↓前記事
■ 『ペンタメローネ』「日と月とターリア」
ディズニーが時代を下るゴールラインなら『ペンタメローネ』は時代を遡るひとまずのゴールラインに据えています。大まかなストーリーラインはペロー童話に通じるものの、グリム童話やペロー童話とは際立った違いがいくつも見られました。
たとえば後半で殺害を企図されるターリア(いばら姫)が、弁明をし、受け入れられないとわかるや服を脱ぐ猶予を乞い、1枚ずつ脱ぐごとに叫び声を上げ、その声を聞きつけて王がやって来て場を収めるという展開がありました。ペロー童話で姫は姑の殺意をただ受け入れることで料理人の庇護を得ますが、ターリアは状況を打破するために知恵を巡らせ行動しているところが読んでいて気持ちが良い。
以下も違いに焦点を当てながら云々していきます。
◉ 予祝でなく予測としての予言
グリム童話もペロー童話も、姫の誕生に際してかしこい女(仙女)は王のもてなしに応じて「姫がある年齢で死ぬように」「いえ百年眠りにつくように」と呪詛や祝福を送り、そしてそれらの言葉が必ず実現していました。言わば予祝としての予言が行なわれていたのです。
対して「日と月とターリア」では、単に国中の知恵者が占い、相談し、検討を重ねた結果、総意として「姫君は亜麻に混ざった何かのトゲのために大そう危険な目にあうだろう」と宣言される──いわば予測としての予言が行なわれます。
最初は単純に予測が古い形で予祝が新しい形なのかと考えていましたが、現存最古の「眠れる美女」説話と目される『ペルスフォレ』「トロワリュスとゼランディーヌの物語」では、やはり運命の女神に失礼を働いたことで予祝を贈られています。なら「日と月とターリア」だけが異例なのかと言うと、私見ではそうではなく過渡期のように感じます。
最古の「トロワリュスとゼランディーヌの物語」が運命の女神自身がそこにいて、王は直接もてなし、ですが無礼を咎められて娘に不運な予祝を贈られています。次の時代の「日と月とターリア」では運命の女神自身は存在感を見せず、知恵者たちがあらゆる手段を用いて運命の女神の意思を読み解き父王に伝えている、言わば通訳を行なっています。そしてペロー童話では神と人間の中間的存在だろう仙女がかつての運命の女神と同じ役割を担い、グリム童話では「かしこい女」というもっと人間に近い存在に変わったのかなと。運命の女神への信仰が人間社会から忘れられていく、あるいは女神の零落する過程が読み取れるように思います。
◉ 姫は王子様では目覚めない
予言通りトゲが指に刺さったターリアは昏倒しますが(この時に居合わせた老婆が驚いて逃亡するのもペロー童話よりは酷いですが人間味のリアリティは高い)、王は死んだものと思い、悲しみを忘れるために姫だけを森の館に残して立ち去ってしまいます。
そしてここからがグリム童話やペロー童話と大きく違うところでして。異国の王が偶然館を訪れてターリアを見つけ、何をしても反応を示さないことに味をしめて口づけ、でなく睡眠姦し、そのまま去ってターリアを忘れるという。
ターリアは眠ったまま男女の双子を産みます。妖精に助けられながら育った双子の片方が母乳を飲もうとしてターリアの指を強く吸い、その拍子でトゲが抜けてやっと目が覚める。そういう展開です。
呆気に取られると同時に、変なリアリティがあってこれぞ昔話感もあり。と同時にこんなことも思いました。グリム童話における王子のキスも、ペロー童話における姫が目覚めた後の長時間に渡る語り合いも、性交渉の代替表現なのでは…………。
そしてもう一つ、ターリアを目覚めさせるのが伴侶となる男でなく自分の子というところが興味深い。グリム、ペローともに姫は父王の娘として眠りにつき、王子を得て目覚めます。そしてグリム童話ではそのまま結婚して妻となりハッピーエンド、ペロー童話では妻、母と移行してから姑との対立を経てハッピーエンドですが、この「日と月とターリア」では娘から一足飛びで母になることで目覚めを得ています。
マックス・リューティは『昔話の本質と解釈』において、「眠れる美女」の眠り期間は、思春期の少年少女の内面的変化期間において必要な孤立の時間の象徴というような説明をしました。この期間を経て成熟した大人へと変化するというような分析でしたが、「日と月とターリア」を見ると「母は強し」とか「女が変わるのは男でなく子を得た時」という観念を思い出します。
◉ “性悪”正妻をぶっ飛ばせ
ターリアと交わり速攻で忘れ去っていた異国の王は、やがてターリアを思い出して館を再訪し、双子の存在を喜び、ターリアとも「意気投合」しますが、新しい問題が発生します。王は妻帯者でした。
王はターリアの館に足繁く通いつつ、自分の館ではターリアと双子の話ばかりします。やがてターリアと双子は王の正妻に恨まれ殺害……具体的には双子を煮て王に食わせ、ターリアを火あぶりにすることを企図されます。「そりゃそうなる」でしかない。ですが結末はもちろん(?)この“性悪”正妻が王によって逆に火あぶりにされ、王は無事にターリアを後妻に迎え双子と共に幸せに暮らしました、めでたしめでたしとなります。
言わば不倫相手のターリア、何より王に正当性がなさすぎて首を傾げざるを得ないのですが、そもそも『ペンタメローネ』の大枠は「すんでのところで横槍を入れて男を奪った女の罪を知らしめるため物語を語る」というもので、この「日と月とターリア」もその物語のひとつでした。ならこの展開で良いのかもしれない。
当時の世相からしても、正妻こそが悪役のようです。
現代の読者からはきわめて不誠実に見える王の行動だが、中世の男性社会では高貴の男性の精力絶倫ぶりは非難の対象ではなく、むしろ称賛されるものであったという。特に相手の女性の身分が高く美しければ大目に見られたとされる。また高貴な身分の私生児は血筋ゆえにある種の特権を得ていたらしい。とすれば、これは当時ならば王の自慢話と受け取られていたにちがいない。
──鈴木万里「「眠り姫」の変遷」
要は王のターリアとの関係は美徳として「称賛」されこそすれ、子も成さず、愛すら育まぬ正妻がターリアと“私生児”を妬み殺害を企図するのは悪であり火刑にされて当然という世界観と。まじかよ。
何にせよ、ペロー童話における「姑が嫁と孫を食べようとする」という筋よりは納得のいく筋に仕上がっています。正妻が不義の子を殺し密通した夫に食わせて糾弾に代え、不倫相手は焼いて殺すことを目論む。とてもわかりやすい。
◉ 人喰い魔女とは何なのか
本筋からは逸れますが、上述の論文には興味深い記述もありました。
一夫一婦制で離婚が認められないキリスト教国で王妃の抹殺を正当化するには、カニバリズムという極端な行為が必要であったことがわかる。
──鈴木万里「「眠り姫」の変遷」
妻を殺してまで世襲制を守るなら離婚か、側室と庶子を認めたほうがまだ人道的なのでは…………と、異教徒としては思ってしまうのですがそれはさておき。
ペロー童話の姑と違い、「日と月とターリア」の正妻自身は食人願望を持っていません。むしろ不倫した夫に食人させようとしているので引っかかる記述ではあるのですが。
ここで一つ考えたい疑問が浮かびました。「なぜ魔女は人を喰うのか」。河合隼雄は、男女問わず持ちうる女性性に象徴される“包含”という機能の負の側面が強調されているのが魔女や山姥などの人喰い鬼女だと説明していました。
それも一つの理由なのでしょう。ですが、社会や個人にとって都合が悪く、けれど排除する名目がない相手に食人という“最大の禁忌”を侵した罪が押しつけられ続け定着したという面もあったのでは。詳しくないので断言できませんが、魔女狩りの風潮とも呼応しているように見えます。食人という罪の押しつけによる他者排除と、異教徒弾圧としての魔女狩りが結びついて、人喰い魔女という概念が発生した可能性はあります。
食人禁忌の厄介なところは、この話のように本人が意図していなくても、誰かに仕組まれたことだとしても、食べた時点で本人が最大の罪人になってしまうところのように感じます。だからこそ「誰かの都合」が通りやすい。「日と月とターリア」の正妻も、“復讐”が成功していれば、夫は最大の罪人として、ターリアは夫を拐かした魔女として、殺害が正当化されたことでしょう。
この視点はとても重要なのかもしれません。性別問わず、罪の内容を問わず、その社会において最大の罪を犯したと糾弾される人がいた時、実際に罪の有無を問うだけで
は止めない。この人を社会悪として排除することで得する人は誰だろう。それだけ極端な罪をかぶせられなければ排除されえないほど、この人は真っ当な人だったのではないか。
であれば何かを最大の禁忌とする考え自体、誰かの都合の積み重ねで成立した「言いがかり」の可能性だってあります。もちろんそれを罪とする社会通念が下地にあってこそ成立する面もありますが、時代や地域、文化が異なればそれを神聖な行為とみなすことだってある、なんでもない行為の場合だってある。そういう多面性を忘れては、何かの、誰かの都合に知らず巻きこまれることにつながるのかもしれません。
では、なぜ食人は禁忌なのでしょう。元々はいつ、どこの、誰にとっての禁忌だったのでしょう。私自身は食人を禁忌としているのでしょうか。
とある物語の中の食人行為が愛と察したことを示して余人にドン引きされた経験はある。けれど自分がする気はなく、言わば他人事としてしか認識できないのが正直なところでしょう。食べないことを是としているなら、それはなぜか。何らかの都合で食べたとき、私は罪の意識に苦しむのでしょうか。そんなことを調べ考えてから改めて物語における人喰いと向き合ったらまた面白いことがわかりそうです、が、そこまでする気概と時間があるかはわかりません。