「眠れる美女」雑感2:ペロー、バレエ

見代
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公開:2025/6/9

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■ ペロー「眠れる森の美女」

◉ 前半を絶賛したい

庶民の間で伝わった話を元にしているグリム童話に対して、貴族の子女向けに編まれたペローの話は全体的に品が良く登場人物も穏和とされます。最たるものが「サンドリヨン(シンデレラ)」で、グリム童話では最後に継姉たちは鳩に目をくり抜かれますが、ペローの話ではサンドリヨンにこれまでの仕打ちを詫び、サンドリヨンもふたりを許して然るべき縁談を用意して丸く納まりハッピーエンドを迎えます。

「眠れる森の美女」も同じ傾向にありますし、私見では加えて登場人物の矜持が高くて知的。何より、グリム童話は現実的な記述でファンタジー要素を損ねていくような印象があったのに対して、1世紀遡るペローの時代はまだ古い信仰が生きていたのか、現実的な描写がファンタジーを活かす効果を持つような記述が多いように感じました。

グリム童話とは大まかな流れが同じながら、それぞれの展開に至る理由がおよそ逐一異なり、個人的にはそのどれもが心地よかったです。たとえば、グリム童話ではいばらが「城が全然見えなくな」るくらいに生い茂り、第2版以降では「屋根の上の旗すら見えないほど」とわざわざ描写が追加されます。それでは百年後に誰もが城を忘れてしまうだろうし、王子が城と姫に興味を持つきっかけも得にくいのではという疑問は前回の記事で書きました。

対してペロー童話では、いばらが姫の眠る塔の先端だけは遠くから見える程度に生い茂り、百年後に王子は塔の先端を見て興味を持ち人に尋ねるという納得のいく展開。ほとんどの人は適当な噂話しか語れず、ただひとり、50年以上前に父親から聞いたことを覚えていた老人だけが真相を王子に話すことができたというのも、伝承の性質をよく踏まえた上で百年の経過がよく示されています。

グリム童話との違いで特に好きなのが、死の予言を緩和する仙女が「百年後に王子様が目覚めさせてくれる」と明言することで王子の存在に必然性が持たされるところ、それでいて王子は眠る姫に跪くと姫が目を覚まし、「眠った相手に勝手にキスする」という展開がないところ、そして百年の眠りに王と女王は除外され彼らの人生においては死ぬまで姫が失われており、不可抗力とはいえ仙女に無礼を働いた報いをきっちり受けているところです。王と王妃が健在なら百年間の国も問題なかろうと思いやすいところも気持ち良い。

◉ 新展開:人喰い姑との攻防戦

グリム童話との一番の違いは、いばら姫が結婚しても話が終わらないところです。王子の母親は人食い族でした! 王子の留守中に姫も生まれた子ども2人も食べちゃうぞ! という後日譚があるところ。突然の血なまぐさい展開に「穏和なペロー童話とは?」と戸惑いも覚えますが、この後日譚のおかげでやっと姫が主人公の面目を躍如したような印象を覚えました。

子ども時代、不可抗力とはいえ父の不手際で命を落としかけた姫は、代理母的存在である仙女の助けによって命を繋ぎます。そして結婚し、子どもも生まれ、母になった時、改めて己と子どもに命の危機が訪れますが、今度は自らの意思を示すことで何とか間を繋ぎ、再び王子に救われ、今度こそは己や子の命を狙う存在が打倒される。前半と後半が見事な“対句”になっています。

そして対句として姫の行動を見るとなかなかに面白い。前半では仙女たちの予言とおりに成長し、眠り、目覚めるだけでしたが、後半でも姑が自分を食べたがっていると聞かされて姫はただ受け入れます。一貫して姫は自分に降りかかる運命に従う姿勢を示し、それで命を繋いでいるのは父権社会的に見れば「意志薄弱な女が男にとって都合が良い」ということになるのでしょうが、古い信仰形態から見ると運命の女神に愛された女(巫女)は死すら静かに従うという、常人には畏怖を抱かせる姿のように感じます。後者の見方の場合、死を受け入れる姫に前言を撤回して匿うことにする料理人は「姫が逆らわなかったから自分の支配下にある存在として守ることにした」ではなく「巫女の神聖さに畏怖を抱いて姑から鞍替えした」となりそうです。

とは言え、最終的な解決の鍵が今回も王子(この時は王になっている)なのは、やはり父権社会の表れとみなすべきでしょうか。王が現れた途端、母親が何の説明も弁解もなくすべての思惑を放り投げて自死する展開を「母殺しを回避するために考えられた描写」とする論文もありましたが、個人的には父権制の絶対感を見ましたし、変に出しゃばらないことで話の焦点が嫁と姑の対立からブレない効果もあって良かったかと。あるいは単に王子の登場で姑は為すすべもなく自滅したのではなく、己に従っていたはずの周囲の人間が誰も自分のために王子へ弁明することもなかったため、孤立無援を悟って自ら終わらせたと解すべきかもしれません。

後日談を嫁姑問題として読んだ場合、姑が嫁いびりの一環で殺意を覚えるまではわかるものの、嫁、さらに孫まで食べたがることには違和感を覚えます。食人の目的は大きく分けて親愛、支配、薬用や飢餓対応の三つがあるそうですが、この場合は支配なんでしょうか。食べる行為には一体化するという要素もあり、姑が嫁と一つになりたいと思うわけはなく、相手の要素を取り込みたいと思っているような描写も見当たりません。(白雪姫の母は姫の肝臓と肺を食べたがりますが、姫の美を妬んでいたので分かりやすくはあるのです。)

無理やり考えるなら母親が息子を恋人代わりにしてしまうことはよくあるそうで、ならば嫁を食べることで息子の伴侶としての地位を取り込みたがったと考えることは可能です。その文脈なら想い人(息子)と恋敵(嫁)の間にできた子どもを食べたがる動機も「自分の子として産み直したい」などで成立しそうですが、姑が息子に“いきすぎた愛情”を抱いているような描写は一切なく、言いがかりの域を出ません。

人喰い母を持つ王子に人喰い要素がないあたり、母の特徴は受け継がれない≒子はあくまで父の子という世界観を感じます。姫も父王の不手際で百年の眠りにつきました。であれば姑にとっても孫ばあくまで息子の子であり後継者のはずです。そんな相手に嫁との確執経由で害意を抱くのは不自然に感じます。

単に人食い種族だから食べたくなっただけという理解に留めておくのが素直な読み方でしょうか。ですがこれまでは食欲を我慢できていたようで、なぜ嫁と孫2人にだけ行動に移してしまうのかという疑問は残ります。そのへんの使用人やその子どもを食べるほうが遥かに楽で後腐れもないはずです。なんて、我ながら面倒な思考をしているなと思っていましたが後日の記事で書きますが疑問は解決したので無駄な思考でもなかったようです。

姫の方に視点を移します。姑──拡大解釈してハラスメント加害者への対応例と見るなら、料理人(加害者から被害を受けている他者)に思いやりを示して味方につける、夫(家父長≒公権力)を巻き込む、というところでしょうか。ただし、料理人はいわゆる“フライングモンキー”……ハラスメント加害者の手先に比定されます。フラモンはわりとハラスメント加害者に“呑まれ済み”なことも多いらしく、思いやりを示したところで味方につけられないどころか加害を正当化される危険性もあり、見極めが必要そうです。やはり(まともに機能している)公権力に訴えるのが正攻法か。

◉ 「白雪姫」の近縁として

昔話において眠りと死は同義のため「眠れる美女」と「白雪姫」は同質の物語とは研究書でよく指摘されています。ペロー「眠れる森の美女」における眠りについた姫の美しさを強調する描写は、死んでなお体から生気が失われない白雪姫と重なる印象がありました。そう思って見ると、“母”に命を狙われ、庇護者である男性(父王・小人)が目を離した隙に死≒眠りに陥るという共通点もあるし、料理人が王子の母親に命じられたとおり姫の娘を殺そうとするもあまり無邪気に懐いてくるので包丁を取り落として泣き崩れるシーンはディズニー版「白雪姫」で女王の命を受けた男と白雪姫のシーンと通じるものがある気も。

そういえばギリシア神話においてはやはり祝宴に呼ばれなかった女神が宴席に乗り込んで黄金の林檎を「最も美しい女神へ」と投げ込んだことで大戦争に発展するという話があり、「いばら姫」や「眠れる森の美女」で招かれなかった仙女(かしこい女)と近縁に思われます。林檎と美といえば「白雪姫」で、私が想定する以上にふたつの話は底の方で繋がっているのかもしれません。

■ バレエ「眠れる森の美女」

メルヘンのバージョン確認はディズニーをゴールに据えているのですが、ペロー童話とディズニーの間にバレエが入りそうなのでAmazonで視聴しました。2011年11月モスクワはボリショイ劇場での公演だそうで。バレエ自体の初演は1890年、グリム童話の最終版、第7版の刊行から33年後のことです。

「ヘンゼルとグレーテル」のオペラに続きバレエも恐らく初観劇でした。台詞も歌もないので内容を理解できるか不安でしたが、原作にあたるだろうペロー版を読んでおいたからおよその筋書きが察せられるのと、意外と動きや演出だけでも理解できるもので、頭は使いますがそれも含めて面白かったです。絞首刑のジェスチャーがわかった時はちょっと嬉しかった。

なお、「ヘンゼルとグレーテル」と同じくフンパーディンクによってオペラ「いばら姫」も作られたようですが、検索してみたところ楽曲の音源しか見当たらなかったのでそちらは保留にします。

ペロー版の後半戦(姑との確執)はカットして、オーロラ姫(いばら姫)が目覚めて王子と結婚するまでの話になっていました。王子のキスで目覚めるのもグリム版からの流用でしょうか。

バレエ版で特に好きなのは、オーロラ姫が年頃になって世界中から求婚者が現れても誰ともしっくり来ないという描写が入っているところです。この描写だけでだいぶ姫のキャラが立ち、今まで触れた中で一番好きなバージョンの「眠れる美女」説話にまでなりました。

後世のアレンジなのかわかりませんが、この公演では王子も王子でどうも同時代の女性とは関係構築が難航しているような描写もありました。互いが百年という時空を超えた運命の相手だというストーリーが強調されていて、すごい好みではしゃいでしまった。今まで同時代の相手とは踊りも冴えなかった二人が出会って伸び伸びと踊るようになるのは感慨深かった。運命。衣装も百年前と百年後でガラッと変わるのが年月の移り変わりを感じさせて良い。

王子役の人はアメリカ人とのことで、あまり人種や国民性を云々するのも何ですが、ヨーロッパ諸国と比較して歴史の浅いアメリカ人が演じることで王子が新時代の人という雰囲気が出ていたように感じられて、個人的にこれもすごい良かった。大道具も豪奢で素晴らしかった。衛兵とか多数の“その他の人たち”が脇に控えているのも城の賑やかさを思わされました。

招かれざる客が招かれた妖精とはまったく異質な魔女として描かれ、姫に糸巻き棒に触るのを促す老婆と魔女が同一人物として描かれていることは前回の記事でも少し触れました。こうした改変は時代性に加えて、言葉で説明できない分、視覚的なわかりやすさを優先すればこうなるかと納得。妖精と魔女の贈り物が既に果たされた予言ではなく、王子が姫を目覚めさせる瞬間まで対立し拮抗し続けていたような描写は話に緊張感を与えていて面白かったです。

他の登場人物としては、姫の城に仕えていた大臣ぽい人が『リトル・マーメイド』のセバスチャンみたいな、有能で信頼がおける上にコメディチックで場を和ませてくれる感じがして好きでした。結婚式に他の童話の主人公たちがかけつけてお祝いしてくれるのもかわいい。しかし人選がわからない。なぜ赤ずきんと狼がいる。

■ 参考文献

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@kmgtr
心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ