「眠れる美女」雑感4:ディズニー

見代
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公開:2025/6/23

■ 『眠れる森の美女』

◉ あんまり面白くなかったという話をします

オーロラ姫の美しさは文句なしです。本当に美人。動きに合わせて揺れる髪の描写がまた素敵なんですよ。

ですが、完全に趣味の問題ながら見劣りする改変だなぁというのが率直な印象。

親の決めた婚約に反発するもその婚約相手こそがあの日出会った運命の相手でしたという展開が「年頃の少年少女の恋心や自我なんてくだらない、結局父親の言うことに従っているのが本人にとっても一番幸せ」とばかりで、冷めた目で見てしまいました。

直前に観たバレエ版はディズニー版主題歌「I knou you」の原曲があり、姫の名前も同じ「オーロラ」なのでどうしても比べてしまいますが、「互いに当世の誰ともしっくり来なかったけど、百年の眠りがあったお陰で運命の人に出会えた」というバレエ版のロマンスのほうが好きだったなぁ。

「真の恋人」に巡り会えていたお陰で眠りの呪いが成就しても恐らく数日であっさり目覚めてめでたしめでたしっていう話の筋も、眠るくだり必要でした? どうも根本的に破綻しているような……。

誕生祝いの宴席で妖精から贈られるものについても、18世紀に書かれたペロー童話では「天使の心」と内面の美徳も贈られていましたが、ディズニー版では妖精が3人にまで減らされた都合もあってか美貌と歌声しか贈られません。代わりに王子に「美徳の盾」が贈られますが、マレフィセントに呆気なくふっ飛ばされる始末。「美徳なんてあっても何の役にも立たない」とばかりです。

王子視点で見るとなかなか面白い話でした。グリム童話でも王子を主人公とみなした場合、「ふさわしいタイミングで(要は運命の女神に選ばれ)、死を恐れず姫の元へ馳せ参じる勇気を示したことで美しい姫との結婚が果たされる」英雄譚として読めましたが、ディズニー版では王子が魔女に囚われ、妖精の加護を得て脱出し、竜を退治し、愛する姫の呪いを解いてめでたしめでたしと、英雄譚らしさがさらに強調され、映像作品としても見応えが増しています。妖精も姫を匿い養育する16年間は迂闊な言動が目立ち向いてない感さえありましたが、王子のサポートは極めて的確に行なっていて、英雄の補佐こそが本領とばかりでした。

一方で引っかかるものもある。英雄の竜殺しとはおよそ父殺し──父を超越することの象徴として描かれるのが基本的だったはずです。フィリップ王子も結婚について父親との確執が発生しているので竜退治はその流れの中に位置づけたほうが英雄譚らしさが増すし、そうしたセオリーを脇に置いても「父が反対してもこの人と添い遂げたいのだ」と意志を貫く愛の物語としての筋が強くなったと思います。ですが、竜の正体はマレフィセント──王子とはこれまで何の接点もなかった、女性です。英雄に立ちふさがる壁としても恋路を邪魔する障害としても必然性が弱く、妙なちぐはぐ感が生まれているように感じました。

父殺し譚でなくあくまで“魔女”退治譚にしたかったなら、たとえば父王は革新的な人で本人の選んだ相手と結婚すれば良いと鷹揚に構えるも母女王が強く反対する。だがこの母女王こそマレフィセントだったのだ──とかにすればフィリップがマレフィセントと戦う必然性も強くなるし、ペロー版の「母親が人喰い種族で姫を喰い殺そうと狙っている」という要素も採用できて良かったのでは。ついでに継母という設定も加えれば、母殺しの忌避感や王子は人喰いの子なのかという問題もあっさり解決します。

そしてマレフィセントが王子に問答無用で討たれるべき悪役、魔女として扱われている割には、王子に救われるべきヒロイン・オーロラ姫も森で動物と戯れながら妖精と暮らし、人を惹きつけてやまない美貌と歌声を持つという、魔女の系譜上の存在としての要素がわざわざ追加されています。ついでに言えば過去の類話、特にペロー童話でいばらは眠る姫を守るために生い茂るのですが、そのいばらをマレフィセントが展開するように改変したことによって、オーロラ姫とマレフィセントの繋がりが暗黙の内に描かれてしまっています。このあたりはユング心理学あたりの「眠れる美女」話群に対する「仙女による百年の眠りは思春期の少女の心の中にある“大人になりたいけどなりたくない”という葛藤の象徴」「いばらはモラトリアムに必要な孤独を守るための防護壁」「姫を呪った仙女は姫の“影”」などの分析とも通じるので良いのかもしれませんが、ディズニー版の話としては矛盾にならない?

ディズニー版は背景にある思想の退行やセオリーに対する不自然な独特さを感じてどう鑑賞すべきか頭を悩ませていたのですが、この映画が公開された1958年頃のアメリカ世情としてはこれで良いようです。

また、20世紀半ばはアメリカがもっとも保守化した時期と重なる。いち早く女性参政権を実現して戦時中には多くの女性たちが社会で活躍したにもかかわらず、第2次世界大戦後(1945年以降)「婦人は家庭に帰れ」とのスローガンのもとに帰還した男性に職場を明け渡した女性たちは、家庭の主婦であることに幸福を見出そうと全力を傾けた。(略)すなわち、女性にとって夫となる男性との出会いが人生の最重要課題とされていたのである。

──鈴木万里「「眠り姫」の変遷」

支配する女性は邪悪な存在であり、社会から抹殺されるべきだというメッセージが強く印象づけられる。

──鈴木万里「「眠り姫」の変遷」

つまり全アメリカ女性主婦化計画においては、単身で活動し己の意志を示す女性(マレフィセント)はそれだけで“悪”であり、社会を担う男性(フィリップ)に排除されて当然の“敵”。そして未婚時代のオーロラ姫はマレフィセント予備軍であり、王子との結びつきによって初めて“正しく”“社会化”される、それだけが重要で内面の美徳などどうでも良いのだ、という映画だったのでしょうか。

その観点でいくと、同じように父王に恋愛を否定されても王子は飄々と受け流して己の意志を貫き、姫は為すすべもなく泣くだけという対比もわかりやすい。妖精たちもオーロラ姫と女だけで暮らすのは明らかに向いてないし実際に致命的な失敗をする一方で王子の補佐は完璧にやり遂げるのもそれが女の“正しい”在り方だからだ、みたいな。なるほど合わない!

◉ 社会へのアンチテーゼとしての話の可能性

とはいえ、そうした社会通念とは割り切れない改変もいくつもありました。

まずマレフィセントですが、たしかに姫の行く末を呪う魔女として描かれてはいるものの、「美しくしとやかに育ち誰からも愛されるようになるだろうが」と祝福も与えています。

そして、これは先述したとおり“男”と“女”の二軸としてだけ見ると無効になるかもしれませんが、徹底的に悪役として描かれているマレフィセントに対し明確に“善”として描かれている妖精たちも、喧嘩はするし、姫から目を離すし、それによってオーロラ姫の呪いが成就する隙を作ります。そもそも姫を守ると言いながら16年間も人と隔絶した場所で育てるってどうなんだろう。私は『ラプンツェル』の魔女を思い出したりしました。

こうした描写から、マレフィセントと妖精たちがグリム童話以前の彼女たちと同じく善悪両義的な同質の存在として描かれているようにも見えるのです。

妖精たちから王子に贈られた新アイテム「正義の剣」に至っては、マレフィセントが変じた竜を倒したら呆気なく黒ずみ崩れ去ってしまいます。そこには正義、軍事、男性性、要は“強いアメリカ”絶対視の否定、少なくとも疑問の提起を見ることができます。

これが世情の反映ならば、「もっとも保守化した時代」でありながらそのことへの疑問や厭戦思想が漂っていた証左と考えられます。あるいは、アニメ「白雪姫」が新時代の生き方の指標としての役割を担った点を考慮するなら、この「眠れる森の美女」も当時蔓延していたのだろう保守的な思想を最大限取り入れて世情に寄り添いつつ、そこからの脱却の鍵やアンチテーゼを無言の内に示していたと考えることもできそうです。

世界平和のために男は悪を討つべきだ(王子のマレフィセント退治)、女は男に守られ男を支えるべきだ(オーロラ姫、妖精)。だが、その善が争いや破滅を生んでいないだろうか(妖精)。悪も彼らなりの善意を示してはいないだろうか(マレフィセント)。正義ってそんな大層なものではなくないか(朽ちる正義の剣)。

そして、そんな“厭な”世情であっても、そこから何か素晴らしいものが生まれることだってあるんだよという希望の象徴が、妖精の喧嘩で色を変える魔法のドレスだと考えたら。幼少期に「喧嘩は悪いことのはずなのにこんな素敵な結果をもたらすのか」とこのシーンだけ繰り返し見た意義はあったのかもしれません。

一見不毛で無駄なやり取りに見えた婚約への反発も、父親は古くて頭が硬いかもしれない(婚約)。息子は娘は父の気持ちも知らず、幼稚で愚かな我儘ばかりかもしれない(自由恋愛)。けれど突き詰めればどちらも目指すものは同じなのではないか(全会一致の幸せな結婚)。という世情の反映とそれに対する指標と見れば、とても意味のある、優しいやり取りだったと、そんなふうに考えることもできそうです。

■ 『マレフィセント』

たしか公開当時は「悪役にも訳がある」みたいなのが流行していて、そういう後付のお涙頂戴ものは冷笑して避けていたのですが、このたび初めて観たらめちゃくちゃ面白くてびっくりしました。ディズニーやっぱりすごいや。

ステファン王の視点で見ると特にわかりやすいのですが、たぶんバリバリのユング心理学世界でした。

◉ “影”と生きる大切さ

幼くして両親を亡くし納屋育ちという不遇の生活を過ごす少年にとって、ムーア国は心の「ファンタジー」、その世界を治めるマレフィセントは内なる影、そしてムーア国とマレフィセントは内なる女性性や母権的神話世界の象徴だったはずです。「ファンタジー」の世界に趣き「影」と愛を交わすのも、長じて現実社会に腰を据えて生きるようになってそうした世界や相手と距離を置くようになるのも、人間の発達段階としては典型と言えそうです。

ステファンはそこで終わらず、王位を──父権的現実世界の頂点を望みます。恐らくこれは少年時代に味わった不遇の反動から生まれた欲求だと思うのですが、ステファンはそのために愛を交わした神話世界を裏切り宝たる翼を盗み出す。実はここまでだと昔話や童話にありそうな話でもあって素直に感心していたのですが、ここで話は終わらないのが『マレフィセント』の面白いところです。

ユング心理学において、内なる影との共生こそが大切なものであって、影を抑圧したり否定すれば必ず復讐されるとか。はい、影たるマレフィセントは復讐しました。ステファンがマレフィセントの大切な翼を奪った見返りに、マレフィセントはステファンの大切な娘に呪いをかけます。

この復讐は見事に効いたようで、ステファンの自尊心を揺らがせ、精神的にどんどん追い詰められ、奪った翼(に象徴される影たるマレフィセント)との敵対に明け暮れて大事な妻が危篤になっても気に掛けることすらできない。彼が内なる女性性の象徴たるマレフィセントを否定しているからこそ、娘のオーロラ姫は手元から離され、妻も去ることになったのだという解釈は可能だと思います。

彼はどこかで気づき、己の影を受け入れ、マレフィセントと和解すれば幸せに生きられたのでしょう。ですが彼はひたすらに敵視し、男性性の象徴として機能している鉄でもって、女性性の象徴たるマレフィセントとムーア国を滅ぼすことだけに腐心する。否定され尽くした影はついに彼を呑み込み、彼は命を落とすことになりました。ゲーム風に言うなら選択肢ミスの連発でゲームオーバーですお疲れ様でした。

教訓:おとなになってもけんりょくよくにとりつかれずしぜんやじょせい、ものがたりといきることをたいせつにしようね! じゃないといつかじぶんのみをほろぼすぞ。

◉ “地母神”マレフィセント

というわけでマレフィセントはステファンの影的な存在でしたがイコール悪役というわけではありません。ディズニーの悪役としての矜持は保たせつつそういうバランスを保っていたのが本当にうまくて感心しました。

上でも少し書きましたが、男性の王(ヘンリー→ステファン)が支配する父権的現実世界に対して、ムーア国は女性の代表者(マレフィセント)が統治する母権的神話世界でした。

母権的神話世界ってことはそれだけで父権的現実世界にとっては「悪」でなければならない。歴史上の魔女もそうして迫害されてきました。だからこそ作中でもカラスは悪魔と蔑み囚われ、魔法で人間に姿を変えると「本物の悪魔だ」と恐れ逃げられます。全体的にムーア国の住民が(オーロラ姫を養育する妖精たちすら)どこか不気味な姿で描写されているのも、そうした感情が背景にあるからでしょう。

ですが“母権”てことは育てる機能も持ってるわけでして。はい、かしまし妖精3人組は(アニメ版以上に)子育てが向いてはいませんでしたが、母権世界の長たるマレフィセントはオーロラを呪いつつも妖精たちの“子育て”に辟易して、当たり前のようにしっかり見守り養育します。それによって妖精の贈り物のひとつである「悲しいことが何もない幸せな生活」が叶ってるのがまた面白いところでしたが、古来地母神とは子を慈しみ育てる面と子を食い殺す面の両方を備えていまして、その両方を心ならずも体現しているマレフィセントはまさに「ゴッドマザー」、偉大なる地母神で、私はすごく好きでした。

彼女が闇落ちするのも本を正せばステファンの裏切りに遭うからです。であれば魔女としての彼女の姿はあくまでステファンの心の闇が投影されただけで彼女自体には何一つ関係ないことなのでは。と思ってたら特典映像でステファンが「心に闇を抱える者」と指摘されていた。これが正解とみなして良さそうです。彼女は闇落ちして魔女になった後もムーア国の防衛(とオーロラ姫の養育)に専念しており、彼女から明確に敵対や加害をしたことは一切なく、それでもステファンはマレフィセントを敵視し何とか滅ぼそうと躍起になっていました。

◉ “娘”オーロラ

この話ではオーロラの機能が本当にすごくて、まずステファンの娘として見ると彼女は父親の捨てた「ファンタジー」たるムーア国を喜びとし、「影」たるマレフィセントと真実の愛を交わすんですよ。この一点だけで見事。

さらにオーロラはマレフィセントの「影」としても機能していました。真実の愛を裏切られ信じられなくなり闇落ちしてしまった彼女が捨てたつもりの「光」を体現していて、マレフィセントにとってオーロラと交わす真実の愛はステファンに裏切られたものを取り返すだけでなく、裏切られたことで失った自分を取り戻すことでもあって喝采。養母と娘の繋がりで呪いを解き、盗まれた翼を取り戻し、父権的現実世界の支配者ステファンが死に、両国を繋ぐ女王が生まれるなら、母権的神話世界が一矢報いたとも言えましょう。

オーロラ自身に目を向ければ、両親は死んだと聞かされ、人界から隔絶された森の中で、善意はあれど子育てに向いていない(しかも本意でない生活をしていた)妖精たちによって、命にすらかかわるレベルで不遇な生活を強いられていた中で、どんなに見た目が禍々しくて陰気で悪役だろうとも常に見守り適切に育ててくれたマレフィセントと、遊んでくれたディアヴァルこそが信頼に足る相手となるのも、マレフィセントたちと共にムーア国で暮らしたいと思うのも、当然でしかない。「幼い頃からいつも“影”が付き添ってくれていた」でしたっけ、あの台詞大好き。

だからこそ自分を呪った張本人がマレフィセントだと知った時のショックは大きかったと思うんですよ。唯一信頼できる相手に始めから裏切られていたようなもので。それで唯一の肉親たる父王の元へ行ってみれば、喜び迎え入れてくれるどころか「なぜ来た」「部屋に閉じ込めろ」と言われる始末。あと2日経たないと呪いが成就するかもしれないからという父王の気遣いではあるものの、父王はそんな説明もしてくれない。そもそも愛情不足で育ち、寄る辺を失ったばかりのオーロラにその態度はめちゃめちゃきつい、わかる。すごくすごくすごく勇気を出して不安に駆られながら父王と面会したはずなので。

彼女が糸車に向かっていったのは、すべて失ったと思ったオーロラがステファンのような鬱状態になって自殺願望が出てしまったのはありそうです。それも呪いが生んだ運命と言えばその通りだと思いますが、ぽっと出の王子を心から愛せたわけはなく、もちろんディアヴァルでもなく、誰より信頼した養母マレフィセントからの額へのキスで目覚めて和解したのは本当にすごかった。そこ変えちゃうんだってびっくりした、けどこの話の流れでは納得しかなかった。すごかった。

いばらが従来の話のように眠ったオーロラ姫を守るためでなくマレフィセントの心象世界でもあるムーア国との国境線に生い茂ったのも、マレフィセントとオーロラ姫との繋がりを暗示しているように思いました。たしかグリム童話における心理学的分析では「いばらは姫が誰かを愛する心を持てるようになるまでの猶予期間を守るために他者を拒絶し己を閉じ込めるためのもの」という見方があったはずなので。真実の愛を失ったマレフィセントがまた誰かを愛せるようになるまでに生い茂るいばら。けれどオーロラ姫に対してはいばらの先のムーア国への来訪を許していたわけで、その観点から見ればあの選択をできた時点でマレフィセントはオーロラを愛せていたんですね。

◉ ディアヴァルが好きです

誰が一番好きかと言われたらマレフィセントかなと思うのですが、ディアヴァルは何もかもが良かった。カラスで、人間の姿でマレフィセントに従って、飛ぶ者として狼の姿は不本意だけどそれも含めてマレフィセントの求めに応じて馬にも竜にもなるの人外好きとしてはおいしすぎてうわーーーーーーーーーーってなりました。闇落ちして終始陰気なマレフィセントをちょっとからかうような茶目っ気があるところもかわいいし場が和む。絶対的な信頼関係はあるけど変に恋愛関係然とするわけでもなく、ひたすらにマレフィセントが主でディアヴァルが従なのも母権的神話の主従感あってすごく好きでした。いっそずるい。ディアヴァルって名前の響きがまずかっこよくてずるい。

しかし王城だの王だのって竜退治譚の系譜上にあるわけで、図体や戦闘能力的にはたしかに竜への変身が最適だっただろうけど竜属性にデバフ効果のあるステージで竜特攻持ちと戦うことになってませんかってすごいハラハラしてしまった。実際押されてたのわかる。

◉ アニメ版と同じでちがうところ

3人の妖精がアニメ版と違う名前である以上違う作品と割り切るべきなんだろうけど、一方でステファン王、オーロラ姫、フィリップ王子、マレフィセントと共通した名前(と一部ビジュアル)もあり、一部シーンや台詞も明らかにアニメ版を意識してるところもあったのがなんか「同じで違う作品」て感じで面白かったです。

特に印象的だったのがオーロラ姫が無事に育った経緯ですね。既に何度か言及してますがアニメ版で「妖精たち、子育てに向いてないのでは(よく姫は16年間無事に生きてこられたな)……」と思っていたので、本作で本当に子育てに向いてなくてマレフィセントの見守りのお陰でなんとか無事に育ちましたって話になったの面白すぎました。

◉ おまけ

「日と月とターリア」では、姫を愛した王子ならぬ王には既に妻がいて、不倫で裏切られた妻は怒り狂って姫とその子どもを殺そうとする展開があります。妻をマレフィセント、王をステファン、姫を死んだ王妃、子どもをオーロラに相当させると結構しっくり来て、実際の意図はどうあれ「眠れる美女」話群である話との接続も見られるのは結構嬉しいです。

■ 『マレフィセント2』

糸車の呪いから目覚めたオーロラ姫のその後の物語をやるとすればペロー童話「眠れる森の美女」に見られる「結婚した王子の母親が人喰い種族で姫の命が狙われる」話ですが、本当にやりよった! それも大幅に現代風刺的なファンタジーに仕立て上げつつ、引き続きユング心理学の世界とメルヘンの世界を活かしてだ! ディズニー本当にすごい。

形式上は招かれつつも心情の上では招かれていない宴の再演になってるとか、食器がないとか、そういえばマレフィセントが鷲っぽいところとか、色々な「眠れる美女」説話の要素が散りばめられていてニヤリとできるの楽しかったです。

◉ “父の娘”イングリス

ユング心理学の世界から追うのに今回一番わかりやすい人がイングリス王妃でして、彼女は前作で男性性の象徴として扱われていた鉄の武器を大量生産して戦争を画策します。これは男尊女卑社会にありがちな、女性が「一人前の人」として認めてもらうために己の女性性を否定・抑圧し男性性を偏重して振る舞うというもので、私が思うに現代の一般的社会に蔓延している「男女平等社会」の実態です。

要は養母マレフィセントと結びつきの強い“母の娘”オーロラに対し、父や兄、夫や息子以上に男性性を押し出す“父の娘”イングリスの話でもある、ということなのでしょう。

ただしイングリスの在り方ももちろん心理的に問題がある。もちろん個人差はありますが、前作のステファンは男性であり、彼が否定した内なる女性性はあくまで「影」でしたが、女性の基本的性質である女性性の否定・抑圧を伴う“男性化”は己の本質を切り刻みながら生きていくような困難さがあると、河合隼雄が指摘していました。

彼女の抑圧は凄まじいものがありまして、本物の男性たる父親や兄、夫や息子など、彼女の親類男性ひととおりよりも強い男性性を示していました。「融和より戦争を」という姿勢です。だからこそ地母神的な存在であるマレフィセントと彼女との結びつきが強いオーロラ、そして彼女たちが生きるムーア国とその住民を滅ぼさずにはいられなかったのでしょう。

主たる原作だろうペロー童話では、王妃の“凶行”は王子が現われ「この状況は何ですか」と問いただした時点で終わるのですが、本作ではそうすんなりいかないあたりにも王妃の男性性の強さが示されているようにも感じました。

私はこの手のタイプの人間が現実社会でも大嫌いでして、本作を観ながらひたすらイングリスに憎悪を募らせておりました。ええもう、己の女性性を抑圧しているとは言いましたが、基本的には“か弱い女性”であることを盾にして男性性を推し進めていく周到さ、そして他者の持つ女性性を下に見ている卑怯さが本当に嫌い。ペロー童話では自身で用意した、蛇や蛙に満ちた大甕に身を投じて死ぬんですがさすがにそれはないだろうと思ったら山羊にされててあまりにソフトな結末にずっこけました。八つ裂きにしないの?!

とはいえ山羊は悪魔の表象に使われる動物でもありまして、なかなか気の利いた“変身”でもありました。マレフィセントは黒でイングリスは白に象徴されがちで山羊も真っ白でしたが、そのコントラストも皮肉が効いています。「白いからって純粋で正義と思ったら大間違いだ」みたいな。

教訓:きびしいだんじょびょうどうしゃかいだけどだからといってじょせいはじぶんのおんならしさをひていしたりうらぎったりしていきなくていいんだぞ。まわりだけでなくじぶんまできずつけるからね。

若干の余談ですが、「こちらは貧しくて苦しんでるのに向こうは豊かだった」ということで憎悪を深め、友好的な理由で誘い出して部屋に閉じ込め毒ガス虐殺をはかるとか、研究者に虐殺技術の研究をさせるとかはちょっと、この話の一番のベースはフランスのペロー版だろうに、グリム童話が生まれた某国における20世紀前半頃に見られた歴史的事実(※あまりにあんまりなので遠巻きな表現)を思わせて顔が引きつりました。反戦を描くにしてもイングリスに背負わされたものが大きすぎる。

ついでの余談ですが研究者ことリックスピットルも味わい深いというか、境遇が可哀想でハラハラしながら見てしまいました。彼の羽はいつか戻らないのだろうか。

◉ 地母神から太母へ

こう書くとそんなに違わないんですが、本作ではマレフィセントの心理的成長が促される話でもありました。何せ育てることや慈しむことと強く結びついた「ゴッドマザー」マレフィセントですから、子離れが難しいという面もあります。特にマレフィセントにとってオーロラは一度失い否定した真実の愛を取り戻させてくれた存在です。

とは言えステファンのトラウマが解消されたわけでもないんだな……というのがフィリップや(オーロラ以外の)人間への不信感に出ていました。そのあたりを象徴していたのが、まだ残っていた糸車の呪いだったのかと。

一度娘と離れ、己の同族と出会い、自分のルーツを、自分が何者なのか改めて向き合うのは恐らく心の成長に良いことでして、その上で娘との絆を取り戻し一度死に、再生したことで彼女の心理的発達が実現したんだと思います。また河合隼雄で恐縮ですが、「人間一度精神的に死と再生を果たす必要があるんだよね」みたいなこと言ってました。再生後のマレフィセントは明らかに進化しておりまして、それがあの黒いフェニックスとしての姿だし、ディアヴァルに「会いたかった」と言えたり、オーロラの結婚を受け入れそして次代の子の誕生を待ち望みウインクまでかませる姿なのでしょう。

フェニックスが西洋文化でどういう印象を持つものなのか知識がなくて歯がゆい思いをしましたが、悪魔として扱われる面もありつつ「永遠の命」の象徴ならそんなに悪いものでもないのかな? 錬金術では賢者の石の象徴なら間違いなくユング心理学においては最上のものでしょう。

そうして進化したマレフィセントは今までと同じではありながら明らかに変わってはおりまして、それを表すなら「地母神から太母へ」としか、私の知識で言いようがなくあの見出しになりました。

メルヘン的にもマレフィセントの再生はたぶんセオリーを踏まえてまして、マレフィセントの残滓に「真実の愛」を持つオーロラの涙が落ちたことで復活できたんだろうなと。シンデレラが母の墓に涙すると木が生えて様々な物を授けてくれたとかがあったと思いますが、あれかな。

個人的にテンションが上がったのは、復活後のマレフィセントの服の裾が白かったことです。ちょうど読んだばかりの『悪とメルヘン』という本には「黒い女」というメルヘンが紹介されていました。路頭に迷った男を黒い女が助ける代わりに男の娘を自分の物にして育てるのですが、ある程度大きくなると娘に部屋の鍵を預け「最後の部屋だけは覗かないように」と忠告して留守にします。娘は好奇心に負けて最後の部屋を覗いてしまうものの、帰宅した黒い女に「部屋を見たか」と尋ねられては「見ていない」と嘘をつき、そのたびに娘は自身の感覚(発話能力や聴覚など)と共に生まれた赤ん坊をさも娘自身が食い殺したように見せかけて奪われる。「人喰い鬼」の誹りを受けても弁解の術がない娘はやがて火あぶりにされますが、そこでまた黒い女に「部屋を見たか」と聞かれ、それでも「見ていない」と答えると黒い女は白い女へと姿を変え、娘を火あぶりから救い、さらった赤ん坊や奪った感覚を返してくれると、そんな話です。

黒から白への変化はより高次元の存在への移行を示すそうで、特にユング心理学ではやはり錬金術と結びつけて解釈されるらしいのですが、マレフィセントにもそれが起こったというのが明らかな描写で私は手を叩いて祝福したくなりました。マレフィセント大好き。

◉ 娘から女へ

オーロラもきっちり原作どおりの進化を遂げてくれました。「眠れる森の美女」話群は「少女から女へのモラトリアムを描いた話」という分析をされがちでして、前作でオーロラ姫はあくまで母との結びつきを育む“少女”のままで終わりましたが、本作でやっとフィリップ王子と結ばれ“女”への移行を果たせたかなと。

彼女に関して言えば本作まであって初めて「眠れる森の美女」として完成するのが見事でした。部屋に閉じ込められてバルコニーから脱出する際に結ばれた布は『ラプンツェル』の長い髪を思い出しました。

◉ “影”と生きるフィリップ王子

アルステッド国は国王も王子も男性ながら己の女性性、影、ファンタジーとの共存を維持できている人として描かれていて、だからこそ国王はムーア国との融和とオーロラ姫との婚姻を歓迎できるし、フィリップ王子はそういう国策抜きで森と生きるオーロラ姫を愛せたんだと思うのですが、その心根を剣が象徴していたのが刀剣説話大好き人間としては気が狂いそうなほど好きでした。

鉄の武器だからもちろん男性性の象徴で、特に剣は王権との結びつきも強い男性性の権化みたいなところがあります。それを帯びて婚姻に臨むのは有事に備えるためでなく「両国の和平を祝福し、二度と振るうことのないように」と諭す王に私は胸がいっぱいになりました。YES 剣 is それ(語彙の消失)。

というか江戸期の日本ならまだしも西洋でその価値観いけるんですか?! 私は西洋文化がわからないので判断がつかない、けど、はい、それはとても好きなやつです。

いざ戦争が始まってフィリップ王子は剣を抜きますが、あくまで戦争を止めるためで、ちょっと火傷はさせてましたが結局誰の血も吸わせずに剣を収められたところに私は大感謝申し上げたくなりました。いやぁディズニー素晴らしい。

◉ ディアヴァルが好きです

本作もとても良かった。猫が嫌だったり、「マレフィセントが戻らないと俺は人間の姿のままだ」とか言っちゃったり、あくまでカラスが本性なのを忘れさせないでくれるのが人外好きとしては大変ありがたくて拝みそうになりました。

熊化もとても良かった。森の王者で人間の兄弟で、「美女と野獣」の野獣は熊として描かれたことも多いので。そのくせ嘴があったりカラスっぽさが残っていたのもとても良かった。黒い羽をあしらった正装もすごい良かったし、翼ならひとっ飛びなところを人間の姿のまま何とか這い上がって事態をどうにかしようとする姿もなんか、つい笑ってしまった。オーロラ姫の結婚に感極まって涙ぐむのも情に溢れていて良い。ディアヴァル好きです。

◉ 色の変わるドレス

本作は続編ということもあってか一応ペロー童話は踏まえつつもオリジナル要素がてんこ盛りで「眠れる森の美女」という言葉がだいぶ頭から抜け落ちながら唖然と鑑賞しましたが、最後の最後でフィリップ王子との結婚式で妖精にコロコロとドレスの色が変えられるシーンで「眠れる森の美女」だということをやっと思い出しました。

だからこそアニメ版の「青と赤」でなく「緑と赤」の点滅であることに青の妖精ことフリットルがガス室(……)の犠牲になったことを思い出してシュン……とした矢先に花としてはまだ健在だったフリットルが青に変えて残りの妖精も喜んで「これでよし!」てなったのがなんかもう、アニメ版では小さい頃あのシーンが大好きで何度も何度もそこだけ繰り返し観た者としては感無量で、『マレフィセント2』最高でしたと締めくくらざるを得ないのです。『マレフィセント2』最高でした。アニメ版より断然好き。どうか皆が「死ぬまで楽しく暮らしま」すように。

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@kmgtr
心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ