#2 眞鍋せいらのぐうたらジオ(2025年6月8日)文字起こし

Dr.ギャップ
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公開:2025/7/17

2025年6月8日にXのスペース機能で開催した音声配信「眞鍋せいらのぐうたらジオ」の文字起こしです(読みやすさなどのため適宜編集しています)。

Dr.ギャップはゲストとしてお邪魔し、同月プライド月間に合わせて発行した同人誌『いるよの話』のことなどお話させていただきました。

全体で26,000字程度あるため、三分割で公開しています。

音声は*こちら*

せいらさんのウェブサイトは*こちら*


目次

#1の内容

  • 自己紹介&導入

  • 『いるよの話』制作について

  • 二人の出会い

  • 用語の確認

  • 言葉の選びかた使いかた

#2の内容

  • 「当たり前」でなくしていく

  • マシュマロへの応答

  • 違うまま連帯することとフェミニズムをめぐって

#3の内容

  • 短歌の話

  • 〆のご挨拶など


「当たり前」でなくしていく 

Dr.ギャップ

松浦優さんの『アセクシュアル・アロマンティック入門』という本では、規範の話に結構ページが割かれているんです。

規範っていうのは、たとえば恋愛や性愛が当然のもののように見なされていることとか、あるいは男女で恋愛や性愛するのが当たり前だよねという見なされ方とか、恋愛とか性愛に関する「当たり前」がいろいろあるよねっていう話が説明されているんです。

で、自分がアセクシュアル・アロマンティック・クワロマンティックですってなんで名乗るのかと言えば、そういう人がいるって知ってもらいたいっていうのがもちろんあったんですけど、「だから何なの?」って言われるとちょっと悩むなと思ってたんです。でも、この本を読んで規範の話を振り返ったときに、みんな恋愛とか性愛って当たり前って思ってるかもしれないけど、それが当たり前じゃない人がいるから、 そんなに当たり前じゃなくてもよくない? って話がしたかったというか、そこにつなげることに意味があるのかなと。恋愛も性愛も当たり前じゃない人がここにいるし、じゃあ個人の感覚にしろ社会制度にしろ、恋愛や性愛がみんなにとって当たり前ではない形になっていってほしいってことを思ったんです。

「恋愛や性愛で惹かれないってどういうことですか?」っていうのはそんなに重要じゃないというか、もちろんある人の人生において重要なことはあるだろうし、恋愛があるのが当たり前という感覚の人からしたら「それってどういう感じ?」というのが気になるかもとは思うんですけど。自分も「恋愛ってどういう感じ?」っていうのは気になるし。ただ一番大事なところとして、そもそも惹かれるのが当たり前ですよねっていうところが違うくない? みたいなことを思います。

 

眞鍋せいら

ありがとうございます。なるほどなるほど。そうですよね。

異性と恋愛して当たり前であるとかっていう規範を疑っていくというか、個人レベルの感覚の話であり、社会制度みたいな大きい話であり、レベル間でそれぞれ規範の表れがあるとは思うんですが、本当にそうですよね。当たり前であるっていうのがすごく強いですよね。

全然疑ってもみなかったみたいな人が、もしかしたら何かのきっかけでこの本を手に取って、これってどういうことなんだろうとか思って、恋愛で惹かれるとか性愛で惹かれるとかって当たり前じゃないんだっていうふうに思ってくれたら、私は勝手に嬉しいというか。

 

Dr.ギャップ

そうですね。 別にそこで悩んでなければ気づかないままでもいい、って言うと変なんですけど、自分の場合は自分のことを「恋愛に興味がない」とだけ思ってたときでもそんなに支障がなかったんです。そういう自分のような人は、もしかしたらアセクシュアルとかアロマンティックとか恋愛の規範のこととか気づかないままでもつつがなく暮らしていけるかもしれないから、自分を支えるための言葉とか仕組みみたいなものって必要じゃないかもしれないんですけど。

でも、自分も含めてAスペクトラムの側なら規範を作り出さないとは限らないから、当たり前をばらしていこうっていう話をすると、みんなそうだよみたいな。その意味では、Aスペクトラム当事者であるかどうかを問わずみんな気づけると良いなと思います。

 

眞鍋せいら

なるほどなるほど。当たり前をばらしていくって面白いですね。今ギャップさんが、アロマンティック・アセクシュアル・クワロマンティックである自分も規範を作ってないとも限らないけどっていうのを一言挟んだのを聞いて、結構ハッとしたというか。

読んだよってギャップさんが言ってくださった私の文章で、自分のことをクィアだと思うんだけど、いつからクィアだったかとか、本当にクィアなのかとか、自分のなかなり他のクィアからなりの問いが結構しんどいっていうものがあるんですが、そういうことを私はぼんやりずっと思っていて。

私が思っているのは本当にグラデーションなんだなっていうのを、今の話を聞いてて思ったんですね。アロマンティックとはこういうもの、アセクシュアルとはこういうもの、クワロマンティックとはこういうものっていうのがあるんじゃなくて、ある意味ではあるんだろうと思うんですけど、そういった言葉にどう自分を位置づけるかっていうのは本当に難しいけれども、人によるというか、自由でいいはずというか、それが規範にならなくていいはずなんだなっていうのをちょっと思いました。アロマンティックとそれ以外があるとかじゃなくて、クィアとそれ以外があるとかじゃなくて。

 

Dr.ギャップ

アロマンティックやアセクシュアル、クワロマンティックの他にも、マイクロラベルって言われるような性的指向・恋愛指向に関する言葉たちについて、自分の場合はですけど、「自分はこれです! ババーン!」っていうよりは、説明するときに使える手札ぐらいに思っているんですね。

さっきの話ともつながるんですけど、クワロマンティックという言葉や存在について解説した文章を読むと「クワロマンティックとは何かを理解しきれてないかもしれない」と思ったりもするんです。でもそう思いながらも自分を表す言葉として使っているのは、そう言ってしまったほうが通りがいい場面があるとも感じるからなんです。

違う部分があったとして、そこは後から付け足しで調整していってもいいかなみたいな。「本当にこれかな?」っていう気持ちもあるけど、「自分は本当にそうか?」っていうのは、その言葉にふさわしい自分なのかなっていうよりは、自分が自分を説明するとき使う言葉として適当かなっていう、そういう振り返り方が多いかなと思います。

せいらさんの「自分をどう位置づけるか」というお話を聞きながら思ったんですけど、性的指向も恋愛指向も「これである/ない」っていうよりは、恋愛や性愛に関する規範のどこに居心地の悪さがあるかっていうところを示す言葉として使えたらいいなみたいな。すごいざっくりした言い方なんですけど。恋愛・性愛的に惹かれることとかその感覚とかってみんなが知ってて当然じゃないよねっていう形での規範への問い合わせというか。恋に落ちるみたいなのって当然じゃないよねっていうその先でアロマンティックという言葉を使うのだとしたら、実際の惹かれにおける「惹かれることはたまにはあります」とか、「かつてあったけどそれが本当に恋愛だったのか今はちょっと悩んでます」とか、そういう細かいところはいったん置いておけるというか、もうちょっと広く使える気がします。

 

眞鍋せいら

はいはいはい。

 

Dr.ギャップ

セクシュアリティについて、解説を並べるような本だとどうしても端的な言い方になってしまう部分があるというか、「そういう人たち」の真ん中の部分だけが抽出されるといったことが起こり得るような気がして、それを思うといくらかざっくりしているほうが気が楽というか。

 

眞鍋せいら

なるほど。

 

Dr.ギャップ

すいません、自分だけ気が楽になっても仕方がないんですけど。

 

眞鍋せいら

いやでも自分が気が楽になるっていうのすごい大事なんじゃないかなって思いました。手札って自分が決めて出すものじゃないですか。自分が主体であって、自分が楽になるなり説明しやすいなり、何かの目的のときに出すっていう感じがしますけど、ラベルは相手の分かりやすさを優先してるわけですよね。主体が全然違うんだなというか。だから自分が楽になるってめちゃめちゃ大事なんでしょうね。手札っていう考え方すごい良いなって思いました。

 

Dr.ギャップ

ありがとうございます。

あと、そう。ラベルとか名札にしちゃうと結構固定的というか、もちろん付け替えることもあるんですけど、 ある程度一定な感じがしますよね。相手との関係性とか、相手がどこまで何かを知ってるかや分かってくれそうかによって切り替えられるのは、手札のほうが身軽な感じがします。

 

眞鍋せいら

確かにそうですね。自分が楽になる、なるほど。なんかその発想は全然なかったな、面白いです。

 

Dr.ギャップ

ありがとうございます。

 

眞鍋せいら

なんかそうやって考えるとすごくいいなというか。本当に私はアロマンティックなのか、クワロマンティックなのか、アセクシュアルなのかって思うと、誰かに証明しなきゃいけないものみたいだけども、私はそれよりはギャップさんみたいに自分が楽になるというか、変わっていく状況によってどのカードを出すかとか出さないかとか、どういうカードを持つかとか、そっちのほうが息がしやすい気がしますね。

 

Dr.ギャップ

なるほど、なるほど。

 

マシュマロへの応答

眞鍋せいら

今のお話とちょっと関連するかもしれないのでお便りを読んでもいいでしょうか。

 

Dr.ギャップ

お願いします。

 

眞鍋せいら

マシュマロにいただいたお便りです。ありがとうございます。

眞鍋さん、Dr.ギャップさん、こんにちは

ちょっとここから聞くのつらい人もいるかもしれません。デミセク・デミロマへの言及があります。

先日某SNSで『デミセク・ロマは他者への恋愛感情、性的欲求を抱くんだから Aスペクトラムに入るのはおかしい。アロロマンティック・アロセクシャルの派生と考えるべき』という内容を見かけました

アロロマンティック・アロセクシャルというのは、アロマンティック・アセクシュアルじゃないということですね。

私はデミセクで、その言い分もわかる部分はあるにせよ、いつかAスペクトラムから弾かれるんじゃないかという不安が現実のものになってしまい、とても落ち込みました

基本的には他者に対して恋愛感情・性的欲求がないが、精神的なつながりを感じる相手にだけ発生することがある、という認識でしたので、Aスペクトラムでもいいのでは、と思うと同時にやっぱりアロマンティックやアセクシャル、そのほかのAスペクトラムの人からしたら、「お前は違う」という気持ちになるよなあとも思います

お二人はどのように考えますでしょうか。ご意見伺えれば幸いです

あんまり明るいおたよりでなくてすみません…

大丈夫です。ありがとうございます。どうでしょうか、ギャップさん。

 

Dr.ギャップ

SNSにそう書かれた方に対して、すごい言葉遊びだよなっていう気がしちゃって。さっきせいらさんがグラデーションって言葉を使われたと思うんですけど、恋愛や性愛の惹かれないと惹かれるって二極のどっちかって話じゃなくて、グラデーションとして濃淡がある。ってことを思うと、どこからどこまでがAスペクトラムの惹かれない人たちで、どこからどこまでが惹かれる人たちかっていうのは、恣意的に切り分けられるものだよなっていう気がするんです。

「お前は違うという気持ち」っていう言葉もありましたが、たとえば自分は惹かれる感覚自体をよくわからんなって思うので、惹かれることがある人に対してそこにおいては違うなって思います。でも、自分はAスペクトラムっていう言葉を惹かれなさの傾向っていうふうに捉えているので、「惹かれることがあっても稀である」という形も惹かれなさの傾向の人たちっていうことで、アセクシュアル・アロマンティックと同じ、惹かれなさの傾向のある人たちだという考え方でいます。

 

眞鍋せいら

なるほど。私もそうだなというか、たぶんギャップさんと近い意見で。いま言葉遊びだって批判的な意味でギャップさんがおっしゃったと思うのは本当にそうだし、それ誰が決めるのっていう、やっぱりここなんですよね。

お前はAスペクトラムじゃないとか、なんかね、分かる、分かりますよ。分かるんだけど、それ人に言っていいと思ってるのかっていう。そもそもそこもありますね。その怒りも結構あり、私がデミロマだからっていうのもあるかもしれませんけど、私はこのマシュマロをくださった方に対して、落ち込むのはめちゃめちゃわかるけど、落ち込むことない、相手がちょっと良くないと思います。ひどい目に遭いましたねという気持ちでいるというか。

誰がそんな勝手に……分かるんですよ。さっきギャップさんが、デミロマンティックで惹かれることもあることに対して、やっぱり違うなって思うかもしれないと言いましたが、でもその違うなっていうのと、「じゃあお前はAスペクトラムじゃない」って言うのとは全然違う行為ですよね。なんでAスペクトラムじゃないとかそういうことを言わんとあかんの? って。なんか変な関西弁になってしまったんですが、私は怒っています。そんなこと言わなくていいじゃん、の気持ちですね。なんか、分かる。私たちは違うんだろう。違うんですよ、たぶん。でもさ、っていう気持ちです。

 

Dr.ギャップ

惹かれるんだからって言い回しをすると、それはもうアロマンティック・アセクシュアルの定義であって、Aスペクトラムはもうちょっと包括的な言葉として設定されてるはずでは? みたいな論点もあるし、さっき規範に対する違和感という話をしたんですけど、恋愛とか性愛って当たり前だよねっていうところへの居心地の悪さとか、そこをなくしていこうっていう目標みたいなところに対して、アロマンティックやアセクシュアルも、デミロマンティックやデミセクシュアルも共通のものがあるはずだから、「結局惹かれるんだろう、だから違う」っていうのは、えーっていう感じがしますけどね。

 

眞鍋せいら

そうなんですよね、やや飛躍かもしれないんですけど、こうだから違うだろうっていうのも批判じゃんっていう。それ自体が悪いとはまだ言えないかもしれないけど、本当に誰に証明しなきゃいけないのっていうふうに思ってしまって。

 

Dr.ギャップ

言葉を奪うみたいなというか……たとえば今たまたま恋愛していないという人が、「自分も四六時中誰かに恋してるわけじゃないし、そういう惹かれないこともあるよ」っていう言い方でアロマンティックの仲間だよねって言うとしたらそれはなんか違うと思うんですけど。でも、うーん。

 

眞鍋せいら

そうそうそう、それもわかります。それはすごく言葉を奪うことになるというか。

でもこの場合はなんか、デミロマだって自分のことを考えていて、それがAスペクトラムに入るか入らないか問題なので、またちょっと違うんでしょうね。自分がデミロマかどうかっていうことではなくて、デミロマがAスペクトラムに入るかどうかってことなので。

 

Dr.ギャップ

すみません。さっきのたとえ話がうまくなかったですね。四六時中恋してるわけじゃないよみたいなノリで言うとしたらっていう。

 

眞鍋せいら

はいはいはい。

 

Dr.ギャップ

言われたら、いやそれとはちょっと違くてみたいな気持ちになるっていう。

 

眞鍋せいら

あーわかりますわかります。なんだろう、そのうち恋をするようなたとえで、いやお前はアセクシュアルじゃないって言われるみたいな、アロマンティックじゃないって言われるみたいな。そこが相似形というか。

 

Dr.ギャップ

あー確かにそうか。そこは裏返しかもしれない。

 

眞鍋せいら

悪魔の証明じゃないけど。それでやられると「いやそうじゃなくて」って思うし、過度に同一化してしまうのはすごく危ないというか。固有のものを奪ってしまうとか、なかったことにしてしまう感じがある。

 

Dr.ギャップ

すごくわかります。

 

眞鍋せいら

そうなんですよ。でも、じゃあ「お前は違う」っていうその権力性はなんなんっていう。成り立ちますよね。過度にわかるって言うのはちょっとっていう気持ちと、だからといって誰が誰をジャッジしているのかっていうのと。

今回の質問に戻ると、デミロマンティックはAスペクトラムじゃないって言う人がいるんだなって驚きの意味で思ったのと同時に、いるだろうなっていうのがわかってしまって嫌。

私はクエスチョニングのZINEを今作っているんですが、でもクエスチョニングもないんですよ、文献が何も。Dr.ギャップさんによくぼやいているのでご存知だと思うんですけど。仕方なくTwitterで検索したんですね。そしたら、LGBTQIAのQっていうのが、ほとんどの場合はクィアまたはクエスチョニングの両方のQだよみたいな説明の仕方をされるんですけど、そうではなくて、Qっていうのはクィアだけであってクエスチョニングは含まないって言ってる人がいて。なんか強い言い方しますね。怖いんですよ。怖かったんですけど、クエスチョニングはもはやQの簒奪であるみたいなふうに言ってて、え、怖って思って。すごい私はそれがショックだったというか、なんでそんなことをあなたが決めるんですか、みたいな気持ちになり。

もちろんQがクエスチョニングでありクィアでありっていうのも誰かが言いはじめたのかもしれないけど、でもなんかそんな簒奪だとかお前はクィアじゃないだろうっていうのを言わなくてもいいじゃんって、言うなの気持ちなんですが、なんかそれの相似形だなと思いました。デミロマ・デミセクはAスペクトラムじゃないっていうのは。でもだからこそすごい想像がついてしまい、なんか嫌な感じ。いや、そうじゃないよって言っていきたいんですけど。すいませんぼやきですね、完全に。

 

Dr.ギャップ

いえいえいえいえ。

 

眞鍋せいら

なんかこう、あなたは結局アロロマンティック・アロセクシュアルでクィアじゃないでしょとか、セクシュアルマイノリティじゃないでしょっていうのも、本当になんていうか、誰が聞いてくるの? って。聞いてくる人の存在を疑っているわけではなくて、なんであなたにそんなことを説明しなきゃいけないの? の気持ち。

そのときいつも思い出すのが、ギャップさんも引用されてらっしゃったかな? 川野芽生さんの短歌の〈いつ自分がさうだと気づきましたか、と入国審査のやうに問はれつ〉(川野芽生『Lilith』)っていう。

川野芽生さんというアロマンティック・アセクシュアルを公表していらっしゃる歌人の方の短歌ですけれども、本当に入国審査のように聞かれている気持ちになる。ので、そんなことを聞かないでほしいというか、なんであなたに説明しなきゃいけないんですかという気持ちに毎度なりますね。入国審査というのは非常に差別的な場所だと思っているので。

 

Dr.ギャップ

今ふと思ったんですけど、〈入国審査〉っていうのは仲間であることを前提にしての「本当に仲間なのか」という審査の感じもするかもしれない。でも入国だから異邦人としての見られ方なのか。

 

眞鍋せいら

そうですね、両方あるんでしょうね。異邦人、よそ者みたいな感覚と同時に、ここの国に入るだけの資格を問うみたいな。

本当に二重の意味ですよね、なんか。どちらかというと、最初にイメージしやすいのは異邦人かどうかっていうほうかもしれないけど、実際は「本当にあなたもクィアなんですか」とかそういう風にマイノリティ同士側から聞いてくるほうの意味もあるかもしれない。

 

違うまま連帯することとフェミニズムをめぐって

 Dr.ギャップ

最近の自分のキーワードじゃないですけど、違うまま連帯するっていうことを考えているんです。Aスペクトラム同士とかクィア同士みたいなのをあんまり突き詰めていくと、なんか窮屈なんじゃないかというか。

自分はいわゆるシスジェンダー女性(自認している性も出生時に割り当てられた性も女である)だけれども、ジェンダー規範とか、自分が女とされることとかに居心地の悪さがあるんです。で、そこについてはトランスジェンダーとかノンバイナリーみたいな、自認している性と出生時に割り当てられた性に乖離があったり、男女どちらかに限らないという人たちに対してシンパシーみたいなものがあって。

同じだからわかるとは言えない。とはいえ、同じじゃないけど、でもそのままで連帯というか、男子か女子かどっちかだよねという規範に対する異議申し立てはできるだろうと考えたりします。属性が違っても考え方とか物の見方とかっていうのは結構同じであり得るっていうことが浸透すれば、切り分けたりまとめたりしようとする考え方や仕草も減っていくのかなとか、そういうことも思ったり。

 

眞鍋せいら

本当にそうですね。違うままだけど連帯するっていうのが本当に大事というか、非常に難しいことではあるけれども、でも本当に目指すべきというか。

私は社会運動やってたからかもしれないんですけど、そうしないと先細るしねっていうことをよく言ってしまって。それがいいか悪いかわかんないんですけど。社会運動の文脈で言うなら、それで目指すべきは、違うまま連帯するっていうことなんじゃないのかって思うんですよね。

もちろんそれは本当に簡単なことではないし、マイノリティからしたら一緒にするなよってもちろん思うし、今まで散々抑圧なり排除なりしておいてっていうのがあるし、一方でマジョリティ側にも連帯できますって簡単に言っていいのかっていう迷いがあると思うんですけど、じゃあ別々にやりましょうでいいのかとか、そんな綺麗に切り分けられるものじゃないだろうとかすごく思うので、本当に違うまま連帯するっていうのは忘れちゃいけないなと思ったりしますね。

フェミニズムにおいてもそうだな。フェミニズムとクィアスタディーズは切り離せないけど、今たとえにもありましたが、シス女性だけでやりますみたいなフェミニズムって、もう嫌というか居心地が悪すぎるので。もちろんトランス女性もだし、女性じゃなくても、ノンバイナリーもそうだし、Xジェンダーもそうだし、シス男性もそうだし、トランス男性もそうだしっていうふうに、本当にみんなのものっていうふうに捉えていかないと、なんかどんどん削っていった先に、マイノリティのためのマイノリティだけでやるっていうのは結構大変なんじゃないかなと。大変というか、その先に何があるんだろうなと思ったり。

 

Dr.ギャップ

ちょっと未整理のまま喋っちゃうんですけど、被害とか抑圧を受けている人たちだけで、その抑圧の主体とか加害側に対抗していくっていう態度のなかには、被害や抑圧を受けてこなかった人たちが入ってくることで被害とか抑圧が見えなくなっちゃう、なくされちゃうんじゃないか心配がもしかしたらあるんじゃないかと思います。でも一方で、自分の話になっちゃうんですけど、自分はフェミニズムをちょっと遠まきにしているような感覚があって。なぜかっていうと、被害当事者としての経験というか実感というかがないんですね。「私たちはここが大変だから立ち上がろう」というその「私たち」のなかに自分って入ってるの? みたいな気持ちにどうしてもなっちゃうことがあって。ある意味でこれはすごく身勝手な拗ねみたいなものではあるんですが、違うまま連帯させてくれるのかな? という気持ちもあります。

 

眞鍋せいら

うーん、そうですよね。もちろん被害を受けた側のケアは本当に大事だっていうことは大前提としておきつつなんですけれども、でもそれってすごく、女性だったら被害に遭ったことがあるよねっていう、それもまた規範というか当たり前だなっていう思い込みが前提にあるじゃないですか。

なので、そうとは限らんだろうというふうに思ってしまうというか、私は思いたいというか。もちろんマイノリティであるゆえに受けた被害っていうのを、マイノリティ同士がケアしあうっていうことは本当にすごく大事だし、それを全然否定するつもりはないんですけど、だからといってマイノリティ全て、ある属性の人全てが同じ経験をしていることを前提にして、たとえばフェミニズムは被害の経験によって成り立つっていうふうに言ってしまうことには私は結構批判的ですね。同じ経験じゃないっていうのが結構大事かなと思っていて。形は違うけど似た経験かもしれないし、似てなくてももしかしたら根底は一緒なのかもしれないしとか、そういういろんな経験を取り上げるっていうことが大事なのかなと思って。固有のものとして取り上げるってことですね、まずは。

急にえ!? って感じなんですけど、《ヒプノシスマイク》の許せないセリフ2選っていうのがあって。

 

Dr.ギャップ

2っていうところが本当なんだなって感じがしますね。

 

眞鍋せいら

2位が、結構これは有名なんですけど、「君も男ならラップできるだろう?」なんですよ。これはもうね、ファンダムがみんな「え、何」みたいな感じで。ミームになりかけたくらい、すごい直球って感じなんですけど。

あの、1位がいま決めたんですけど、性加害を受けた女性に対して別の女性キャラが言う「あなたも女性ならわかりますよね?」っていうセリフが、苦しいけど僅差で1位です。

女性ならわかりますよねって、そんな乱暴なっていう。「わかるぞ」という連帯の言葉としてそこでは機能してはいるんですけど、でもかなり危ういなと思ってしまって。あなたの受けた性加害と、その別の女性キャラクターの受けた性加害は別のものなので、あんまり女性だからって言わんほうがいいよって横にいて言いたくなるんですけど。

 

Dr.ギャップ

あー、なるほど。

 

眞鍋せいら

《ヒプノシスマイク》っていうコンテンツは言うまでもなくバイナリーで、男と女しかいなくて、フェミニズムは当然男性嫌悪でみたいなコンテンツなので、コンテンツ自体が雑なんですけど、でもちょっと良くない。やっぱり違うまま連帯を模索してるほうがいいと思います。すいません、いつも気を抜くとヒプマイの悪口を言ってしまう。

ギャップさんは違うまま連帯するっていうのは、どういう過程でそう思われたりとか、きっかけはありますか。

 

Dr.ギャップ

うろ覚えなので恐縮なんですが、そういう文章を読んだのがきっかけですね。違うまま連帯ができるはずではないのかという論調の文章を見かけて、それは確かフェミニズムについての文章だったと思うんですが。

自分はフェミニズムが大事だと思う一方で、それこそ「女性なら」みたいな発言をフェミニズムを応援する論調で見てしまったことがあるので、さっき言ったように「連帯って言ってもできることがありますか」というか、受け入れてもらうというのもちょっと違うのかもしれないんですけど、そういう気持ちがあったんですね。そんなときにその文章を見かけたので、できるのかも、できたら嬉しいな、できるようにしていきたい、みたいな。フェミニズムに限らずですね。

できるのかもって思いつつやるくらいがちょうどいいんですかね。できるって言い切るよりは。フェミニズムってそういうチームに入れてもらうっていうことじゃなくて、この指針を支持しますみたいな感じと思うと、さっきの仲間に入れてもらうっていうのがそもそもちょっと違うというか、いま自分がとらわれているのとは別の連帯というか「一緒にやる」の感覚ができるかもなって、いま話しながら思いました。

 

眞鍋せいら

確かにそうですね。どうしても議論、特にTwitterとかで話を見てると、発言とかその先に人を意識しちゃうんですけど、でも、この人に認めてもらうとか、同じ意見で話すっていうのとまたちょっと違うところからできるというか、違うところからでも同じ指針を目指すことができるのでは。

同じ方向を目指すっていうのだったらね、必ずしも隣を歩かなくてもできる。100%同意するとかっていうと難しくなるから、ちょっと距離を置きつつ同じ方向を見てみたいなのがちょうどいいのかも。肩組んでスクラムみたいなのだと、力強い一方で息苦しい時もあるかもしれない。

 

Dr.ギャップ

そうですね。確かに。

ただ同時に一方で、アロマンティックとかアセクシュアルとか、そういう言葉のもとで仲間どうし集まるというか、同じさが大きい人を探したり見つけたりして安心したり喜んだりしたいみたいな気持ちもあるかもとも思います。

 

眞鍋せいら

そうそう。肩組んで近めの関係で一緒にやっていくっていうのももちろん大事というか、それはマイクロラベルでの連帯っていうか連絡の取り合いくらいのものかもしれない。ここにいるよ、どうしてるっていう連絡取るくらいの関係性もあるし、もうちょっと遠く、別の方向から同じ方向を目指すみたいなね、あるかもしれないし。

どっちのほうがいいっていうわけでは多分なくてっていう。どっちもできたらいいのかな。

 

Dr.ギャップ

ここではそうとか、この人とはそうとかっていう両立があるはず。


#1を読む

  • 自己紹介&導入

  • 『いるよの話』制作について

  • 二人の出会い

  • 単語の確認

  • 言葉の選びかた使いかた

#3を読む

  • 短歌の話

  • 〆のご挨拶など

@dr_gaap
短歌と読書と二次創作と旅行と美味しいものが好き。いま一番ハマっているのはアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。短歌で楽しいことをするのも好き。クワロマンティックでアロマンティックでアセクシュアルです。 感想などいただけたら嬉しいです。→wavebox.me/wave/94ufrrxytf5hliop