらさんが前にああ言ってくださったし、ちょっと今回は「あー!」で許してください……)みたいな気持ちで書くこともあります。でもやっぱり、なるべく「あー!」の中身を説明していきたい。
眞鍋せいら
どっちも嬉しいんですけどね。評ももっとやっていきたいな、なんか頑張りたいなの気持ちになります。ギャップさんを見ていると、私もこうやって丁寧に一首一首向き合っていきたいなと思いますね。本当に尊敬。
Dr.ギャップ
ありがとうございます。
眞鍋せいら
評をするなかで結構鍛えられるのは、二次創作短歌とかイメージ短歌とかありますよね。 そんなことない?
Dr.ギャップ
評をするときですか。
眞鍋せいら
評をするときです。
Dr.ギャップ
イメージ短歌というのは、このキャラクターにはこの短歌が合うと思いますみたいなくっつけ遊びですね。
イメージ短歌で「このキャラにこの短歌が合うと思ったのはどうしてか」を説明するのには、ある程度そういう説明の必要が出てくるかなっていう気がしますね。だからそのための力も身につくかもしれない。
眞鍋せいら
そうですよね。キャラクターについても当然そうですし、これこれこういう理由でこの短歌を読みましたっていうのも練習になるし、評として高度な技かなって思います。
Dr.ギャップ
まずこの短歌からどういう状況を読み取りましたみたいな説明をして、その状況がこのキャラとくっつきましたみたいな話になるかなと。
眞鍋せいら
そうですね。イメージ短歌もっとやっていきたい。勝手に急に抱負を。私、批評するほうが苦手だっていう自覚があるので。
Dr.ギャップ
そうなんですか。
眞鍋せいら
そうなんですよ。本当に苦手なんですよ。短いでしょ。短いから苦手ってわけじゃないですけど、困っちゃうんですよね。なので以前クローズドな短歌教室とかやったときもギャップさんにどうしましょうとか言って助けてもらったんですけど。
読むのってやっぱ難しいですよね。短歌って読みやすさとかないじゃないですか。ある場合もあるけど。わかりやすく伝えたいって思ったときに短歌を作る人ってあんまりいないんじゃないかなと思っていて。
Dr.ギャップ
未来の自分に託すときは短歌を選ぶこともあるかもと思いますね。
あと、いま聞いてくださっている方が短歌とどういう距離感の方かわからないのですが、『いるよの話』に載せたものもそれ以外の自分の短歌も、自分が作った通りに読んでくれなきゃ嫌だっていうことは全然ないので、そこだけは今ちょっとお伝えしておきたいなと。むしろ、「短歌を読んでこういう景色が広がりました」っていうのを教えていただけたらなるほどって嬉しくなるので、あんまり怖いと思わず気軽に読んでいただけたら。
眞鍋せいら
本当にそうですよね。ということですので皆さん怖がらずに読みましょう。
でも本当に難しいですよね。常にこういうことが言いたい、でもこういう読みも面白い、そんな読みがあったかなるほどと、いろんな感情を抱えながら短歌を作っている。でも未来の自分へ託すっていうのは初めて聞いた気がします。ギャップさんとお話していて。
Dr.ギャップ
確かにこれはどっちかっていうと二次創作じゃないときに思うことなので、これまでお話したことがなかったかもしれません。
たとえば花火見てめっちゃ綺麗だったとか、打ち上げ花火だと見上げることになってみんな首の角度が似た感じになるみたいな、どうでもいいけどちょっとハッとした気持ちとかを残しておこうって思った時に、短歌の形にしておくことはあるなと。写真とか日記の代わりですね。さっきしていた、主人公と作者は重なるとは限らないという話と矛盾するようではあるんですけど。
そういうのは他の人には正確なシーンとして伝わらないかもしれないけど、自分はそのシーンを知っているので、将来短歌だけ見たときに伝わるかもなっていう。
眞鍋せいら
なるほど、面白いですね。短歌作るタイミングって人それぞれですけど、そう思って作ってるときもあるという。そうですね。自分はどういうことを思って短歌作ってるかなって考えたときに、あんまり何も考えてないなってことに気づいてしまった。
でもなんか、ギャップさんのおっしゃる未来に思い返してっていうのはちょっとわかる気もします。自分の感情とか気持ちとかを手触りとして覚えておこうみたいな。そんな気がして書いているときもあるし、そういうときが一番よくできるというか、ぽんぽん詠めるかな。あんまり技巧的には詠めないんですけどね。あとは締め切りに追われて詠んでいるときはできますね。できないことも最近は多いですけど。
Dr.ギャップ
多いですか。
眞鍋せいら
締め切りに追われても詠めないときもあるっていう、難しいところ。締め切りに追われれば詠めるというものでもない。
Dr.ギャップ
本当にそうですね。
〆のご挨拶など
眞鍋せいら
そろそろあと10分弱なのでとは思いますが、なんかすごい頑張ってしゃべったな。ありがとうございました。
Dr.ギャップ
ありがとうございます。
眞鍋せいら
ぐうたらジオという名前の割にすごい真剣な真面目な話をしたので、すごいぞというか素晴らしいですね。ありがとうございます。
Dr.ギャップ
すみません、手ぶらで来て司会進行みたいなことをしていただいてしまって。
眞鍋せいら
全然、手ぶらでっていうのが打ち合わせでも決まっていたので。なんか話し足りなかったこととかありませんか?
Dr.ギャップ
むしろせいらさんのほうこそ司会役をしていただいたので、自分と関係ないことでも話し足りないこととかあれば。
眞鍋せいら
いや、ないです。
『いるよの話』のお話ですが、インスピレーションをもらったなというか、こういうことを考えて本を作られたんだなっていうのに頷くところもあり、自分とはちょっと違うけどこういう感じなのかなって思うところもあり。なので、クエスチョニングのZINE頑張んなきゃなって思いました。
Dr.ギャップ
今のせいらさんのお話で思い出しました。
眞鍋せいら
はい、どうぞどうぞ。
Dr.ギャップ
自分はクワロマンティック・アロマンティック・アセクシュアルがここにいるよとか、恋愛とか性愛とかって当たり前じゃないよねみたいな話がしたくてしてるんですけど、みんながこうしなきゃいけないとは思ってないです。自分の場合、一大決心みたいなものが良くも悪くもなくて、わりとのんびりやっているんです。なので、もし触発されてみたいな方がいたらそれは嬉しくはあるんですけど、「無理なく」という気持ちです。せいらさんも無理なく。
眞鍋せいら
全然無理してはなくて、無理することでもないなと思ってるので。ありがとうございます。
確かに確かに。 もう本当に健康第一です。健康じゃないからこそわかる健康第一。健康だったら健康であることが素晴らしいので、余裕と健康と生活の安定みたいな。毎日まあまあ楽しくのんびりするのがきっと大事なんだろうなと。そんな無理してやることでもないと思っています。
のんびりいきましょうね。お互い。
Dr.ギャップ
割と根がのんびりなので。
眞鍋せいら
素晴らしいことです。
私たちいつもおしゃべりするとき何時間もしゃべりますけど、どうでしたかラジオという形で。
Dr.ギャップ
最初めちゃくちゃ緊張してたんですけど、だんだんせいらさんと普段しゃべってるときのノリを思い出してリラックスできたというか。だから、リラックスしすぎててここの話聞いててよくわかんなかったよっていうのがあったら、何かしらの形で寄せていただけたらと思います。
眞鍋せいら
はい、Dr.ギャップさんのアカウントもありますし、私のアカウントでもマシュマロでもいいので、何かわからなければいつでも。ご感想や全然関係ない話でももちろん歓迎です。
あとは何か大丈夫でしょうか。最後にあります?
Dr.ギャップ
最後まで聞いてくださってありがとうございますというのと、聞いてくださっている皆様も愉快に楽しく暮らしていきましょうねという、すごいざっくりしたことなんですけど、そういう気持ちです。
眞鍋せいら
ありがとうございます。本当にそうですね。 愉快に楽しく暮らしていきましょう。私から言うと切実になるな。本当に皆さん、ギャップさんももちろん含めて、ハッピープライドマンスではありますが、いろいろな気持ちが飛び交うプライドマンスでもありますが、できるだけ愉快に楽しく暮らしていけることを私も願っております。
ではですね、最後に一点ちょっと宣言します。クエスチョニングZINE、きっと頑張って7月には出せると思います。きっと通販もします。
こちらで宣言されたZINEは無事に完成し、2025年7月に開催されたイベント「夏のZINE祭り」で初売りされました。通販のお知らせや今後の頒布情報が発表されましたら追記します。
制作告知記事はこちら↓
(2025年8月23日追記)
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Dr.ギャップ
(拍手)
眞鍋せいら
ありがとうございます。友達に拍手させるという。はい、では聞いてくださってありがとうございました。 皆さま、また新しい1週間楽しく愉快に、のんびり過ごされることを祈っております。
では失礼します。
Dr.ギャップ
ありがとうございました。
眞鍋せいら
ありがとうございました。
#1を読む
自己紹介&導入
『いるよの話』制作について
二人の出会い
単語の確認
言葉の選びかた使いかた
#2を読む
「当たり前」でなくしていく
マシュマロへの応答
違うまま連帯することとフェミニズムをめぐって