表題は『国際昔話話型カタログ』に従いましたが、文献によっていばら姫、野ばら姫、ねむり姫、眠れる森の美女などさまざまな呼ばれ方をしていて検索も一苦労です。
なお年代順に追った方が良いのはわかっていますが、グリム童話に軸を置いて可能な範囲で遡り、一旦の締めにディズニーを観るスタイルでやっています。
また、本記事ではグリム童話を主体にして云々しましたが、他の類話の要素も盛り込まれています。
■ グリム童話「いばら姫」
◉ 運命の女神と英雄たちの物語
どこに主眼を置いて読むべきかちょっと悩む話でした。タイトルのとおり姫を主人公として見た場合、彼女が主体的に動くのは両親の不在中、それも禁を犯すとか発生した問題に取り組むとかそういうことも一切なく、むしろ予言に規定されたとおりに動くだけ。“キャラ”が弱く、話の印象も稀薄に感じられます。
そのため、さまざまな研究書を読んでもどうもしっくり来ないことが多く。そこでふと視点を変えて父王と王子に目を向けると俄然話が際立ってきました。
13人目のかしこい女を招かなかったがために娘の死(→百年の眠り)を予言されてしまった王は、実現を回避するために手を尽くすが肝心な時に娘から目を離したことから成就してしまい、その瞬間ちょうど帰城した自分も眠りについてしまう。
そして目覚めの時と予言されたちょうど百年後、眠る姫の話を聞き恐れず立ち向かった王子は、難なく城に入り、目覚めの予言を成就させる役を得て、姫と結ばれる。
「いばら姫」は13番目のかしこい女の予言に抗うも成就させる羽目になった王と、死を百年の眠りに緩和した12番目のかしこい女の予言を成就させた王子の、つまりかしこい女たちの予言に振り回された男たちの物語であり、いばら姫はそれらを繋ぐ“装置”だとみなしたら、わかりやすいし面白い話と感じました。
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野村泫は“かしこい女”を以下のように説明しています。
ドイツ語で「かしこい女」weise Frau というのは、たんに「頭がいい女」というだけでなく、「助産婦」とか「女占い師」をさしていましたが、(略)もとをただせば、これは神話の運命の女神にまでさかのぼるものです。ヤーコプ・グリムは『ドイツ神話学』のなかで、「かしこい女」たちは神と人間との中間にある存在で、運命を見とおす叡智と超自然的な力をそなえていて、人間が生まれるときにあらわれて運命を予言したり、才能をあたえたりし、あるいはまた戦いが負けそうなときに加勢して勝たせたりする、と言っています。
──『決定版 完訳グリム童話集』P31
実際に、現存最古の「眠れる美女」説話と目される『ペルスフォレ』「トロワリュスとゼランディーヌの物語」ではまさに運命の女神テミスの不興を買って「亜麻糸の繊維(刺)が指に刺さって眠る」と予言されるそうです。(余談ながらその後に愛の女神ヴィーナスが「やがて繊維が引き抜かれて万事うまくいく」と予言してくれるそうで、グリム童話の王子様のキスで目覚め結婚して幸せに暮らすという結末はその流れに依るのかもしれません。)
運命といえば、この話は偶然の連鎖とそれによる予言の成就が重ねて描かれています。たまたま食器セットが足りなかったから招かなかったかしこい女の怒りを被って王は娘の死を贈られる。招いた12番目のかしこい女はたまたま“贈り物”をまだ授けていなかったから死を百年の眠りに緩和する。それでも王は予言の成就を避けるべく手を尽くしますが、姫が15歳になった時に王はたまたま城を空け、その隙に姫は城を歩き回り、たまたま出会った老婆は王の禁じた糸紡ぎ棒をたまたま持っていて、興味を持った姫が触れてみたらたまたま指を刺してしまい、予言が実現してしまうそのタイミングでたまたま帰ってきた王も城もろともに眠りについてしまう。そして眠りが解けると予言された百年後にたまたま城の近くにやって来た王子が城を訪れ、予言の成就を果たします。
この話において王の努力は無為に帰します。王子もそれまでの挑戦者と比べて特に優れた資質があったと語られるわけではなく、単にタイミングが良かっただけです。現代の感覚だと味気なく、だからこそディズニーは竜退治など華々しい活躍シーンを追加したのでしょう。
けれどこれが「運命の女神」の手の中の話と見れば、これで良い、むしろこうでなくてはならないのでしょう。であればこそ、いばら姫も美しく育ち、15歳で紡錘に自ら近づき指を刺し、百年の眠りにつき、目覚めるという、予言されたとおりの行動だけを取ることに意義が生まれます。
第2版以降では姫が糸紡ぎ棒に触れた時「呪いが本当になって」という記述が加わります。これによって、13番目のかしこい女の予言は12人のかしこい女たちの“贈り物”とは異質のものと定義づけられ、姫が指を刺したことも偶然でなく作為的なものに変わり、そしてこの瞬間以外のもの──王の努力は、呪い、予言、運命の範疇外になります。
これは当時の社会通念においてかしこい女たちの地位が落ちた証左に見えます。この流れで行き着く先は「呪い」をかけた13番目のかしこい女が魔女となって英雄に討たれる“運命”を負うことです。実際にバレエやディズニーなど後世の作品ではその“運命”が実現しますが、グリム童話においては他の12人と同じかしこい女であるまま、何とか逃げ切れたようです。
◉ 過保護という虐待か、適切なしつけか
そんなわけで“主役”の一人である父王を深堀りしていきます。これが運命の女神の手の中の話ならば何をしても結末は変わらない、あるいはこの展開すら手の中とも読めますが、
紡錘に指を刺して死ぬ(眠る)予言の発動期間が「15歳の時」に限定されているんだから、父王は直ちに紡錘を廃棄・焼却・封印させるのでなく、14歳まで徹底的に紡錘に触らせて見るのも飽き飽きするくらい扱いに慣れさせておいて、該当する期間だけ使用停止したほうが良かったのでは?
今まで見たこともないものを多感な年頃の子が見たら興味津々になって触ってみたくなるのも、そして経験がない以上うっかり怪我をするのも、当たり前のことです。王命や法律に人民が一人残らず従い生きるなんてことありえないし、国中の紡錘の処理を命じたところでリスクは排除しきれません。もっと踏み込んで言えば、15年も禁止したら技術が失われるし国内の経済や文化、民衆の生活どころか生命にかかわります。
いばら姫が予言のことをまったく知らない様子なのもどうかと思う。四六時中誰かがついていられるわけでなし(実際に事件は両親の留守中に起きています)、本人の人生に関わることなんだからちゃんと言い含めておくべきだったのでは。それこそが正しい愛情であり養育なのでは。
子の将来を思うあまり親にとって危険と感じるものから極力遠ざけて育てたいというのはよくある話ですが、その子が自力で対処できるようになるための経験を身につけることから遠ざけることにもつながります。それは行き過ぎれば虐待にもなり得るのではないでしょうか。
親のツケで危うく15歳で命を落とし、免れても百年眠る羽目になるいばら姫の顛末は、親の虐待の影響に振り回されて困難な人生を送りがちな被虐待児を思わせます。第三者の執り成しで幸せな結婚ができて良かったね。
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父王による予言への反応は虐待に繋がるのではという見方はあくまで現代日本的なもので、当時のドイツではまさに“無菌室”で子どもを育てるのを広く是とされたからこそのこの話なのかなとも思います。
たとえば修道院における中世の教育は、子どもたちからできるだけ悪魔をたたき出すことであった。オーギュスト・ヘルマン・フランクによって基礎が置かれた十八世紀の宗教敬虔主義の方法は、子どもは監視され、罰されなければならないという考えに由来する。放任すれば、子どもはただ悪いことをするだけである。
──『悪とメルヘン─私たちを成長させる〈悪〉とは?』イングリット・リーデル「沈黙を心得た鍛冶屋の娘─受難の問題について」
であれば父王が娘の命にかかわる糸紡ぎ棒を15歳を待たず徹底的に「たたき出す」のも、にもかかわらず姫が両親の「監視」が行き届かない留守中に禁じられた紡錘に触れるという「悪いこと」をするのも、当然の成り行きとして読むべきでしょう。ならばいばら姫の死は当時からすれば正当な「罰」であり、百年の眠りは「幸運な減刑」なのかもしれません。
曖昧な記憶と知識ですが、近代日本はドイツ憲法を参考にし、ドイツ憲法の基礎に昔話があることを知って国内の昔話採集を盛んに行い民俗学が発展した、はずです。太平洋戦争に際しては同盟を結ぶくらいには密接な関係だったわけで、そういえば私の身内にもまさに家父長が目を離せば当たり前に怠けてろくなことをしない女と、女はそういうものだと厳しく監視下に置きたがる男が世代を超えて存在していました。新世代の方については「倫理観をアップデート、せめて個別の認識と対応をしてくれ」とも思いましたがそれはさておき、我が身内の性質は意外に当時のドイツ文化の影響による人格形成なのかもしれません。となると父王の極端な対応どころかいばら姫の振る舞いすらも、あまり異国の他人事とは言い切れなさそうな気がしてきました。
そういえば王子も老人が親切に止めるのも聞かず城へ挑みます。余人が恐れ止めることに果敢に立ち向かうのも、それによって運命の女神に勝利を授けられるのも古今東西の英雄の資質なので当然のものです。第2版以降に王子の行動に「若者は年寄りの言う事を聞かないものだ」という補足のような記述が追加されたことに違和感がありましたが、これも「子どもとは悪事をなすものだ」という当時の価値観に基づく追加だったのかもしれません。
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ですが、いばら姫は親の目の届かないところで紡錘に指を刺してしまっても、王子は親切な老人の忠告を無視しても、幸せな結婚へと辿り着いています。どうも当時の価値観とは反する結末を迎えているように見えます。
グリム兄弟の編纂と改訂の方針として「古いドイツ文化へ」というのがあったそうです。先述した価値観がキリスト教精神に基づくものならば、グリム兄弟はこの価値観を打開したかったのかもしれません。そういえば先述した身内の古い世代のほうはキリスト教校出身者でした。
「いばら姫」の物語には「そんなに徹底して子どもを危険から遠ざけようとしても、口うるさくしつけても、娘(いばら姫)も若者(王子)も言うことを聞かないものだ。けれど、それでもちゃんと運命に導かれて幸福をつかめるものだから、安心して放任しなさい」という親への訓示が込められていた──そんなふうに見ることもできそうです。
◉ 「紡錘に指を/亜麻糸を指に、刺して眠る」とは
グリム童話では一貫していばら姫は紡錘に指を、一部の類話では紡錘に巻きつけられた亜麻糸の繊維を指に、刺して眠りにつきます。なぜ紡錘や亜麻糸なのかについて、研究分野では以下の分析が主流のようです。
亜麻は豊穣や多産のシンボルとされる。(略)また、糸紡ぎはギリシア・ローマ時代から女性の仕事とされ、糸巻き棒は女性のシンボルとされた。(略)
いずれにせよ王女は女性としての順調な成熟を一時的に阻害され、仮死状態に陥ったのである。
他にも、いや糸紡ぎ棒は男性器のシンボルだとか、まず歴史的に糸紡ぎ部屋は年頃の男女の集会場所となってしばしば風紀の乱れの温床として取り締まられてきたとか、色々言われていますが一環として思春期を迎えた少女の性的関心とその“失敗”の象徴とする向きが強いようです。
その流れで、思わぬ性的な傷つきで閉じこもり死んだように眠るのは天岩戸伝説とも通じるという指摘もあります。類話によってはいばら姫がオーロラ姫など太陽と縁のある名がついているのもたしかに気になるところ。
一方で否定的意見も頷けるものがあります。
もしも紡錘や羅刹の爪が男性器の暗示だったのなら、彼女たちはそれを足や腰に刺すべきではないのだろうか。また、(略)紡錘を少女に渡すのは母神的な老婆である。男性ではない。加えて、グリム版やペロー版以外の眠り姫たちはみんな、眠っている間はずっと棘を手に刺したままでいる。それが抜けると目を覚ます。流石に、こうした効果をもたらすものを男性器とみなすのは困難ではないだろうか。
(略)
大切なのは、男が訪ねた時に娘が《眠っている》というシチュエーションを成立させることではないのか。
たしかに、上記の説では「なぜ指か」の説明が抜け落ちています。ですがこれはこれで、「じゃあなんで紡錘に指を刺したり亜麻糸で指を刺したりして眠るの?」という話に戻ってしまいます。
素人としてはまったくわかりませんが、敢えて考えるなら、糸紡ぎが日常風景だった生活文化の中でこそ意味の通る描写である可能性が否定できません。類話を見るに、どうもそういうありふれたものでうっかり死ぬ異常性を運命としてしまった赤子の悲運として紡錘や亜麻糸が機能しているように思われます。
「亜麻の匂いに耐えられない子でもいいから、私に娘を授けてください!」
このように亜麻の匂いについて話しながら、たとえその女の子が亜麻の鎮痛剤の匂いに喉を掴まれて殺されてしまうほどに繊細で敏感だったとしても、自分には娘が必要なのだと言うのだった。
──「円環伝承」いばら姫の物語を読む・後半『千夜一夜物語』「第九の警備頭の話」
ならば糸紡ぎとはまったく無縁な生活をしている私が紡錘や亜麻糸だけ見て云々しても解らしい解にたどり着けるわけがない。逆手に取って、自分にとって日常のありふれた描写に変更してみれば良い。つまりこう。
「15歳でスマホを顔面に落として死ね」
「いや、落として百年眠ることにしましょう」
父親である総理大臣は予言を恐れて国中のスマホを処分させますが娘が高校生になって両親が不在の時にたまたまスマホをまだ持ってるインターネット老人に出くわし、興味を持って夢中で触りまくって疲れて横になってそれでも見ていたらつい手が滑って顔面に落としてしまいジ・エンド。百年後またお会いしましょう。
こういうことでは。
急にコメディじみてきたし、招かれなったのそんなに癪に障ったんだな感が漂ってきました。昔話が民間の息抜きにも語られたことを考えると案外こんなものなのかもしれません。為政者層への風刺も込みで。
なおスマホはインターネットという異界と繋がる道具だし、ずっとSNSという社交の場(糸紡ぎ部屋に相当)を禁止されて親の言う事など聞かない思春期に華々しくデビューなんてしたらそりゃうっかり事故を起こして引きこもり化待ったなしだし、ろくなネットリテラシーを持たないまま知り合った異性とオフ会してみたら(略)なんてことも余裕であり得るので、糸紡ぎ棒や亜麻糸の象徴するものとその分析ともうまく対応するような気がしないでもないです。
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ちなみにいばらも類話によってはまったく出てこないながらさまざまな分析がなされていますが、個人的には「此岸と彼岸を隔て彼岸の国を隠すもの」と見る向きが好きです。この場合、王は女神への不手際で姫(とついでに城と王自身も)が年頃になって女神の領する異界に呑み込まれたことになるし、王子は女神に愛され異界への侵入とそこでの姫の救出をやってのける許しを得られたとも読めて俄然好きな話になります。イザナギやオルフェウスに連なる珍しい成功例では!
◉ より“リアル”な描写へ
グリム童話「いばら姫」に関しては版を重ねても内容に大きな改変は施されていませんが、その分こまごまとした描写の変更が目につきました。先述した、13番目のかしこい女の贈り物が第2版以降は「呪い」とされること、王子が老人の忠告を無視するのを「若者はそういうものだ」とされることなどです。
他にも、城を覆い隠すいばらの成長速度が「年々」と、明らかに通常の植物のスピードになる。そして成長したいばらが「城の屋根の上にたなびく旗すら覆い隠すよう生い茂った」と詳しく描写されるようになる。というものがありました。
これも当時の時代性が見て取れそうですが、あまり好ましくない改訂に思えます。成長速度についてはまぁ城中の人間が眠りについているなら整備する人もいなくてそのまま城は埋もれたとという描写ともみなせますが、百年の眠りという非現実的な現象に対応している以上はいばらも現実的な成長速度を持つべきではありません。そして城の覆い方ですが、そもそもがエーレンベルク稿から「お城はぜんぜん見えなくなりました」という描写なので不要な追加に感じますし、逆に旗くらいは見えていたという改訂にしたほうが百年経っても王子が興味を示すよすがになるし、周辺の住民もそこに何があったか忘れにくくなって説明できるたと説得力が増すように感じます。
個人的に頭が痛くなったのは「13番目のかしこい女が退室してから呪いへの対策が講じられた」とか、王子が城に向かうといばらが道を開けたことについて「ちょうど百年経って姫の目覚めが迫っていたから」とかいう説明が追加されていたところでした。「退室したと書かれていない以上は13番目のかしこい女の目の前で対策が講じられた可能性も排除できない」「12人目のかしこい女はたしかに『百年の眠りについただけ』と呪いを緩和したが、王子が城に入れた理由がそうとまでは書かれてないから断定できない」「これは記述の不足だ」という指摘への対応が想定されますし、そうした指摘が成立するのも運命の女神とかしこい女の地位が失墜した時代になったという見方もできるでしょう、が、
国語の成績わるかったんですか?(暴言)
敢えて書かれていないことを文脈から読解する経験も子どもの教育には必要だし、その観点からすれば書いてあるも同然なことをさらに明記させてどうするのかと、私は、思うん、です、が、そのへんは文化性にも依るだろうし、城の屋根の上の旗も見えなくなったという説明が追加されたのも同じ流れだろうし、現代日本でもすべてモノローグで過剰と感じるほど説明する『鬼滅の刃』が人気だったし、たしかに広く読まれる本にするなら“バリアフリー”は大切で、んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんん
やっぱり私は“子どもと家庭”の手が及んでいない初版、何ならエーレンベルク稿が好きです!
◉ 塔の鍵
特に気になった改変に、塔の鍵の描写がありました。エーレンベルク稿だと「黄色い鍵」ですが、初版以降の確認した範囲では一貫して「錆びついた鍵」に変更されていました。錆びつくほど誰も使わない、打ち捨てられた部屋だからこそ王命が行き届かず糸巻き棒が残っていたんだろうと解釈することもできはするものの、個人的には黄色の意義も大事だったんじゃないかと、惜しい改変のようにも感じられます。
キリスト教において黄色はイエスの弟子でありながら裏切ったイスカリオテのユダの衣装の色として好まない文化があるそうです。そしてイスカリオテのユダは最後の晩餐の時にイエスを含めて13番目の席についていたから13が不吉な数字として嫌われるのだとか。
王が姫の誕生を祝おうとするも饗応用の金の食器が12セットしかなかったのは、13という数字を避けてのことだと考えられます。そして招かれざる13番目のかしこい女が宴にやってきた時、まさに不吉なことが起きてしまいました。
塔の老婆は13番目のかしこい女とは無関係の存在でしょうが(バレエやディズニーだと同一人物とされますが確認した限りグリム童話以前ではそれを想像させる記述は見られません)、姫が見つけた扉に「黄色い鍵が刺さっていた」と聞いた瞬間、その文化圏の人であれば部屋で起こることは予感できたと思うんです。そういう体験が失われたのはもったいないなぁと。
先述したとおりグリム兄弟は改訂に当たってキリスト教的要素を排す目的もあったようなので、黄色い鍵から錆びついた鍵に変更されたのかもしれません。それなら食器も12セットから7セットに改訂しても良かったのではとも思うのですが、「招かれざる13番目の客がもたらす不吉」は北欧神話にもある要素だそうです。それなら12は残す必要があったということでしょうか。
ちなみに13と黄色とイスカリオテのユダを否定的に述べましたが、13については完成された秩序を示す12に1が加わることで場が動き出すとか最終段階に入るとかで幸運の数字とする向きもあるそうです。黄色もユダヤ教では結婚や幸福を象徴する縁起の良い色だったとか。イスカリオテのユダについては引用。
近代のキリスト教解釈学者の中には、ユダは単にイエスを否定したのではなく、イエスが最終的な行為を遂行し、全権を持って顕現できるように刺激し、そうさせようとしただけだと考える人たちがいる。
──『悪とメルヘン』イングリット・リーデル「沈黙を心得た鍛冶屋の娘─受難の問題について」
この考えを踏まえながら13番目のかしこい女は12人のかしこい女と同質の存在という点を考えると、彼女の予言によっていばら姫は本来なら出会えない百年後の“運命の王子様”に出会うことを運命づけられたとみなすこともできます。ならば13番目のかしこい女の予言も、12人のそれと何ら変わらない、いばら姫の幸福を約する“贈り物”であり、黄色い鍵は幸福な結婚を手にするための鍵と見ることもできそうです。
呪いと祝いは元来同義という考えは日本にもありました。この話も“禍福は糾える縄の如し”だったのかもしれず、この記事の冒頭で述べた話へと戻ったところで一旦の締めとします。